1.王子様の先生
アールデルス公爵邸に三つの縁談が申し込まれる一月ほど前―――
アーチ型の大きな窓から明るい日差しが差し込んでいる。その光を受けて輝く白壁を基調とした廊下を、栗色の髪の小柄な少女が歩いていた。それぞれの窓には神話をモチーフにした彫像が設えており、薄茶色と濃い茶色の柔らかい石を使って鹿の子模様に組まれた床にその影を落としている。
少女は勝手知ったる様子で確信を持って進んでいるが、如何せん、両手に持った大荷物の為によろよろと足元がおぼつかない。
リーフェの長い睫毛に縁取られたその零れそうに大きな双眸は父と兄と同じ深緑色だったが、栗色の柔らかい髪は母から譲り受けたものだった。そして小柄な体格も、母譲りである。
一見では、とても二十歳の『嫁ぎ遅れ』間近の成人女性には見えないだろう。よくよく見ても十代の少女にしか見えないかもしれない。
その少女のような容姿の彼女がか細く白い両腕一杯に抱えた荷物は、沢山の書物だった。彼女はその沢山の書物を王宮の書庫から拝借して、今日の目的地である学習室へと急いでいる―――つもりである。ヨロヨロ、フラフラと進む様子が、とても急いでいるようには見えないが。
不意に、その荷物のほとんどが力強い腕に奪われた。
「アレフ様」
荷物を奪ったのは、リーフェより頭一つ大きい少年だった。
日の光が彼の顔の輪郭をけぶる様に輝かせ、彼女は眩しさに目を細めた。
「無理するな。侍従を呼べば良いのに」
「少し欲張ってしまって。お手を煩わせたくありません、お返しください……」
恐れ多いと、リーフェは慌てた。
「学習室まで、あと少しだ。そんな細い腕でフラフラしながら言われてもな。俺は軍でもっと重い物を持たされてるから、これぐらい何ともない」
重量のある書物を沢山引き受けたのに、少年の体軸には少しのぶれも無い。
長い銀髪は光沢のあるリボンで括られ、左肩に流れるように落ちている。希少な灰色の瞳は、キラキラと輝いてリーフェを見て細められた。
嬉しくてしょうがない、といった表情を見て―――リーフェの心もじんわりと温まる。
学習室に辿り着いて、書物を並べる。
「では今日のお勉強……始めましょうか」
「はい、『先生』」
普段彼女を『リーフェ』と名前呼びする少年は、冗談めかしてそう呼んだ。
太陽のような笑顔で答える少年は、まさに臣下臣民から『王宮の太陽』と例えられているアルフォンス=ファン=デ=ヴェールト=ズワルトゥ―――このズワルトゥ王国の国王の年若い弟であった。
リーフェは王立学院の教師を務める傍ら、王弟アルフォンスの家庭教師をもう六年も務めている。
ふと机に肘を付き、課題に集中する余り秀麗な眉を寄せるアルフォンスの、柔らかい銀髪のつむじを見る。銀髪がつくるこの渦は……六年前、彼が八歳の頃から変わらない。
なのに青年になろうとしているその体躯は、すっかりリーフェを追い越してしまった。
がっちりとした肩、細く長い指を持つ手はゴツゴツと大きくなった。かつて少女に見間違われた程美しい顔は、精悍さを帯び始めていた。
その視線に気付いて、目線を上げたアルフォンスとパチっと目があった。
「何?」
彼はほんのりと顔を染めた。
「……大きくなられましたねえ」
満足気に頷くリーフェに、少年は一瞬拗ねたような表情を浮かべたが、いかにも良い事を思いついたように―――ニヤリと嗤った。
「リーフェは縮んだな!」
そんなハズは無い。リーフェの身長は彼と出会った十四歳の時から、一メモリも伸びていないのだから。今度はリーフェが渋面を作った。
「その課題、この砂時計が落ちるまでに終えて下さい」
「ひでぇ!」
「『困難な試練に立ち向かう勇気こそが、我がズワルトゥ王国の王族の証』です」
リーフェは、歴史書に刻まれた、王家の家訓になぞらえて当てこすった。
ズワルトゥ王国の前国王は、二人の王子を授かった。
第一王子フェリクス=ファン=デル=レーデン=ズワルトゥと、第二王子アルフォンス=ファン=デ=ヴェールト=ズワルトゥ。
両者とも王家に伝わる銀髪と灰色の目を持ち、見る者を魅了する美しい容貌を持っている。
聡明で冷静沈着な兄王子はその女神のように気高い容貌を『王宮の月』と例えられ、周囲から心酔されている。一方、直情型だが裏表の無いやんちゃな弟王子は『王宮の太陽』と評され周囲に愛された。二人の関係は良好であった。十二歳の年の差の所為かもしれない。
前王が健康上の理由から退位した時、フェリクスは二十三歳だった。兄を慕うアルフォンスは当時十一歳だったが、兄の地位を確固としたものとし己が彼の臣下に下る意思を広く示すため、貴族の子女が集う王立学院の初等部に入学せず、直接王国軍に仕官する道を選んだ。
アルフォンスは非常に優秀であった。年上の同僚達に混じって厳しい訓練を受けたが、弱音も吐かずに黙々と喰らいついた。感が良く関節が柔らかいため、元より武術向きの体だったらしい。呑み込みの良いやんちゃ坊主は、実力主義の王国軍で先輩達に乱暴に可愛がられるようになった。
特によく彼をかまったのは、フェリクス王子と幼馴染である代々武官を輩出するデ=クヴァイ侯爵家の嫡男であるルトヘル=デ=クヴァイと、過去に何度か王女を降嫁させ王族の血筋を裏から支える役割を持つファン=デーレン公爵家の三男、クラース=ファン=デーレンだった。
二人は良くも悪くも、アルフォンスに多大な影響を与えた。
アルフォンスに喧嘩の仕方に武器の扱い方から諸外国の情勢、王国内各領地の経済状況や軍備情勢、各々の力関係まで指南したのは主にルトヘルである。加えて酒や女性の扱い方、身分を偽って城下をうろつく術を伝授したのは、主にクラースだった。いわば二人は実践の師であった。尤も、悪い遊びを憶えさせた比重の方が大きかったが。
一方、王立学院初等部で教わる理論的な面の師となったのは、王立学院の長を務めるマコヴィチュカと、家庭教師としてほぼ二日に一回、王宮を訪れるリーフェであった。
リーフェは学院を卒業後、王立学院の教師と並行して当時八歳となった第二王子の家庭教師兼話し相手を務める事になった。
一般に知られてはいないが、アルフォンスはその身体能力を凌駕するほど明晰な頭脳を有しており、また一度読んだ本を諳んじる事が出来るほど記憶力に優れていた。学院の教師連中でもアルフォンスを教える事は荷が勝ちすぎるため、学院の最高峰であるマコヴィチュカ学院長が直接彼の指導を担当していた。が、やがて多忙な学院長に代わり―――天才少女と名高いリーフェが家庭教師の任を背負うようになった。今ではマコヴィチュカがアルフォンスの勉強の為に割く時間は月に一回程度、進行状況のチェックとアドバイスを行うのみとなっている。
前王妃は第一王子出産後子宝に恵まれず、十二年ぶりにアルフォンス王子を懐妊した。しかし産後の肥立ちが悪く、次第に床に着く日が多くなっていった。
彼女の体は国王の尽力も空しく徐々に弱って行き、とうとうフェリクスが十九歳、アルフォンスが七歳の時に崩御の日を迎える事となった。王妃の葬儀後、国王は気丈に政務をこなしていたが、その喪失が与えた嘆きと悲しみの衝撃は彼の体を確実に蝕み、著しく体調を崩した国王は数年後、離宮に移り住み退位する事となる。―――これが、二十三歳の若い国王が誕生した経緯である。
既に成人し、母を失う悲しみを抱えながらも重責を担う覚悟をゆっくりと固めて言ったフェリクスに対して、幼いアルフォンスの心は、そのショックを受け止めきれなかった。何人も彼を責める事は無かったが、勘の良い彼は自分を産んだ事が母の寿命を縮める原因となったと自覚していた。その為何処に向けて良いか分からない―――怒りと悲嘆の入り混じった感情を整理できずに苦しむ日々が続いた。
その結果彼の最大の魅力であるはっきりとした感情表現と明るい笑顔は鳴りを潜め……王宮は光を失ったように活気を失ったのだった。
リーフェは物心付く前に母を失っていた。しかし父の姉であり従兄のニークの母である伯母が、彼女を息子とセットでよく面倒を見てくれ、母代りを務めてくれた。お蔭で本当の母の温もりを知らないながらも―――正しい男の子の母親像というものを知っていた。
従兄に対して、時に鬼のように恐ろしいが、聖母のように懐深く見守る事も辞さない伯母の振る舞いが、自然とアルフォンスに接するリーフェの指針になった。
と言っても向き不向きはある。
冷静でマイペースなリーフェに、雷神のような叔母の怒りは再現できなかった。
のんびりと優しい眼差しで、キチンと距離を保ってアルフォンスを見守るリーフェ。その接し方がアルフォンスにとってどのような効果を与えたのか―――リーフェが本当に知るのはもう少し後の事になる。
とにもかくにも。自らが得られなかった母の温もりをなぞるように、リーフェは弟か息子に対するような愛情をアルフォンスに注いだ。媚びるでもなく猫可愛がりするでも無い、春の日差しのようなリーフェの態度が、凍てついたアルフォンスの心を徐々に溶かしていった。
リーフェが家庭教師をするようになって、アルフォンスは次第に太陽と評された明るさを、取り戻していったのである。
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出合った当時八歳の頃、アルフォンスの頭はリーフェの胸より下にあった。
かつてやんちゃな中身に似合わない華奢な風貌の彼は平均より少し低いくらいの身長で、黙っていればつぶらな瞳はまるで天使か深窓の姫君を思わせた。
彼が出会った頃のリーフェの年齢に到達した今、彼女の頭はアルフォンスの胸あたりまでしか達しない。つまり、すっかり立場は逆転してしまったのである。
けれどもアルフォンスはリーフェの前では、八歳の頃と変わらず無邪気に振舞う。
リーフェに警戒心を抱かせないよう、慎重に。
この『無邪気な少年』も―――確かにアルフォンス本人だ。
しかしアルフォンスの中には、無邪気な子供と対角に存在する何かが確実に育ちつつある。彼はそれをまだ、リーフェに晒すつもりは無かった。
自分がとんでもなく我儘な人間であり、その本能に忠実にしか生きられない人間だと徐々に自覚を強めていた。そして到底、王族として相応しい人間では無いと考えている。
臣下に下りズワルトゥ王国の為に忠誠を誓うのは、ただ単に愛する兄の為。
勉強に真面目に取り組み王宮に輝きを振りまく理想的な王子を演じるのは、それを望む自分の拠り所である家庭教師の女性の為。
本当は、王国なんてどうでも良い。
その血の存続のために失った母を思い、父の嘆きに心を馳せると―――そんなもの維持する意味がわからない、とさえ感じるのだ。
リーフェ見返し、アルフォンスはニッコリと微笑んだ。
彼の中に存在する欲望を知っても、彼女は変わらず彼を受け入れてくれるだろうか?
アルフォンスはいつもと同じように返って来る彼女の微笑みを堪能しながら―――声に出さずに心の中で問いかけたのだった。