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灰色の銃創  作者: 上城 夕樹
第一章前篇 ヴァミリア侵攻
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第一話

 生物が寝静まり、すべてが静寂へと帰る深い夜。月下を覗く星たちは、闇の世界を鮮やかに彩る。

 時すらも止まっているように感じる。木々がそよ風に揺れて、まるで彼らを嘲笑っているようだ。草花も息を潜め、身も心もすでに朽ち果てそうになっているクロネを眠りへと誘う。

 しかし、彼は眠れなかった。どれだけ草木が子守唄を歌おうとも、眠るわけにはいかなかった。

 ベルダ村を脱出したその日の夜の出来事だった。

 彼ら三人は、森の深くへと逃げ込みヴァミリア軍に見つからないように、蒸気街サンティルに向かおうとしていた。

 武器や食料も持たず、唯一手元に残っているのはあの凄惨な記憶だけ。

 いくら振り払おうとも、彼らの骸はクロネに後を追い生を奪おうと迫ってくる。あそこで生きるべきは誰だったのか、本当は自分以外の誰かが生き残っていたほうが良かったのではないかと、いっそ死んでしまったほうが楽だと、何度も思った。

 仲間たちは、彼に託した。託された物は、あまりにも重すぎた。

 これほど命が重いとは思いもよらなかった。目には見えぬが、確かにそこにある命。場合によって命は重さを変える。

 風船のように軽くなったかと思えば、いきなり鉛のように重くなるのだ。

 命とは、鉛のように重く風船のように割れやすい。

 生かされた者は、生かされた責任と取らねばならない。


 足元にはすでに無数の骸が転がっている。その積み重なった上に立っているのだ。

 クロネは足元を不意に見つめると、蟻が死骸を運んでいた。その行為すべてが憎らしかった。

 奪ってしまった命、奪われてしまったもの。尊いからこそ、無くしてここまで胸が心が痛むのだ。

 たき火を囲う彼の隣には、彼の上着を枕代わりにして疲れた体を癒すリリィが眠っていた。

 彼女がいたからこそ、クロネは壊れず立っていられるのだ。彼女がいなければとっくに壊れている。ノルヨカのように。

 空を見上がると、月明かりが厚い雲によりしばし途切れていた。

 とても哀しい三日月だ。

 火を絶やさないように木の枝を燃えやすいように折り投げ入れ、上着がはだけているリリィの体にかけ直す。

 ゆらゆらと燃える炎が、村の惨状をよみがえらさせる。陽炎は仲間の死に顔を映し出す。

 止めてくれ。これ以上責めないでくれ。無力な僕を。火に背を向け、疲れてしまっているのだと言いきかせた。

 いや、憑かれてしまっているのか。

 明日の朝には、また移動しなければならない。さすがに体を休めなければ。横になり眠ろうとするが、あの柔らかいベッドの上が恋しいせいか、上手く寝付けない。

 結局、身体を起こしてしまった。

「眠れないのか?」

 

 彼に話しかけてきたのは、キリハだった。彼女もまた眠れないのだ。

「ああ。……眠るのがちょっと怖いんだ」

 話し相手が欲しかったのかもしれない。クロネは、一度に己の気持ちを吐けるだけ吐露した。

「夢にまで、あいつらが出てきそうで。僕はどうして、まだ生きているんだ。他にもっと生き抜くべき人はいた。マベル隊長だって家族がいたし、ガンバレルにだって妹がいた。他の兵士だって。どうして僕だけが生かされているんだ」

 自分の服をしわになるほど掴み、歯を喰いしばる。怒りだった。果てしなくやり場のない途方もない、己に対する怒り。

「お前は違うのか?」

「え?」

「お前には家族がいないのか?」

 キリハが、木の枝を折りたき火に入れる。

「いるさもちろん。大切な人だっている……」

 眠っているリリィのことを見つめ、キリハに答える。

「命はみな平等だ。優劣などない。だから、誰が生き残って誰が生き残らないべきかなんて決められない。お前は結果として生き残ってしまった。戦場で死んでいく者は、誰かに大切な想いを託す。私も託されてしまった。お前もそうだろう? 生き残った者は、託された責任を果たさなければならない」


「でも、僕は……本当に果たせるのだろうか。彼らの想いを」

「捨ててしまえばどれだけ楽だったか。死んでしまったから文句すら言えない。だが、捨てるわけにはいかなかった。いや違うな、捨てられなかったと言うべきか。あの縋られた目を思い出せばな」

 遠い目をしながら片膝を両腕で抱え、まるで自分がそうであったかのように話し出す彼女にクロネはいつしか、自分を重ねていた。

 彼女とて同じなのだ。戦場で一人だけ生き残り、家族や友と呼べるものを失い故郷も失った。帰るべき家もない。待ってくれる人もいない。

 だから、クロネが羨ましかった。まだ彼の帰りを待ってくれる者がいて。彼女が無くしたものすべてを彼が持っていた。

「私は、死人に呪われているのかもな。想いに呪い殺されると言った方が近いか。お前が羨ましいよ。まだ待ってくれる人がいるだけで。私はもうこの想い以外、すべて無くした。その責任、重ければ私が背負ってやる。今ならあの子と一緒なって幸せになる道が残っている。それとも、私とともに骸の道を歩くか。お前はどちらを選ぶ?」

 優しく手をさし延ばしてくれた。この手を握ればもう、責任に苦しむ必要もなくなる。リリィと一緒に好きな未来を選ぶことができる。

 甘くて緩くて優しくて穏やかな世界が広がっていることだろう。

 しかし、この手を取ってしまうと戦うことを放棄したことになる。二度とこの手に武器を持つこと無いだろう。


 ここで止まってしまうと、散っていった命が無駄になってしまう。あの命を無駄にしてしまうことだけはしてはいけない。

 マベルに託された時から決まっているのだ。もう、立ち止まってはいけないと。

 走り続ければならない。後ろを振り向かず、懸命に腕を振って、足を動かして、死のしがらみを取り払って、信ずる道を進むしかない。

「僕はもう、立ち止れない。振り返れない。そんなことすれば、きっと死んでいった仲間たちに怒られてしまう。この先に骸の道がおろうとも、何が待っていようとも僕は走り続けなきゃならない。平和を取り戻すその日までは」

 クロネの目にもう、迷いはなかった。きっとこの誓いは彼をいつまでも縛り続け、いつ来るかも分からない平和を実現する日まで、戦い続けらせるだろう。

「そうか。分かった」

 キリハは目を閉じ、まだ冷える春の夜に吐息を漏らしながら寒さに耐えるように身を縮める。

 火をもう少し大きくせねば。クロネは、女性二人の体調を気にして新たな、よく燃えてくれそうな木の枝を探すために、漆塗りされたかのような森へ足を踏み入れた。

 森は本当に暗かった。明かりもろくに持って来ず、夜の森に入るのはおすすめできないが、この状況で四の五の言ってられない。

 小枝を探す途中、話し声が耳に入る。男の声だ。

 海のように広がる茂みに身を隠し、声がする方に近づく。闇が彼を隠し、守ってくれているかのようだった。


「くそ、本隊と連絡が取れねぇ。どこもかしこも森ばっかで、どこに行っていいのかわかりゃしねぇ」

 そこにいたのは、本隊からはぐれたと思われるヴァミリア軍兵士だった。歩哨任務の際にはぐれ、この森に喰われたというわけだ。

 敵は二人。大柄な男に、一度も口を開かない無口な男。

「もうこんなところに……」

 クロネは息を潜め隠れているが、この高鳴る心音を気取られてしまうのではないかと、どっと嫌な汗が噴き出る。

 どうにかして対処せねばならない。

 よくしゃべる男は、いらだちを木にぶつける。二回ほど木を蹴飛ばし、何かに気がついたかのように空を見上げる。

 見ていた方角は、クロネたちがたき火をしていた場所。

 ――しまった。見られてしまった。行動を起こそうにも、武器がない。近接格闘でも勝てるかどうか。しかもクロネはあまり得意ではない。

 もう一人は傀儡兵。狂乱し発砲でもされようものなら、この静かな森に音は瞬く間に森中に広がるだろう。

 ひときわ尖っている枝を手に取り、生唾を飲み込み襲撃の機会をうかがう。

 いやな緊張感が、クロネの体を支配する。寒いわけではないのに手先が冷たく、感覚が遠ざかっていく。

 それに反し、彼の体をめぐる血は外皮を溶かして流れ出てしまいそうになるほどに熱い。


「おい、武器を構えろ。行くぞ」

 二人はたき火の方角へ歩を進める。抜き足差し足で近づき背の高い茂みは、銃で掻き分けるほどの慎重さだった。

 こうなっては一か八かの賭けに出るしかない。賭け事は滅法弱いが自分の幸運を信じ、身を屈めヴァミリア兵に近づく。

「動くな」

 手を掴まれた。まるで雪山にいたかのような冷たい手だ。クロネはおそるおそる振り返る。

「どうしてきみが……?」

 手を掴んでいたのはキリハだった。ここから、たき火までは少々距離がある。しかも、クロネは彼女らに気取られないようにこっそりと小枝を集めに行っていたのだ。

「私も戦時中に眠れるほど、精神が図太いわけではないからな。気配を感じ、来てみればお前がいたというわけだ。やつらを仕留めるんだろう?」

「ああ」

「なら私に策がある」

 そう言ってキリハは耳打ちでクロネに作戦を伝える。

「分かった。やってみる」

 彼女は、敵に気づかれないように離れていく。適度に離れたところでクロネは足元に転がっている石ころを拾い上げ、目一杯遠くに投げる。

 

 草むらは揺れ、いやでも敵の注意はそちらへ向く。

 人かはたまた動物か。と勘繰りながら男はもう一人を顎で、様子を見に行けと指示を出す。嫌がる素振りを見せることなく、もう一人は揺れた場所に行く。

 草木を分けるとそこには人でもなく動物でもなく、死神がいた。

 キリハは敵と交戦する前に素早く首を斬り落とす。月光がよく映える剣で周りを赤に染め、びくびくと痙攣し、まだ生きていると言いたげな肉塊がもたれかかってくる。彼女は静かに手で退()けた。

「おい! どうし――」

 騒ぎ出す前にもう一人はクロネが、背後から首を絞める。腕を食い込ませて呼吸を止める。加減が重要だった。

 男は気絶し、白目をむき泡を吹きながら地面に倒れる。

 作戦は何事もなく成功した。

「そっちは大丈夫?」

 クロネは息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。敵の脈の動きを確かめながらキリハに尋ねると、闇夜から返り血を浴びた彼女が現れた。

「大丈夫だ。お前の方は怪我はしていないか?」

「僕なら大丈夫だよ」

 クロネは死体を草で隠し、キリハは気絶している男を木にツタで縛りつけた。男が目を覚ましたのは約一時間後だった。

 

 男は自分の今の状況が判断できずに、口を何度も開けては閉めを繰り返し、ようやく自分の腕がしばられて動けないと確認できた。

 男の服の中にはムカデや虫が這いずり回り、気持ち悪くても払いのけることはできない。よもや体の中にもいるのかと、男はありもしない方向に想像力を働かせる。

「起きたか。早速だが、お前に訊きたいことが幾つかある。返答次第ではどうなる分かっているだろうな」

 キリハが、剣をわざと男の眼前に見せ不安を煽る。

 未だに返り血の後がついている剣を見せつけられ、背筋が凍るほどの恐怖を感じ身がすくむ。質問どころの騒ぎじゃない。

 口を開けば、知らない。分からないの一点張り。口を真一文字にしていてくれた方がまだ助かる。いい加減男の声が耳障りになったのか、キリハは男の頬に冷たい剣の刃を当てる。

「私は、それほど気が長い方じゃない。このままだと手を滑らせて貴様の頬肉を削り、二度と口が閉まらないようにしてしまうぞ。黙って質問に答えろ」

 徐々に頬肉を削り、血が剣を通して地面に滴る。男は発狂する寸前で小便を漏らし、卒倒してしまいそうだった。

「貴様の下だけだな雄弁なのは。言ってもいないのにだらだらと零して。いい大人が恥ずかしいと思わないのか? それならば貴様のこれを切り落としてやってもいいんだぞ」

 股に剣を突き立て、今すぐにでも斬り落とす準備をする。

「分かった! なんでも答える! 答えるから許してくれ!」


 男は情けない声を出してそう言った。

「では質問に答えろ。貴様は何処の隊に所属している」

「おっ、俺はヴァミリア軍第三師団に所属している」

「指揮官は誰だ?」

「たっ、ターツァ・クローバー中佐だ」

 この名前を聞くと、キリハは納得した顔で剣を地面から抜く。

「もう一つだけ訊こう。お前らヴァミリア軍は何故、このランダーンに侵攻を始めた? 両国には不可侵の平和条約があったはずだ」

「知らない」

 この単語だけは本当に聞き飽きた。抜いた剣を喉に押し当てる。呼吸すらできないほど鋭く、強く食い込ませた。

「本当だって! 俺は何も知らない! ただ、合図が来たとしか聞いてないんだ!」

「合図? 合図とはなんだ?」

 さらに語気を強め、問い詰める。

「本当に知らないんだよそれ以外。頼むから殺さないでくれ!」

 男は涙を零し、絶対的な死を目の前にして懇願した。人とはここまで死に対して無力だと、改めて思い知らされた。

「なぁ、もういいんじゃないか。本当に知らないみたいだ」


 クロネがキリハを落ち着かせるように、肩に手を置く。

「そうだな。拷問まがいなこともこれまでだ」

 クロネと男は安堵の表情に戻った瞬間だった。

 彼女は押し当てていた剣で、男の首を裂く。血潮が二人の世界を染めていく。赤黒い血で濡れたキリハは剣を斬り払い、血を飛ばす。

 言葉を失った。殺す必要なんてなかっただろうに。問いただしたい騒動に駆られた。クロネは肩に置いていた手に自然と力が入る。

「この際だから言っておく。ここはもう戦場だ。敵に捕まったら死ぬ。自分の命を相手に預けた時点で、あいつは死んだも同然だ。もし、このまま生かして帰したとしても私たちの居場所がばれて、より慎重な移動が求められる。私は別に構わないが、あの子とお前はそうはいかないだろう。それに、帰ったとしてもこいつに待っているのは周囲の白い目と死だけ。きっと痛みを与え続けられて死ぬだろう。だから今ここで殺した」

 だから彼女は一番痛みを感じない方法で命を絶つ。せめてもの情けだった。

 キリハは、もう一言だけクロネに言った。

「その優しさは戦場では捨てろ。いつかお前自身を殺す」

 キリハは立ち上がり、手慣れた手つきで死体を草むらへと隠してたき火へと戻る。

 夜はなお更けていく。

 闇の向こうで、誰かが手招きをしている。キリハには見えていた。死んでしまった家族と仲間たちが、すぐそばまで来ていることに。


 だから暗闇は好きになれない。

 キリハは返り血で濡れた体を清潔にするために、近くで流れている川で体を洗い流そうとしていた。

 服を脱ぎ、剣を持ったまま足を冷たい水面につける。

 波紋が広がり、川の向こう側まで届いた頃にはキリハはもう足首までつかっていた。

 さすがにまだ冷たいな。と苦笑しながら手で水をすくう。時々、水が赤く見える時がある。血のように真っ赤に。

 体をどれだけ洗い流そうとも、決して落ちない。

 むしろ洗えば洗うほど(けが)れていく。

 心の中まで穢れてしまったのかもしれない。一体、今までどれだけの人を殺めてきてしまったのだろう。両手で数え切れなくなる頃には、もう数えるのは止めてしまった。

「母さん、今も見守ってくれていますか?」

 子どもの頃にはよく、母親と一緒に夜空を見上げた。星の瞬きがどれだけ美しかったか、鮮明に記憶に残っている。

 今晩の空は、あの日によく似ている。

 手から離してしまった剣は川の底へ沈み、体中から力が抜けていく。

 そろそろ反動が来る頃だ。

 胸に手を当て、苦痛で歪む顔を水面に映しながら膝を着く。体から熱という熱が消えていく。手先が冷え、感覚がなくなっていく。


 ゼハの時に使ってしまった奥の手の代償が、今来たのだ。

 彼女の言葉通り、あれは便利な力などではない。使ってしまって数時間後には必ず反動が起こり、力という力が抜け、一時的に止められていた痛覚がよみがえり古傷さえうずき始める。

 この左目も、全身の傷も。

 傷だらけの体が今となって牙をむく。あたかも、殺していった敵たちの怨念が彼女を苦しめているようだった。

 息を整え、水を手にすくい水を飲む。多少なりはましになったが、それでもまだ体の至る所が痛む。

 草木が揺れ、人の気配を感じる。足元に沈んでいた剣を拾い切っ先を向ける。

「誰だ!」

 胸を隠し、鋭い眼光で威圧するとそこにいたのはクロネだった。

「お前か。どうした? のぞきにしてはいささか下手過ぎるが。そんなに私の裸が見たいのか?」

 夕日のように顔を赤くしたクロネは、首を何度も横に振り違うと否定してみせた。

 顔から火が出るほど熱い。これが初めて見た女性の裸体に、心臓は破裂しそうなほど跳ねていたが弁明の機会をなんとか作る。

「違うんだ! のぞきをするつもりは! その、拭くものを持っていないと思って持ってきたんだ。僕のだけど」

 キリハは、頬を緩め可愛らしく笑う。彼が初めて見た笑みだった。

 彼女も久し振りだった。人前で笑うことが。どれだけ笑っていなかっただろうか。

 乾いた心に水を与えられたかのように、潤いを取り戻す。


「いや、ありがたく使わせてもらうよ。ありがとう、クロネ」

 クロネはなるべく見ないようにタオルを置き、すぐにでも立ち去ろうとしたが、名を呼ばれたことに気がついてしまった。

「名前……」

「ん? 呼んで悪かったか。ならば呼びはしないが」

「そうじゃない。いきなり呼ばれたから驚いて」

 彼女のことをどこか、機械のような人だとばかり決めつけていた。しかしそれは大きな間違いだった。彼女も変わらない、リリィと同じ女性なのだ。

 そう思うと、妙に親近感が湧いてきた。

「じゃあ僕も、キリハって呼ばせてもらってもいいかい?」

「好きに呼べ。キリハでもアンフォードでも」

「分かったよ。キリハ」

 返事をしようとした時、キリハはよろけ倒れそうになっていた。まだ力が入らないのだ。

「大丈夫!?」

 クロネに抱きつく形で、どうにか転倒だけは阻止できた。だが、別の問題が発生した。見えてしまっているのだ。色々と。

 程よい大きなの胸、くびれにお尻。直に肌に触れて分かる真新しい雪のような柔肌。あの強さからは想像できないほどの華奢な体つき。近すぎる唇とくすぐったい吐息。


 目を逸らすが、すべてクロネの感覚に訴えてくる。

「すまない。調子があまり良くなくてな。ついでに一つ、頼まれてくれるか」

「なに? 僕にできるがあるならなんでも」

「着替えるから、木陰に行ってくれないか。さすがに男性に見られながらだと恥ずかしい」

 リリィにいつも言われた。女性の気持ちが分かっていないと。こんなところに如実に表れるとは思いもよらなかった。

 もっと普段から女性に気を配っていられれば。

 クロネは木陰で彼女の着替えが終わるのを待った。

「待たせたな」

 川から移動しキリハとクロネはたき火当たりながら、朝になるのをずっと待っていた。

「朝には移動するんだろう? 今日はどこまで行く気だ。なにぶん私はここの地理に疎くてな」

「日の出とともに移動すれば、昼頃にはサンティルに到着しているはず」

「いや、出発はもう少し早めた方がいいだろう。この辺りもヴァミリア軍がうろついていることが分かった。ここで部隊に見つかるのは分が悪すぎる。日が出る前に行動だ。あと一時間もすれば、辺りは明るくなる」

「分かった。そうしよう」

 たき火の火が小さくなってきている。気を利かせたクロネが小枝を投げ入れる。随分と長話をし過ぎてしまったようだ。


 投げる小枝が無くなってしまった。

「関係ない話だけど、キリハの故郷はどういう場所だった?」

 話まで途切れてしまうと、お互い次の会話がいつになるか分からない。もしかしたら背中を預けて戦うかもしれない。

 彼女のことを知っておいて、損は無い。

「良い国、良い場所ではなかった。……お前は、レイド族を知っているか」

「レイド族……?」

 記憶の片隅にある教科書で見た文章を思い出そうと躍起になる。思い出せそうで思い出せない。もどかしい気持ちでいっぱいになったクロネを見て、炎の中の小枝の中にある水分が音を立てて弾ける。

 はやくしろと急かされているようだ。

「レイド族。そうだ、思い出した」

 よくやく胸のわだかまりが取れた。

「確か世界で二番目に多い種族で、特徴はその強い生命力と紅い髪……」

 ハッとした表情でキリハを見つける。すべての特徴が彼女に当てはまる。彼女はレイド族なのだ。だとすれば、彼女はあまりにも酷な人生を送ってきたはずだ。

 なぜならそれは――。

「でもそうなるときみは、まさか……」

「そう。私は奴隷だ。いや、奴隷だったか」


 ヴァミリアやエスタジリアンはレイド族は奴隷として扱っている。本来はヴァミリアだけだったが、近年エスタジリアンはヴァミリアと同盟関係を結んだ。

 余波がここまで来ていたとは。

「私の母は、とても強くて優しかった。私が生まれてから金持ちの奴隷として雇われ、時には目も当てられない凌辱を受けたこともあった。だが、母はいつも優しかった。いつも笑顔だった。そして私に言った。兵士に成れと。だから私は幼い頃から、剣の道を極め兵士となって私は戦い続けた。ふと立ち止まったとき、見えたんだ。私が歩いて来た道が」

 何もなかった。と彼女は呟き、話を続ける。

「破壊の虚しさが私の胸を埋めていった。もうそうなると私は戦えなくなっていった。戦えなくなった奴隷がどうなるか分かるか?」

 言われずとも分かっていた。奴隷は兵士になるとようやく人間扱いされる。戦えなくなった兵士は処刑され、生首はさらし首にされると聞いた。

 虫がたかり、眼球は烏によってえぐりだされ死臭を放ちながら朽ちていく。

 女性ならば、もう一つ道はある。奴隷に戻ることだ。女性の奴隷は、男どもが欲しがる。

 自分の言いなりになる女がいれば、欲を満たせる。下衆な理由だった。

「私は戦闘で、傷を負い戦線から逃げた。そしてランダーンに行きついた。嬉しかったよ。この子が私に優しくしてくれて」

 

 会話が途切れると沈黙が続く。次に口を開いたのはまたしてもキリハだった。

「すまない、暗い話になったな。だが同情はしないでくれ。生まれてからこうだった。私は母の子どもで良かったと心から思っている。さぁ、お前はもう寝たほうがいい。二日間も寝ていないんだろ。だったらなおさらだ」

 彼女の言う通り、二日間も寝ていない。さすがに体も心も限界だった。

「寝ている間は、私がお前たちを見ているよ。だから、な」

「うん。分かった。ありがとうキリハ」

「ああ、おやすみクロネ」

 たった一時間だけだが、クロネは深い眠りについていた。

 目を覚ますと、周りがほんのりと明るくなっていた。

「起きたか。クロネ、移動するぞ。その子を起こせ。思ったより森が騒がしい。あの歩哨たちを探しに来たのかもしれん。急ぐぞ」

 彼女の驚異的なまでの危機察知能力は、レイド族であるがゆえの恩恵だと。

 だからこそ彼女は、誰かの危険を人より先に察知してしまうのだ。この場合も例外ではない。

「起きてリリィ。そろそろ行くよ」

 クロネはリリィを揺すって起こし、まだ眠たそうな彼女を立たせ、近くの木に手綱を結んでいた馬たちに乗せる。

「行こう。もう少しでサンティルだ」

 そこに行けば、何をするべきかはっきりと見えてくるはずだ。

 三人はまだ仄暗い森の中で馬を走らせた。

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