第二話
『世界は音もなく軋む。叫び声も上げずに壊れていく。こうして見ているだけでも、徐々に崩れていってしまっているのだ。この危険を知っている者はどれだけいるだろうか。私は崩壊を止める術を知らない。壊れてしまうのならば、いつの日かもう一度創造できるはずだ。その日が来たならば私はもう一度世界を生命で満たしてみたい』
この一節は神王教第一章の一番初めに記されている。
世界はこうしている間に壊れていく。だが壊れるのならば、この世界を作った我が神のようにもう一度世界を作り直せるはずだ。そういう教えが有難く書かれている。
ランダーン軍と侵攻して三日目。
ゼハは野戦病院のベッドの上で、暇を持て余している。周りの負傷した者のうめき声から耳を塞ぐように、さも信者のように教本に目を通していた。
この本はどれだけの人間が目を通しているのだろう。ヴァミリアの国民は、生まれてからというもの神王教に入信し、月に一度の神王の有難いお言葉を王都の広場でみなで聞くのだ。
ある者は直接目で見て、ある者はラジオの前で耳を傾け、神王の一言で一喜一憂する。神王が今日は最悪の日だと言えば、国民は意気消沈し一日国中の活気が失われる。
なんともおめでたい連中か。
本当かどうか知らないが、神王は神の声を聴き国民に伝えることができる唯一の人間だと両親から教わった。
神の声が聞こえる人間など一人もいない。これがゼハの持論だった。それゆえ彼は傀儡兵にも信者にも冷ややかな目を向け、蔑視するのだ。
人は弱い。信じる者がなければ生きていけない。その弱さが気にいらなかった。
何故その弱さを克服しようと思わない。どうして己の運命を他人に授けることができようか。ゼハは教本を閉じ、屑籠に捨てる。
背信行為だと言われようが関係ない。
ゼハはあの忌々しい傷口を確認し、まだ癒え切らないことにいらだちを覚え、煮え切らないまま布団を被る。
こうしている間に戦況は動いている。
野戦病院には、前線の情報は入りにくかった。ラジオも持ち込むこともできなければ、新聞も読むこともできない。
溜め息を漏らしながらすでに見飽きたシミがよく目立つ天井を見つめ、何か月ぶりかの柔らかいベッドに身を預けた。
目を閉じれば、いつもあの負けた時を思い出す。初めての敗北。アヌマエルに無理を言って出撃してしまったせいもあって、あの日以降アヌマエルに会っていない。
「紅の死神。覚えていろ。次こそは必ず貴様を殺す」
憎しみだけが輪廻の輪のように彼の中でぐるぐると、彼の体内を血として駆け巡っていく。
敗北の味をいつまでも覚えている。噛み締めれば締めるだけ、苦々しさが噴き出る。だが、この味を忘れるわけにはいかなかった。
いつの日かこの屈辱で埋められた心を晴らす日が来る。
そう考えると、こうしてはいられない。すぐにでも戦線に復活しなければ。ゼハは飛び起き、新しい軍服に着替える。医者や看護婦に止められたが、彼は聞く耳を持たず病院を後にした。
「あら、ルルの坊や。傷はもういいのかい?」
いつも彼を小ばかにする聞き慣れた声、いやいやながら振り返る。これでも彼女のほうが軍の階級は上なのだ。
それに、異国侵攻部隊はターツァ率いる第三師団とともに作戦行動を行うと結託してしまったのだ。
アヌマエルが決めてしまったことに、異議を唱えることはしない。彼にってアヌマエルの決定は血の盟約に等しかった。
「傷口は塞がった。どうしてお前が、いえターツァ・クローバー中佐がここにおられるのですか?」
嫌味たっぷりと込めて、わざわざ敬語になって言い返した。
「ルルの坊やのお見舞いに来たのよ。でもそれも意味なかったようね。だって、貴方元気になったみたいだから。せっかく私が色々と戦線のこと教えてあげようと思ったのに。その様子だと、自分の足で確かめに行けるのかしら? あっ、それと敬語は止めてくれない? 気持ち悪いから」
彼女の言う通り、彼自身彼女に対して敬語を使うなど虫唾が走るほど気持ちが悪い。
「戦線の状況だと。教えてくれるのか」
「うーん、どうしようかしら。お願いしますターツァ様って言ったら考えてあげる」
「結構だ!」
ゼハはふざけるターツァに日ごろから溜まっていた怒りをぶつける。
「冗談よ。冗談も通じないと女の子に嫌われちゃうわよ」
「知るか。お前以外に好かれていればそれでいい」
「もう可愛くないわね。まっ、こんな安い情報教えてあげるわよ。このままいくと次は蒸気街サンティルに侵攻。でも、予想以上にランダーン軍の防衛が激しくてね、なかなかうまく行っていないのよ。奇襲をかけようと、歩哨任務を与えたんだけど二人帰ってこないの。それで朝方探しに行ったら、二人の死体が発見された。二人とも首をバッサリ斬られてたわ」
首を斬られていた。この言葉だけは聞き逃さなかった。いやむしろ、死神の情報を待ち焦がれていたのかもしれない。
「首を斬られていただと? まさか、あいつか!」
「さぁ、私は見てないから分からないわ。剣士の貴方なら、見れば分かるんじゃない? あとで連れて行ってあげる」
「お前、今日はやけに優しいな」
正直嫌な予感がした。彼女が他人、特にゼハに優しいと必ず予期せぬことが起きるのだ。これは彼女と知り合って三か月目で分かった。
一ヶ月目はさすがに偶然だと思った。正確に難あれど、ヴァミリアでは珍しい優秀な軍師だと尊敬すらしていた。
二ヶ月目、彼女の化けの皮が剥がれた。負け戦があれば必ず呼び出され、戦線で戦わされた。
三ヶ月目、突然彼女がゼハに一ヶ月目、二ヶ月目のように優しくし始めた。翌月、ゼハの異動が決まった。
第三師団から、第四師団に。第四師団は最悪だった。後方支援に徹底し、影からの工作で戦況を変える手伝いをする。
自ら戦況を変えることはしない。裏方に徹した影の仕事人。
この性分が彼に合わなかった。アヌマエルのような前線の将に憧れて、軍に入隊したというのにすることはただの情報収集。
第四師団には一ヶ月もいなかった。第四師団団長の推薦もあり、この第五師団通称異国侵攻部隊に配属された。
彼女の優しさは対価が大きすぎる。
「何かあるだろう。言え。お前が優しくするとろくなことは起きん」
「さすがに勘が鋭いわね。……今日はね、第二師団が来るの。侵攻を始めてまだ三日よ? 上の人はもう上手く行かないことにしびれを切らせちゃったみたい。もう、あの子たちが来ると作戦がめちゃくちゃになるのよ」
嫌な予感が的中して喜ぶべきか、そうでないべきか迷ったがこればかりは喜んでばかりいられない。
ヴァミリア軍は、五つの師団で成り立っている。
第三師団、第四師団の正規軍と呼ばれる部隊、もっとも人数が多いのもこの二つの部隊だ。
そしてゼハ、アヌマエルが所属する第五師団こと異国侵攻部隊。
第一師団は、王都防衛軍。選りすぐりの兵士たちを各師団から集め構成された名実とともに最強の師団。前線おろか、戦場に出てくるのは非常に稀だ。
この五つの中でもっとも問題があるのは、本日から戦線に合流する第二師団。
戦場の狼。これが第二師団の異名だった。
第二師団団長、アラウド・ディファシー。彼は、死肉を漁るハイエナと呼ばれることもあれば戦場を荒らす狼とも呼ばれた。
作戦を度外視した行動をし、邪魔となれば敵味方関係なしに襲い勝利をもぎとる。
勝利の為なら手段を選ばない。時には味方を盾に銃弾を躱し、女も子どもも見境なく殺す。
アラウドはとても好戦的で、夜な夜な戦場に現れては朝になる頃には、街一つが壊滅していたという逸話も聞いたことがあった。
一時期だが、アヌマエルとも互角に戦えるという根も葉もないたちの悪い噂が飛び交い、たきつけられたアラウドがアヌマエルと私闘する寸前だった。
私闘は未遂でも本来ならば死罪だが、戦場での黒で輝く功績が彼を救い王都の収容所に監禁されている。
第二師団が来るとなれば、おのずと彼が収容所から出てきたと理解できる。
「まったくいやねぇ。これいじゃ作戦が上手くいきっこないわ。まぁ、私以外が考える作戦なんて何も等しいけどね。それでも考えものよねぇ」
「今日のいつ頃戦線に合流するのだ?」
ゼハがそう尋ねると、ターツァは胸元に挟んでいたメモを取り出し手渡す。
彼は彼女が胸元から物を取り出すことは、慣れていた。彼女はどうやら物を無くす癖があるようで、一番肌に近い胸元に隠すようだ。
肌の心地がまだ残っている生暖かいメモの中身に目を通す。
昼頃には戦線に到着。と書いてある。おそらく今回の会議でのメモだろう。
自分が大嫌いな会議に出たくないからと言って部下に行かせ、書かせたものだろう。ゼハもそうだったからよく分かる。
「もうすぐではないか。……なるほどお前逃げて来たのか」
ようやく彼女がここにいる本当の理由が分かった。
「分かっちゃった?」
彼女とアラウドは仲が悪い。それは軍の中でも有名な話だった。彼女が指揮した戦闘で、途中参戦したアラウドによって作戦が壊され、ターツァが激怒した。
結果、勝利は得たものの指揮系統は崩れ味方に甚大な被害が出た。
それ以来、彼女は事あるごとにアラウドを敵視し彼が訪れる戦場では決して指揮を取らなくなった。
「ったく。お前の心はまるで子どもだな」
「背の小さいお子様に言われたくないわよ」
「なによ!」
喧嘩もほどほどにして、昨晩斬られた遺体を見に行くため遺体が安置されている場所へと向かった。
少なからず味方にも被害が出ている。無能な軍師が消えるだけで、被害は変わると言うのに。
テントに入るとゼハは、死んでいった同胞たちに敬礼をする。ターツァもつられてこの時ばかりは敬礼をした。
「それで、その遺体はどれだ?」
「これよ。一人は首なし、もう一人は首を引き裂かれている」
覆いかぶされている布を取り、首なしの遺体と首を引き裂かれた遺体をゼハに見せた。
「なるほど、これはまさに死神の仕業だな。私にはわかる。この鋭く美しい斬り方。あやつにしか出来ん」
自分の体につけられた傷を手でなぞり、そう言うと彼は何かに気がついたかのように立ち上がりテントの外へ出る。
「どうしちゃったのよ急に?」
後を追うターツァが、息を切らしながらゼハに聞く。
「いや、少し気になることがってな。もうすぐで戦闘が始まる。私たちも行くぞ」
「まさか、戦線に立つつもりじゃないでしょうね。私は絶対嫌よ。あいつの顔なんて二度と見たくない」
「戦闘が終わるまで遠くで見るだけだ。それならいいだろう。それに私はここではお前の許可なしでは動けん。お前もアラウドの動きを覚えるだけで、今後の作戦がより明確化すると思うんだが」
「分かったわよ。本当に遠くから見るだけなんでしょうね。約束よ」
「ああ」
「なら、車で行きましょう。その方が速いわ。もちろん、運転はよろしく」
ゼハは車を運転し、ターツァは助手席で外の流れる風景を見ていた。
今日の風はどこか騒がしい。ターツァはせわしなく動く時代の流れと似たものがあると頬杖をつき、うんざりしながら目を瞑る。
今日の彼女はやけに大人しい。嫌いな人物の会う前だとみなこういうものだ。彼も例外ではない。
その代わり、戦場は耳がつぶれてしまうほど轟音を鳴り響かせている。狂気が鳴いているのだ。
銃声は悲鳴だと教わった。心の悲鳴だと。
命は死と再生を繰り返す。動物たちは生きるためだけに他の生き物を殺す。
しかし人間は、唯一同種を自発的に殺す種族だ。争いこそ人間の本質だとすれば、命の競争の果て何があるのだろうか。
「なぁ、神王教の教えにはこう書いてあった。こうしている間にも世界は綻びはじめていると」
いつもは多弁な彼女が口を開かないので、沈黙を嫌ったゼハが自ら話し出す。
「あら、いつの間に入信したのかしら?」
「真面目に聞け。……私はこう思うのだ。その綻び自体、人間が故意に起こしているものではないかと。神王が神の声が聞こえるのであれば、この戦争は神が望んだものだろうか。だとすればずいぶん荒々しい神だ」
「だから貴方は子どもって言われるのよ」
ターツァはいつもと違い、吐き捨てるように言う。
「戦争に正義を求めている時点で、貴方は兵士失格よ。戦場には美しさも無ければ正義もない。混沌しかないのよ。神なんてものは人の想像一つで形を変えてしまう。たとえそれが悪い神でもね。人は弱いから、何かに縋らなきゃ生きてけないのよ。その先導に立っているのが、神王様ってわけ。彼が右に行けと言うなら私たち兵士は右に行くしかないのよ。戦争をしろと言われれば、戦争をし邪教徒なら殺さなきゃならない。ヴァミリアが世界を統一し世界に平和が訪れるとみんな信じているのよ」
その姿は、あまりにも憐れよ。と一息つきまた話し出す。
「人間っていうのはとっても壊れやすいの。だから時には着飾って、時には他人を傷つけ自分は強いんだって思い込みたいの。人は傷つくことでしか生きていけない。みんな持っているはずの優しさが本当の強さなのに、気がつかないまま手っ取り早い暴力で訴えるのよ。貴方も兵士になったんだから、誰かに悪党と罵られて死ぬ最期も有り得るって覚悟しているんでしょ?」
「当たり前だ。一つ聞いてもいいか。お前はどうして兵士になった?」
「私? 私は貴族の生まれでものすごくボードゲームが強かったのよ。軍師になるための士官学校でも、トップクラスの成績だった。卒業してすぐね、軍からスカウトが来たの。ただ頭の悪い貴族の男たちに抱かれて、権力に貪るだけの女になるのが嫌だったから軍に入っただけなのよ」
互いに信じるものがあるからこそ、人は他人を拒絶し理解しようとしない。
人は他人を認める強さが無いからこそ、戦争は起こるのだと彼女はそう言いたかったのだ。
兵士になったからこそ、例え他人の考えを異端と判断し撃ち殺そうとも進むしかないのだ。
「着いたぞ。遠いが、戦闘に巻き込まれないと考えれば十分だろう」
双眼鏡を取り出し、戦場を覗く。
すでに戦場は閑散としていた。まだ始まって三十分もかかっていない。
第二師団が投入され、辺りは血の池と化し逃げ惑うものの殺していく。もはや戦争とは呼べない、これはたんなる殺戮だ。
戦場の中心には、大きな剣を振り回す男が一人いた。
見間違うこともない。アラウドだ。
「やはりか。なるほど、そういうことだったのか。得心がいった」
あの切り傷。あの切り方、どういうわけだがゼハには分からないが死神とよく似ている。アラウドこそ剣の振り方は荒々しいものの、戦い方まで瓜二つだ。
ゼハが納得がいくと、戦闘は終わっていた。かかった時間はたったの三十分。それだけの時間で戦線は崩壊し、ヴァミリアが停滞していた前線を押し侵略を再開する。
次は、ランダーン主要都市の一つである蒸気街サンティルを狙う。
戦争はさらに激化していった。