貧血吸血鬼
「鉄分が足りてませんね」
「はぁ」
「レバーとか食べてください。ビタミンCと一緒に摂るとさらにいいです。一応お薬出しときますね」
「お願いします」
鉄欠乏性貧血。それが、医師の診察結果であった。
確かに、最近その気はあった。氷がやたら美味しく感じられたりするのもその一例だろう。あと、動悸と息切れ。
僕は、帰りに赤ピーマンとレバーを買って帰ることを決めた。赤ピーマンにはビタミンCが多いらしい。
この二つを使うなら、炒め物しかないのは残念なところではあるが。
「お大事にー」
自動ドアが開き、新鮮な、冷たく汚染された空気が肺に入ってくる。右手に、薬局の袋の入った鞄を抱えて、僕は歩いた。
僕は歩きながら思いをめぐらせていた。自分に薬など必要あるのだろうか。
いや、それ以前に効果があるのだろうか。
やたらと鋭い犬歯をマスクの下で、舌でなぞりながら、僕は考える。
発達した犬歯。
闇を見通す眼。
長く硬い爪。
嫌いな天気、晴れと雨。
嫌いな食べ物、イワシ、大蒜、納豆、炒り豆、枝豆、豆腐に湯葉に味噌。
好きな食べ物、特になし。
嫌いな飲み物。血。
職業。吸血鬼。
* * *
頭上に広がる今にも雨が降り出しそうな空は、僕を急がせる理由としては十分だった。
もちろん、雨に濡れて風邪をひいてはいけない、というわけではない。
吸血鬼は風邪をひかない――僕が馬鹿でない限りはそういうことになっている。
「吸血鬼は流れる水を渡れない」
それを考えると、吸血鬼が雨を恐れる理由が分かるだろう。雨が降ればアスファルトの地面は全て「流れる水」になってしまうのだ。
僕は一度雨の中で一晩を過ごしたことがある。その経験から、僕は絶対に曇天の日には出歩かないと決めていたのに。
変な話だが、晴れの方がまだマシだ。日傘を持てばいいのだから。といっても男が日傘を持って歩いている光景は、周りからは奇異に写るであろうが。
僕は打った後頭部を擦った。
貧血の恐ろしいところは、その症状ではなく眩暈から来る転倒だ。勿論僕は吸血鬼であるから頭蓋内損傷や急性硬膜下血腫などの心配は無かったが、どうやら脳震盪を起こしたようだ。眼が覚めたときは病院であった。情けない。
やはり、あれだ。ホウレン草だけでは駄目なのか。肉を食いたくないから毎日パセリやホウレン草の煮浸しなどを好んで食っていたが、それがいけなかったらしい。
どうして僕はベジタリアンになったのだったろうか。その源まで遡ってみると、小学生の時の食育のビデオが原因であったかもしれない。
ビデオの中で、大事に育てられていた豚のPちゃんは食べられてしまった。僕は吐気を催した。
中学の時には牛の屠殺の映像を見た。僕は吐いた。
その後僕は何を思ったか、家族に屠殺のワークショップを受けたい、と言った。その時に抱いた鶏が暖かかったのを覚えている。
その後のことは思い出したくもない。
ひょっとしたら僕はドMなのかもしれない。
サディストの逆、という意味ではあながち間違いではないと僕は思う。
ともかく、僕がその頃から虫も殺せなくなったのは間違いないだろう。
であるから僕は血液を吸わないのだろう。
幼い時に味わった、歯が抜けた時に口の中に広がった鉄の味も、僕に吸血を許さないのかもしれない。
さて。
吸血鬼とは、血を吸う鬼のことである。
では、血の吸えない吸血鬼である僕は、なんなのだろうか。
僕は一体どういう化け物なのだろうか。
そんな事を考えながら走る僕の頭に、ポツリと嫌な感触がした。
まずい。急ごう。本降りになる前に家に帰らなくては。僕は走った。
誰だって雨の中立ちっぱなしは嫌だ。風邪をひくことは無くとも、体が冷えるのは不快だ。最悪の事態はなんとしても避けたい。
僕は必死で、後ろに流れていく景色の中に雨宿りの出来そうな場所を探した。
「吸血鬼は招かれていない所には入れない」
周りは最悪なことに住宅地だ。近くにスーパーなどがあればそこでやり過ごせるが、住宅となれば僕は門の中の地面を踏むことができない。
まさか「雨が降ってきたのでお邪魔してもよろしいでしょうか?」だなんてインターホンを押して言うわけにもいかない。
ポツリポツリと降っていた雨は、段々と勢いを増している。この分では二分も経てば僕は行動不能だ。急がなければ。
そこで、僕の眼に大きなお屋敷が入った。と言っても中流家庭にしてはまあいいところに住んでいるな、といったものだ。
しかし重要なのはそこではない。やたらと背の高い門に屋根が付いているのだ。
正しく僥倖。地獄に仏だ。
門の中に入らなくとも雨宿りが出来る。暫くここにお世話になろう。
僕は門の下に文字通り飛び込んだ。その途端、雨は本降りになった。もう一歩たりとも外には出られないだろう。
「助かった。もう少しで冷たい一日を過ごすところだった」
「そうですねぇ。今日は一日降りっぱなしのようですから」
「それは困った。ですが雨の中で一日を過ごすよりは――――」
振り返ると、門が開いていた。
しかし、それを支える手は、僕の視界に入らなかった。
そこからスススと視線を下ろしていき、やっと細く白い手が見えたのである。
「部屋で紅茶を啜っている方が幸せだとは思いませんか?」
少女はその色白な顔を綻ばせ、くすりと笑った。
* * *
「頂きます」
「どうぞ」
洒落たティーカップを持ち上げ、中の液体を胃に流し込む。熱い。いや、温かいと言うべきか。
「どうですか」
「紅茶はストレートで飲む物ではないですね」
「ええ。だからそこに角砂糖を置いているのですよ」
少女はそう言いながら、角砂糖の瓶を滑らせ、こちらに寄越した。
「ああ、気付きませんでした。それでは失敬」
私は三つの角砂糖をカップへ入れた。砂糖はカップの底に残るくらいで丁度いいのだ。
「甘党なのですね」
と少女は驚いたようにして言いながら、瓶を滑らせ自分の方に寄せる。そして、流れるように角砂糖を四つ入れた。
「糖分は脳にいいらしいですから」
そう言いながら僕はカップを呷った。
口の中に砂糖の甘ったるさが広がる。
唇に溶けずに残った砂糖が当たった。
その糖分が僕の脳を回転させ始めたのか、僕はここでやっと違和感を持ち始めた。
いくら雨が降っているからといって、知り合いでもない男を家に上げるだろうか。
普通親は子供に「知らない人をおうちに上げてはいけないよ」と躾けるものではないだろうか。
「今になって言うのもなんだと思うけれど、知らない人を簡単に家に上げない方がいいよ」
これが吸血鬼だったからよかったものの、殺人鬼なら非常に不味かったのだ。
「当然のご指摘ですね」
彼女はカップを手に取りながら言った。カップを傾け、カップを机に戻した後続ける。
「私が貴方を招いたのには明確な目的がありますの」
「して、それは?」
「話し相手が欲しかった」
少女はにこりともせずにそう言い放った。
「貴方も私と同じ人種に思えましたの」
彼女はそう続けたが、残念ながらそれは違う。
少なくとも人種は違う。
というか種が違う。
まず僕は人間じゃないのだから。
「僕には心当たりが無いけれど……何故同じだと?」
「ええ。貴方、普通ではないでしょう?」
ドキリ。
「うんうん、そうよね。普通の人間が勝手に人の家の門で雨宿りをしようだなんて図々しい精神を持っているはずがありませんもの」
ギクギク。
「私も今のところ普通ではありませんから」
そう言って彼女は自嘲的に笑った。
私としては笑えない。図星を突かれまくって気が気じゃない。
この少女は僕が吸血鬼であると勘付いているのか?
あの紅茶にはもしかすると水銀が入っていたのかもしれない。
まさかとは思うが、彼女は今も銀のナイフを僕の喉笛に突き入れる瞬間を今か今かと待っているのかもしれない。
そう考えると、汗が吹き出てきた。
雨には殆ど打たれていないが全身がびっしょりだ。
「普通じゃない……と言うと?」
僕は声を震わせながら問いかけた。
返答によってはすぐに逃げ出せるように椅子の背もたれに手をかける。
「私、白血病でしたの」
少女はカップの中の紅茶を見つめながら言った。
「白血病と言うと……あの?」
「ええ。結核と並んで『悲劇の主人公』の罹患率ナンバーワンの病です」
白血病は不治の病。そんなイメージが僕の中にはあるが、彼女が過去形を使ったことからすると――
「治ったのですね」
「はい。白血病は治らない、という風潮というか、イメージが昔はあったそうですが、最近は医療技術の発達というもので」
「それはよかったですね」
「ありがとうございます。しかし、問題はその後なのです」
彼女は机に手を突き前のめりになり続ける。
「白血病は治りましたが、私の両親にとって私は『体の弱い子』になってしまったのでしょう。私をあまり外に出したがらなくなったのです。その癖して、自分達は仕事で家を開けるのです」
彼女は少々唾を飛ばしながら捲くし立てた。
彼女はここで一度息を整えたが、その後もその勢いは衰えない。
「私は我慢なりませんでした。何故こんな檻に閉じこもっていなくてはいけないのか。人間に生まれたのだから私にも人間らしく生きる権利があるはずだ、と思いまして、ついに今日、家出を決意したのです」
「……しかしまだ実行されていないようですが」
「お察しの通り、あいにくの土砂降りの為、延期となりました」
私は笑ってしまった。彼女の家出が雨天決行とならなかったのも面白いが、そこではない。
彼女の言うことは部分的に正解なのだ。
彼女と僕は少し似ているように思えた。
「まあ、そこでやけくそ……えーと自暴自棄になって貴方を招待したのです」
「アハハ……成程。ええ。貴方の言うとおりかもしれません」
「と言いますと?」
「僕と貴方は似ているのですよ……ちょっとだけですが」
人間的な生活ができなかった彼女と、吸血できない吸血鬼である僕は、確かに部分的に似ているのかもしれない。僕はそう思った。
「なら、貴方の身の上も話して下さりませんか? 私も話したのですから」
彼女はにっこりとしながら言った。
僕は少し迷った。まさか自分は吸血鬼だ、という話をするわけにもいかない。といっても、ここで拒否するのも不自然だ。
考えていても仕方なく思えたので、僕はキリストに則って例え話方式でいくことした。
吸血鬼がキリストに倣うのもおかしな話だが。
「えーと、一身上の理由で具体的には言えませんので例え話で言わせて頂きますが……そう、私はパン屋をやっているのです」
「例え話ですよね?」
「はい」
ここで僕は気付いた。例え話でいくなら吸血鬼の下りを喋ってしまっても良かったではないかと。これに気付かなかったせいで、僕はパン屋で今の状況を例えなくてはいけなくなったのだと。
「まあパン屋をやっているのですが……パンを焼けないのです」
「はあ」
「そう、パンが焼けないパン屋なのです」
「パンが焼けなくてはパン屋ではないのでは?」
僕に例え話は向いていないようだ。
しかし、パンを焼けないパン屋というのは僕の状況に近からずとも遠からず。実際、吸血できない吸血鬼は吸血鬼ではない。鬼だ。
「ええ、でもパン屋なのです」
「成程」
「はい、ですから今のところは竈でピザを焼いて生活しているのです」
「ピザを?」
「はい」
「パン焼き窯でピザを焼くのですか?」
「そこは問題ではないのです。例え話ですから」
「ああ、そうでした」
「しかし、ピザだけでは生計が成り立たなくなってきた……みたいな感じです、僕は」
色々と苦しいが大体あっている。気にしてはいけない。
「まあ……大体は分かりました」
「それはよかったです」
「パンで思い出したのですが……」
「何でしょう?」
「『パンはパンでも食べられないパンってな~んだ?』ってあるじゃないですか」
「ありますね」
答えはフライパン、パンダ、パンツ、腐ったパンetc…etc…だ。
「あれを聞く度に思うのですが、『食べられないパン』とは何なのでしょう?」
「はあ」
「食べられるからパンなのであって、食べられなかったらそれはパンと言えないのではないでしょうか」
「まあ……そうですよね」
「もし仮に『食べられないパン』が存在したとしましょう。するとですね、『食べられるパン』は『食べられる』為に存在しているわけです。では、『食べられないパン』は何のために存在しているのでしょう? 少なくとも、『食べられない』ためではないはずです」
食品サンプルじゃないだろうか。
「つまりですね、『食べられるパン』にも食べる以外の利用方法があり、逆もまた然り、ということなのです」
「パンは食べるだけじゃない、と」
「ええ。水溜りを渡るときに踏んでいったりだとか」
それは、地獄に落ちるから止めた方がいいと思われる。
「つまり『食べられないパン』でも気にするな――ってことですよ。『食べられないパン』さん」
「……アハハ。そうですね。そうか、僕は『食べられないパン』か……アハハ」
ふと窓に眼をやると、雨は止んでいた。一日降ると言っていたのに。
「止みましたね」
「ええ、そうですね」
「家出はどうなさるのですか?」
「せっかく晴れたのですから決行しましょうかしら」
「……その辺でしたら付き合いますよ」
「では行きましょうか」
* * *
外に出ると、既に太陽が顔を出していた。地面も今では『流れない水』になっている。
「鍵よし」
「足元に気をつけて」
足元は水溜りばかりだ。少女のスカートはいかにも高価そうで、汚れては大変だと思い僕は気をつけるように促した。
「あなたが何とかしてくれるのでしょう。『食べられないパン』さん?」
少女は可愛らしく頬を綻ばせ、笑った。僕もそれに釣られて笑ってしまった。
「アハハ……それじゃあ僕が踏み台になりましょうかね。肩車でもしましょうか?」
「人間は自分の足で歩くものですよ」
そう言って、彼女は水溜りに右足を突っ込んだ。水飛沫が彼女の白いスカートに染みを作る。
「怒られますよ」
「別にいいのです。それで私が人間だということを理解して貰えるのなら」
彼女は人間らしく生きようとしているのだ。自分の価値を自ら見出して強く生きようとしている。
「さあ行きましょう。甘い物の食べられる場所がいいですね」
「そうですね」
僕は一歩を踏み出した。『食べられないパン』は、水溜りに突っ込んでしまった。
ああ、クリーニング代も馬鹿にはならないのになあ。そう思いながら僕は歩き出した。
「さて、何を食べに行きましょうか……そう言えば、貴方は何が好きなのですか?」
「僕の好きなものですか? えーと――」
* * *
嫌いな天気、晴れと雨。
嫌いな食べ物、イワシ、大蒜、納豆、炒り豆、枝豆、豆腐に湯葉に味噌。
好きな食べ物、特になし。
嫌いな飲み物、血。
好きな飲み物、砂糖たっぷりの紅茶。