試験場へ
こんなはずでは。
こんなはずでは、その四は、クロエが誘い受けであったことだ。
クロエは三ツ半鐘(十一時)を聞きながら固まっていた。
衣服は着ておらず、シーツが裸体を隠している。そんなクロエの胸に顔を埋めながら、アーニャは熟睡している。幸せそうな顔だ。
こんなはずでは。わたしはお姉さんのはず。アーニャちゃんをリードするべきなのでは。
ぐったりとした疲労感。濃密な匂いの篭もる部屋。クロエの胸にすりすりと頬ずりするアーニャ。
昨日はキスをして、ベッドに連れ込むまではリードしていたはず。クロエはアーニャの髪を撫でながら、昨日の情事を反芻する。
クロエのキスでメロメロになったアーニャ。優しくベッドに押し倒すクロエ。パジャマ変わりの貫頭衣に手をかけると、アーニャの可愛らしい臍が覗く。
――クロエの攻勢は四半刻(三十分)も保たなかった。
甘い声を上げる割合は時がたつにつれ、クロエのほうが大きくなった。
遂にはクロエはアーニャの楽器と化したのだ。アーニャの指が、舌が、唇が齎す快楽に喘ぐしかなかった。
「ふふ、お姉さん。声、我慢しないでいいですよ」
――アーニャは情熱的であった。
そこまで思い出したクロエはボッと体が熱くなった。
「うわ――こんなとこまで」
クロエは自身の身体中に付いた、アーニャの情熱の跡を確認する。アーニャも独占欲が強い。
勿体ないけど、見えるところは消さないと。回復魔法なら、すぐに消える唇の跡。
アーニャに愛された跡は、誰にも見せたくない。クロエとアーニャだけのものなのだ。
アーニャはクロエに色んな『特別』をくれる。アーニャだけの呼び方。クロエにだけ向ける笑顔。クロエの胸の中だけで見せる安らかな表情。クロエだけのアーニャ。アーニャだけのクロエ。
「――って、三ツ半鐘!?アーニャちゃん、アーニャちゃん!」
クロエはアーニャを揺すり起こす。今日は、アーニャの冒険者ギルドの試験日である。世界最大の都市たるオルスティアは広大だ。うかうかしていると間に合わなくなる。
「ううん……」
「ちょっ!?駄目!アーニャちゃん!」
赤子のようにクロエの胸に吸いつくアーニャ。寝ぼけている。クロエにとってはご褒美であるが、時間は待ってはくれない。ここは心を鬼にしなければならない。
「今日は試験日だよ!起きて!」
「んう?……おはようございます、お姉さん」
えへへ、と笑うアーニャ。小一時間ほどその笑顔を堪能したいところを、クロエはぐっと堪える。
「ほら、お水。早く支度しないと」
「ありがとうございます。んっ――」
差し出された水をコクコク飲むアーニャ。嚥下する度にアーニャの可愛らしい喉が……今はそんな場合ではない。
――まずは体を洗わなくては。
さすがにローズマリーさん達を待たせるわけにはいかない。クロエはローズマリーさんの拳骨が怖いのだ。
――何とか間に合った。てんやわんやで支度し、あらあらラブラブねと上品に笑う女将さんから逃走し(キスマークが残っていたので急いで消した)、わたわたと朝食兼昼食を食べ、急ぎ足。
冒険者ギルドに入ったときに五つ鐘が鳴ったが、この世界は時間にアバウトなのでセーフである。……多分セーフだ。
「おはようございます!」
二人で元気よく挨拶。挨拶は大事だ。肝っ玉母さんことローズマリーさんは入り口で待ってくれていたらしい。
「もう昼はとっくに過ぎてるけどね……おはよう。試験官は待たせてるから早速始めたいんだけど、アーニャちゃんは大丈夫かい?」
「大丈夫です!」
三人で冒険者ギルドの試験場―普段は訓練所になっている―に向かう。
人口密集地な―堅牢な白コンクリートの高い建物が立ち並ぶ―王都であるが、結構な税金を稼ぎ出す冒険者ギルドだけあって、ギルドの土地は潤沢である。国の力は凄いな、とクロエは思う。
ここは王都南にあるオルスティア本部。王都は広大なので、王都だけでも支部がいくつかある。
訓練所では、冒険者ギルド主催で訓練が盛んに行われている。有料であるが。本部なだけあって、訓練所の数、広さ、教官の質共にトップクラスである。
国民性もあり、訓練所は日夜人が絶えない。
――オルスティア及び十二氏族連合王国。一言で言い表すならば、『尚武の国』。帝国の人間からは『蛮族の国』と蔑みと怖れからそう呼ばれている。
帝国からの独立戦争、そこからの帝国との度重なる領地争い(帝国側の呼称は聖地奪還戦争。王国側の呼称は領土防衛戦争)。魔物の脅威は常にある。
これらの脅威に対抗するため、王国の民は武を重んじる。
槍を、剣を、魔法を、なければ素手で、なければ噛みついて。民を守るために命を投げ捨て、次代に託す。血を受け継ぎ、鍛え、栄え。
オルスティアの民は抗い続けた。その結果の現在の栄華だ。
オルスティアは徴兵(最低三年、男子)が存在するが、オルスティア民は勇んで参加するのだ。
オルスティア兵は農耕、土木、治水などの作業員も兼ねるため、手に職をつける意味合いもある。一種の技術交流でもあるので、技術革新、さらにはオルスティア芸術が生まれる土壌にもなっている。
冒険者ギルドは残りの受け皿、戦士の揺籃、突出した個人の発掘も兼ねている。
冒険者ギルドを引退したベテランが戦技の教導をすることも多々あるし、王国兵が訓練所で新人冒険者を鍛えるのは珍しくない。国家事業であるのだ。
クロエがサムをぶちのめした事でお咎めなしなのも、この国民性が大きい。
ただし、オルスティア民には尚武の精神の他に『力あるものの責任』という道徳がある。
故にローズマリーからはこっぴどく怒られるのだ。
錬金術師としても『力あるものの責任』を果たしていないから、マリアから小言を貰う。
――つまるところ、脳筋なのだ、オルスティア民は。
笑顔と暴力で大体解決するクロエが大手を振って歩けるのだ。
――さて、武勇に事欠かないオルスティアではあるが、特に有名なのは帝国と領土を接する辺境『公爵』とオルスティア王だ。
帝国の兵を震え上がらせる、辺境『公爵』擁する精兵中の精兵『抜刀隊』。
元『抜刀隊』、元冒険者<戦闘・上級>。現、戦技教導官の中年男。名前をジェイクと言う。
本日の試験官は、彼だった。