15.既視感
リーフェはポカンと呆けたように、笑う彼をただ見守った。
勇気を出して真剣に問いかけたのに―――大笑いされてしまったからだ。
それに彼女はクラースが腹を抱えて笑う所を初めて目にした。彼はいつも細やかに嫣然と微笑むか、ニヤニヤ人をからかうように嗤うのが初期設定だったから。
「側室も別にいらないし、愛人を囲うつもりも無い。もう十分遊んだからね、結婚したら浮気はしないよ。」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら、クラースは苦しそうに断言した。
「では、何故ですか?……クラース様にとって、私との結婚はそれほど利益があるものでは無いですよね」
リーフェは小首を傾げた。
その仕草は、純真無垢な少女のようで―――大変愛らしい。
クラースは自分の魅力に全く頓着しない彼女を、興味深く観察した。ただ単に彼女の容姿だけを理由に結婚相手に所望する男も多いだろうに……と想像しながら。
しかしリーフェが推察する通り、彼の動機はそのような所に無かった。
クラースの唇がさも面白そうに、ゆっくりと弧を描いた。
「どうしても何か狙いがあるっていう考えは抜けないようだね?……僕が君のこと、結婚したいぐらい好きだっていう事は、信じて欲しいな」
依然違和感は拭いきれないものの、リーフェは今のクラースの台詞に嘘は無いように感じていた。
しかし彼の『好き』は―――まるで大事な友人に対して告げられたもののような響きがある。どうしても彼の『結婚したいぐらい好き』という台詞が、彼女には『他の相手よりマシ』と言っているように聞こえてしまうのだ。
怪訝そうな表情のリーフェに、クラースは「じゃあ」といって提案した。
「こう、考えれば良い。僕はルトヘルを揶揄うのが大好きなんだ。彼が気に入ってるリーフェが僕の妻になったら―――彼は相当悔しがる。それが、見たい」
ニンマリと嗤うクラースは、これまでリーフェが抱いていたイメージの彼そのものだった。彼女は納得しかけて……思わずポロリと口から「鬼畜……」という言葉が零れてしまった。
それに対して、クラースはフフフ……とそれは楽しそうに笑った。
「それに懐いている先生が嫁に行けば―――『弟』がちゃんと自分の『仕事』に本腰を入れてくれると思うしね」
リーフェはこの時、クラースが言っている言葉の意味を理解できなかった。学院にクラースの弟が通っていただろうか?という疑問が浮かんだが―――給仕が美しいデザートを目の前に差し出したとき、リーフェの興味はすぐにそちらに移ってしまう。
まず冷たいデザートを溶けない内に食してしまおうと、二人は一旦、話を横に置いた。どのような製法でこの滑らかな舌触りが実現するのだろうと、リーフェが考察しながら味わっている様子を、先に食べ終わったクラースはジッと眺めていた。
「リーフェってやっぱり面白い。僕にしなよ。身分も合うし、三男だから公爵家の義務も余り気にしなくて良い。仕事もしてるし財産も結構ある。―――自分で言うのも何だけど、お買い得だと思うよ?仕事だって家庭教師は難しいけど―――学院の方は続けられるよ」
台詞は軽いが、クラースの表情は真剣だった。
ごくりと呑み込んだデザートが喉を伝うのを感じながら、リーフェは彼の表情から目を離す事ができず、狼狽えた。
「仮面夫婦……」
「浮気しないって」
「でも、クラース様を慕う大勢の女性から嫉妬されて、恋愛トラブルに巻き込まれるかも……」
クラースは、薄く微笑んだ。
「大丈夫だって……そこまで真剣になるような真面目な娘、もともと僕に寄って来ないから。むしろルトヘルに惚れてるご令嬢の方が、厄介だと思うよ。……それに、何かあってもファン=デーレン家が、君を全面的に守るから」
リーフェは、息を呑みこんだ。
何か、思い出しそうになったからだ。
俯いて思考を凝らそうとすると、不意にディナーテーブルに置いた手に温もりを感じた。
いつの間にかリーフェの小さな白い手を包み込むように、クラースの手が重なっていた。女性と見紛うほどの美しい面差しに似合わない、ゴツゴツとした男の手だった。温かくて、掌が固く剣を握る人間特有のタコがある。
その知識をリーフェに与えたのは、ニークだった。
幼い頃から彼の手はそのように鍛えられていたから。
(そうだ……思い出した)
『俺が守ってやる』
ニークは、リーフェにそう言った。
『リーフェに何かあっても、俺なら傍でお前を守れる』
そしてクラースもまた、同じ事を言ったのだ。
『君を全面的に守るから』
『守る』と宣言する事は、男性のプロポーズの定番の台詞なのだろうか。
リーフェは違和感を覚えたが、経験不足のため真偽のほどは全くわからなかった。
何にせよ誰も自分を揶揄ってはいなかったし、強制されてしぶしぶ結婚を申し込んでいるような素振りは見られなかった。見合いで分かったのはそんなリーフェにとって微妙に不都合な真実。
ニークも、クラースも、リーフェに好きに暮らせば良い、と言う。
ルトヘルには確認しそびれたが、わざわざ試験場に案内してくれたのは―――そういう方面でリーフェに自由にして良い、という意思の表れのように思える。
リーフェにとって三人は信頼のおける人間だったし、親しみの対象だった。
慣れないため距離が近くなれば少し動揺してしまうが……触れられたとしても嫌悪感が湧くわけでもない。彼らの手が自分に触れる時ドギマギしてしまうのは、自分の経験不足が理由だとリーフェは冷静に分析している。
その日、見合いは恙なく終了し―――リーフェが警戒していたような事件は何も起こらず、クラースは極めて紳士的に彼女をエスコートし、アールデルス侯爵邸まで送り届けてくれたのだった。
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「ファン=デーレン大尉は、どうでしたか?」
「マリケ……」
リーフェは紅茶を片手にぼんやりしていたが、マリケに声を掛けられて、情けない顔で振り向いた。
「皆とお見合いしたら―――ますます選べなくなっちゃった。……どうしよう、マリケ」
滅多に無い泣き言を言う、主を見つめて。
腕を組んで、マリケはちょっと思案した。
「ならもう天に身を任せるしかないですね」
「天に?」
「アミダくじで決めたらどうでしょう?」
リーフェは、ガクリと肩を落とした。
どこかで聞いた台詞だと思ったら―――兄も同じ事を言っていた。
アールデルス家の家訓に『迷ったら、アミダくじ』とでも書いてあるのだろうか?
動かなくなったリーフェの背に、マリケが「冗談でございます」と励ますようにポンポンと触れた。リーフェが大人になるにつれて適切な主従の距離を取るようになったマリケがそのような仕草をすることは今では稀になった。その穏やかなリズムにあやされるように―――だんだんリーフェの頭は、冷静さを取り戻す。
(落ち着こう……そうだ、婚姻は仕事に影響があるかもしれないんだから、マコヴィチュカ学院長にも相談しなくちゃ。もしかしたら良いご助言をいただけるかもしれない……まあ、こんなプライベートな事、相談されても困るのかもしれないけど……)
それで駄目なら―――やはり『アミダくじ』だろうか。
リーフェは、投げ遣りにそう心の中で呟いた。




