27.神殿にて
リーフェはアルフォンスに手を引かれて、ひっそりとした神殿を訪れた。
王宮の奥深く―――王族と彼等に許された一握りの者達だけが踏み入れる事のできる聖域。
『静寂』が耳に聞こえるくらい、隔絶された神聖な空間。その内部のあらゆるものが神域と呼ばれるポリオリ山でしか採掘できないと言われる白い輝石で装飾されており、神殿の奥の壁に縦にまっすぐ切り込みを入れたような一筋のスリットから放たれた神々しい光が、何らかのメッセージを示すかのように、薄暗い室内にその白い床をキラキラと輝かせていた。
「王族の正式な婚約式と婚姻式は、ここで行うんだ」
長い年月王宮に通い詰めアルフォンスのかくれんぼに付き合ってきたリーフェだが、この神殿に足を踏み入れたのは初めての事だった。
アルフォンスは政務と遠征の為の軍議の合間を縫って、リーフェとの時間を捻出した。遠征の予定は月六つ分。港からホフマンを目指し一旦沖に出てしまえば、その間一度も互いの顔を見る事はかなわない。だから出立までの出来る限りの時間、彼は彼女との逢瀬を楽しみたかった。
島国であるズワルトゥ国から、ホフマンへの道筋は港から始まる。
海は全てを司る魔物だ。生命を産みだし、育み、簡単に奪っていく……あらゆるものの起源。
無事、ホフマンに辿り着くという絶対的な保証は無い―――ホフマンに着いたら着いたで―――戦場で若い指揮官を狙う刃に掛からないとも限らない。
そして遠征が滞り無く成功したとして、また海を渡って何事も無く戻って来られるかどうか……
しかし、アルフォンスには根拠の無い自信があった。
(俺は波頭を乗り越え、ホフマンの地に足を踏み入る。そして必ずや『巫女姫の国』ホフマン首長国を大陸の蛮族の脅威から解き放ち、兄上の同盟国への優位を盤石なものとし、凱旋を果たす―――そして堂々と、今度こそリーフェを手に入れるんだ)
その決意をより一層堅固なものにする為に、今日はこの神殿でリーフェと誓いを立てたかった。
もっとこの自信を揺るぎ無い確信にまで高めたい。そして彼女にも強く自分と婚姻するという実感を刻みつけたかった。例え六月という長い間、二人が互いの存在を実感する事ができなくても、その絆を失わずにいられるように。
これまでアルフォンスとリーフェの二人は、一月以上顔を合わせないという経験を今までしてこなかった。
(ニークの言う通りだわ)
と、アルフォンスに導かれ神殿にと足を踏み入れたリーフェは、一筋差し込んだ太陽の光に反射する白い輝石で覆われた床に目を落としながら、ふと思い出した。
(この別離の間に、殿下が心変わりされるかもしれない)
彼がリーフェに抱いている執着は、時間を経れば風化する性質のものなのかもしれない。
思春期の少年が遂げる成長は著しい。その時幼い頃から抱いていた執着は―――実は本当の恋心では無いと気付くかもしれない。そしてホフマンの若く美しい女性や、ズワルトゥ王国の釣り合った年齢の令嬢達の存在に気付き、本物の恋を見出すかもしれない。
ふいに切なさが胸に迫り、眩暈がした。
リーフェは遠征で若い指揮官である王弟が無事海を渡れるか、戦場で降り注ぐ矢を、刃を退ける事ができるか―――そればかりを今まで心配していた。けれども、彼の体を失うのではなく心を失う可能性もある……と言う事を改めて今、生々しく意識したのだ。
アレキサンドルが年相応の令嬢と結ばれる事を、家庭教師として姉として、これまで当たり前の事と考えて見守る気持ちを抱いて来た。
しかし一旦、彼の男性としての愛情を得てからそれを失う事をイメージすると、胸が軋むような痛みを感じてしまう―――リーフェは自分の浅ましさに失望した。
つい、握った手に力が入ってしまう。
すると、アルフォンスが返事をするようにその手を強く握り返してきた。
顔を上げると、優しく包み込むような美しい灰色の瞳に捕えられた。
「どうした?」
「いいえ、なんでもありません」
リーフェは首を振った。
弟のようなもの、と言いながらも、彼女は自分に依存しているアルフォンスが、自分より他の存在を第一と考える想像を今まで具体的にしたことが無かった。そういう自分の心理に気付かないよう無意識に蓋をしていたかもしれない。
けれども二人の仲が男女のものと認識された途端、それはいかにも脆く崩れやすい砂上の楼閣のように感じるようになった。
それが不安の正体だ。
(自分は、アレフ様を本当の意味で失いたく無かったのかもしれない。だから、彼を男性として見る事を、無意識に避けてきたのかもしれない)
リーフェは、微かな嫉妬の幻想を見た。
未だ起こってもいない未来を想像して、ヤキモキするなど何と滑稽な事かとおかしくなってしまう。
思わず、ふふっと俯いた小さな唇から笑いが漏れた。
彼女は再び彼を見上げた。
「また、背が伸びました?」
「そのようだな」
彼は成長期だ。一日ごとに、どんどん育つ。
それは止められるものでは無いし、止めなくても良いものだ。
彼の『先生』であった自分が、その成長に嫉妬するなんて。
……と、自分の変化を嗤ってしまう。
(ひょっとすると私もアレフ様と一緒に、まだ成長しているのかもしれないわね。……身長は一向に伸びないけれども)




