第三話
――ヴァミリア国境付近――
ヴァミリアが侵攻した翌日の朝。それはとても気持ちの良い一日の始まりだった。好きなコーヒーを飲み、戦況を見つめながらの朝食。
テントの外では新兵を叱咤する声が聞こえる。
弱々しい朝日が、テントの中に差し込む。今回の侵攻の際、尖兵の被害をまとめた資料に目を通した。自爆三名、死者十五名。
よくもまぁここまで人の命を軽く扱えるものだ。と使えぬ無能軍師の失態を嘲笑しながら、アヌマエルはコーヒーをすする。
「アヌマエル大佐、ゼハ・ルルエルハ中尉です。本日の侵攻作戦を知らせるために馳せ参じました」
若い男の声がアヌマエルにそう伝えた。
「了解した。入れ」
コーヒーを机に置き、椅子の背もたれに寄りかかり胸の前で腕を組み、厳かな雰囲気でゼハ・ルルエルハを向かい入れる。
「失礼いたします。アヌマエル様の至高のひと時をお邪魔してしまい、申し訳ありません」
ゼハは頭を深く下げる。
「そんなことはよい。して、作戦とは?」
「ハッ! 本日の作戦は今日中にランダーンまで移動し、尖兵隊と合流したのちに本格的な侵攻を開始いたします。我ら異国侵攻部隊は先陣を切り、敵勢力を削り取ることが作戦の大部分となっています」
ゼハは敬礼をし、あの使えない老人だらけの重鎮どもと頭の悪い軍師との取るに足らない会話の中で、つまらぬ会話のようにはじき出された作戦を、不本意ながらアヌマエルに説明した。
本当はこんな作戦などに従いたくない。
兵力を無駄に裂き、勝てるはずの戦いも逃してしまう。
三か月前のユニクスとの衝突がそうだった。
実力は互いに拮抗を極め、物言わすは兵の数と言わんばかりに鍛錬もろくにしていない傀儡兵なぞ使って、ユニクスに敗北を期したのだ。
あそこに自分たちさえいればと、どれだけ歯がゆく思ったことか。
「なるほど、我らは捨て石というわけか。まったく、あの老人たちは何を考えているのか。そう思わんか、ゼハよ」
「まったくでございます」
アヌマエル・ネイドムア。彼がこの異国侵攻部隊の隊長。五十一歳と老いてしまっているものの実力、頭の回転、軍師とも劣らない指揮力は未だなお健在である。
髭を生やし、背丈も高く衰えることの知らない筋骨隆々な体。軍を率いる姿はまるで戦場をかける生きる伝説だ。
三十年前のユニクス侵攻の際に、早々にして死んでしまった軍師の代わりに軍を率い、見事に絶望的な状況から勝ってみせたのだ。
敵は三万、味方軍は三千と誰しもが諦めかけた戦いで勝利を得たのだ。
しかも驚くべきことにそれが初陣だったと聞く。
噂や伝説になりつつあるが、今までに一人で万人の敵を殺してきたとも聞いた。
アヌマエル自身あまり自分の自慢をしたがらない性格で、事実は誰も聞き出せずにいる。
そんな彼に畏敬の念を持ち、強いあこがれを持つのがこのゼハ・ルルエルハだった。
ゼハは貴族出身では珍しくまったくと言っていいほどに、父の力で軍の上に立とうとは思わなかった。軍に入隊した当初は貴族という身分を隠し、ひたすらに剣の腕を磨いた。
彼は背丈も小さく、稀に女性に見下ろされてしまう。頭の回転はそれなりだが、熱くなると周りが見えなくなる。二十歳だと言うのに時々子どもと間違えられる。
こんな彼だからこそ、アヌマエルにあこがれを持った。自分とは真逆の存在。
彼には剣の才能しかないが、アヌマエルはすべてを持っている。
だからこそ異国侵攻部隊に入隊し、彼の元で戦えることをどれだけ歓喜したことか。
今はアヌマエルと同じ剣騎隊に所属している。
ゼハは神王以上に、いや以前にアヌマエルに誓いにも似た強い忠誠を立てた。
「ではゼハよ。聞くがこの状況貴様ならどう動く?」
あこがれの人に試されていると、自分の力量を定められているとゼハは己を鼓舞した。ここで成長したことを見せつけるように彼は答えた。
「いつもなら、傀儡兵を駆使し多くの兵力で攻め立てるところでしょうが……。ランダーン軍本隊まで連絡が届くのは面倒この上ないので、疾風迅雷我ら剣騎隊が出撃しランダーン中腹まで侵略します。そして後から傀儡兵が周りの街を侵略します。どうでしょうか?」
彼なりに完璧な答えだった。アヌマエルの下で多くのことを学び、多くの経験から推測した自分で褒めたくなるような完璧な作戦。
「まぁ、六割がた正解だ」
「ろっ、六割がたですか」
自信を持っていた答えがそれだけしか合っていないとなると、久し振りに落ち込みそうになる。だが見方を変えれば六割も近づけているのだ。
あと四割近づくこともなんてことはない。あこがれに近づくことが、自信を打ち砕かれた彼の心を癒していった。
「その作戦でも恐らく侵攻は成功するだろう。だがもし周りに街に伏兵がいるとすればどうする。どれだけ我々が強くとも数には勝てん。剣騎隊が崩壊してしまった場合、残りは使えん老人と傀儡兵だけになる。そうなれば、まだ余力のあるランダーンと攻め手に欠けるヴァミリア。どちらに勝利が回ると思う?」
「そっ、それは……ランダーンでしょうか?」
敗北した時の想像がゼハの脳裏を掠めていく。
「そうだ。だとすれば、答えは周りの街を着実に攻め落とすことだ。無論、攻め急がずだ」
「それではランダーン本隊との交戦は免れませんが――」
彼の言葉を遮るようにアヌマエルが続ける。
「それでいいのだ。持久戦となった場合、何が重要になるか。分かるか?」
今度こそ正解を導き出す。
「兵の数でしょうか」
「そうだ。兵の数で状況を少しづつ動かし、余力すら残すことができぬほどに攻める」
あの使えない軍師の作戦とゼハの作戦を複合し、全体をよく見渡す達観した彼だからこそ導き出せる作戦だ。この作戦ならば、正規軍との軋轢も少ない。
聞いての通り、正規軍と異国侵攻部隊は犬猿の仲だ。手柄を多く自分のものにしたい正規軍と、ヴァミリアのために身を粉にして戦い続ける異国侵攻部隊。
作戦の水面下ではアヌマエルを消す動きも見られる。
だが、彼はものともしない。やつらは神王から零れる甘い汁をすすために偽りの忠義をぶら下げ、媚びへつらっている。
が、異国侵攻部隊は神王ではなく、ヴァミリアという国自体に忠義を尽くしている。
戦場に赴く想いの差で会議の場でぶつかることが多い。
正規軍の内部にも、上官に対する不満は少なからずいるだろう。
「そして弱ったランダーンに我々が、貴様の言葉を借りて疾風迅雷でランダーンの首元に刃を突き立てる。こうすれば、兵の消耗も最小限に抑えられる」
褒める言葉が見当たらなかった。彼以上に完璧で華麗な作戦だった。
「流石です。アヌマエル様。よくこのような作戦を短時間でお考えになる」
「なに、こんなものは初歩の初歩だ。少し落ち着いて考えれば答えはすぐに出る。それに到底やつらには出ないさ。生きている場所が違うからな。我々が生きているのは戦場だ。温いベッドの上ではない」
小一時間ほど個人的に話を聞いていたかったが、用も済ませてしまったので、これ以上アヌマエルの邪魔をしてはならないと考え、テントから立ち去ろうとするが頭を下げ、踵を返そうとした時に来客が来た。
「アヌマエル、話があるんだけど」
ずかずかと無礼も気にせずテントに入ってきたのは、ターツァ・クローバーだった。
朝焼けのような金色の髪。深く蒼い瞳。妖艶な紅い唇。女性にしては背丈が高く、軍服から漏れ出る大人の色香は正規軍の中で男どもを虜にしていった。
「どうしてお前が――!」
ゼハは食ってかかるようにターツァを警戒した。彼はこの女が大の苦手で大嫌いだった。
回りからは天才軍師と呼ばれ勝ちを確かなものに、負けを最小限に抑え、負け戦では負け知らず。勝ち戦では勝利を絶対に。
勝ち戦では指揮をすることがなく、いつも気分次第。
負け戦となると率先し指揮を執る。誰一人として、彼女が指揮を執った負け戦で死んだ者はいない。
「あら、ルルの坊やもいたのね。あなた本当にアヌマエルのことが好きねぇ」
「その呼び方は止めろと何度も言ったろ!」
彼の怒りを逆撫でするように、彼女は笑いながら話す。
「いやねぇ、女性の扱い方がなってないわ。もっと丁寧に話しなさい。そうじゃないと女は逃げていくわよ。それとも私が直々に教えて差し上げましょうか? ねぇルルの坊や」
頬を撫でいたずらっぽく、くすくすと笑う。
「だっ、誰がお前などに教えてもらうものか!」
一気に騒々しくなった朝に、溜め息を漏らしつつもアヌマエルは二人の喧嘩を止めた。
「それで、用件はなんだ?」
「次の戦い、私の指揮で戦ってみない? あなたも指揮の仕事を私に預ければもっと戦いに集中できるわよ。ねぇ良いと思わない?」
彼女は正規軍。そしてアヌマエルは異国侵攻部隊。手を取り合うなど有り得ない話だ。
「そんなことできるわけないだろ! 私たちはアヌマエル様の元で戦うと決めたのだ」
否定したのは、ゼハだった。彼のプライドがそうさせたのだ。
「あなたには聞いていないわ。大人の話し合いよ。子どもは黙っていて頂戴」
「こっ、子どもだと!」
むきになり、ゼハの怒りが頂点に達しようとした時だった。彼はゆっくりと彼女の申し出に対して言葉を放った。
「貴様の指揮下に入って、我々に何か得はあるのか?」
威圧するような眼だった。
「あるわよ。もう少しここでのしがらみを緩くしてあげる。それじゃご不満かしら?」
アヌマエルは珍しく声を出して笑った。
「良いだろう。考えるだけ考えてやろう」
「しっ、しかしアヌマエル様!」
拒否するであろうと考えていた答えが違い、動揺を隠せないゼハ。
「それじゃよろしく。答えは早く聞かせてね。女は待つのが嫌なの。特に私はね」
話しが落ち着くと高らかに角笛が鳴る。聞き慣れたいつもの進撃の知らせだ。
「進撃準備だ。行くぞターツァ、ゼハ」
アヌマエルがゆっくりと立ち上がり、マントを翻して二人を引き連れテントの外へと出たのであった。
――ランダーン最果てのベルダ村――
クロネは、今目の前で起きようとしている悲劇に未だに気づいていなかった。
数十キロ離れた先ではヴァミリア屈指の戦士たちが集う、異国侵攻部隊と大部隊の正規軍が侵攻しているとはつゆほども知らなかった。
彼はまだベルダ村にいた。村に残っている人々を避難させるためだ。
昨日の戦場を悲惨さを見たおかげなのか、避難という意見に賛成が多かった。
村は人が集まればいつでも復元できるが、ここでの財産や生きた証は二度と戻らない。
奪われたものは二度と戻らない。だがそれは、命でも言えたことだ。
命が無ければ、新たな村も新たな財産は元に戻らない。
反対派は、一番に家畜の心配をした。隣町に移動するには牛や羊の家畜は余計な荷物になる。
馬なら足になるので話は別だが。反対派を落ち着かせて説得させるのは、骨が折れた。
村人たちは、家畜たちに最後の餌をありったけあげて別れを告げ、移動の準備をしていた。
残るのは、ここ診療所だけだ。ここだけが逃げることもせずに傷ついた兵士を治療し続けている。ただでさえ頭が良いエルヤをどうやって説得させたものかと、昨日は作戦とともに寝ずに考えていた。
考えるしかなった。いつものように寝られるはずがない。敵はあの天を穿ち、大地を割ると恐れおののかれるヴァミリア軍だ。
一瞬の油断は命取りとなる。多くの兵士は現実から逃げるように仮眠をとったが、ガンバレルとクロネだけは、美しくとも儚げな蒼白い月を見上げていた。
診療所の入り口で、深い溜め息とともに深呼吸をし中に入る。寝ていなかったのは、エルヤもまた同じだった。
目の下にくまを作り、椅子に腰かけたまま気を失ったようにしてカルテを持ちながら、いつしか眠りについていたらしい。
エルヤは人の気配に気がついたのか、夢か現か分からないまま目を覚ます。
「なんだ、クロネか。……どうした?」
「あっ、いえ。そろそろ避難の準備をお願いできないかと」
目頭をつまみ、疲れを取る仕草をして白衣に袖を通す。
「ここは、お前が守るんだろ?」
「そうですけど、多分……増援が来たとしても僕たちが生き残っている可能性は低いと思います。この村も無くなる可能性も。だから――」
「無理だな」
クロネの言葉を遮り、彼の要望に対してこれまではっきりとした否定はエルヤの口からは、今まで聞いたことが無かった。
「ここには私の患者がいる。医者の私がここでそそくさと逃げてしまったら、患者は死ぬ。予断を許さない奴が三人。昨日死んだのが二人、傷口を塞いだが戦争によるショックで暴れ出す奴もいる。どいつも俺がいなければ、死んでしまう。移動の最中でも出来ないことは無いが、馬車の中だと揺れる。それに持ち出せる医療器具も限りがある。だからせめて、ここにいる患者が全員安全になったら私も逃げる。それでいいな?」
プライドがあった。何千人、何万人も治療した名医としてのプライドや、たった一人の人間としてのプライド。
眼差しは真剣そのものだった。
エルヤは時に戦地での医療活動もある。感染症が蔓延していて、暴動も数多くあった地域にもいたことがある。
しかし、彼は一度も自分の患者を置いて逃げたことは無い。患者よりも先に逃げたことなど一切無いのだ。
この手で一つでも多くの命が救えることが、彼にとって唯一他人に誇れる部分だった。
多くの経験から、この場合は医者として何が正しい判断か。一度冷静になって考えた結果だ。
誰からも文句を言われる筋合いはない。
「本当に、大丈夫なんですか?」
心配そうにクロネがもう一度だけ尋ねる。
「ああ、安心しろ。ここにいる全員私より先に逃がすよ。大切なリリィもな」
リリィは人手が足りない診療所で必死に、エルヤの手伝いをしていた。
だからこそ、彼はここにいる人たちに欲を言うなれば、誰よりも先に逃げて欲しかった。
「だから、お前は何が何でも生き抜け。死んでいった奴の為にも、そしてリリィの為にもな」
エルヤはフッと笑いながら、カルテを持ち処置室へ消えていく。
クロネは頭を下げ、ありがとうございますとよろしくお願いしますを心の中で行った。
時刻は昼を一時間ほど過ぎたころ。
両軍の激突はまた始まろうとしていた。太陽は天高く昇り燦々と照らす。クロネは鬱蒼と生い茂る山の森の中にいた。
ランダーン山脈は国境をなぞるように並び立っており、この山々が敵からの侵略を防いでくれると言っても過言ではない。
道を知らなければ、必ず遭難し山に飲み込まれる。ベルダ村の兵士全員どこを走ればどこに出ることができるかなど、すべて頭の中に叩き込んでいる。
何故彼らが山中にいるかというと、それは作戦の為である。
作戦を考え付いたのは、昨晩ガンバレルと月を見上げている時だった。
「なぁ、ガンバレル。谷の上から攻撃って出来ないかな?」
「はぁ?」
クロネの言葉を最初は冗談と思っていたが、出来るかどうかで考えてみれば出来ないことは無い。しかし、それは危険を伴う。
「出来ないこともない。だが、分かってんだろうな。俺たちが銃を持って山を登る。銃だけじゃねぇ、完全武装したまま山を登るのは危険なことだ。下手すりゃ、死人が出る」
つい先日のことだった。村人の一人が雨が降り地面がぬかるんだ山道を帰る途中に、足を滑らせ大怪我をした。
山肌はまだ乾いていないだろう。
ただでさえ、普段山道を歩かない兵士たちが山を歩くだけで自殺行為だ。
「お前、まさか。本当にやる気なのか?」
「もちろん。僕たちは、多少の危険を伴った作戦でもやらなきゃならない。そうじゃないと、僕たちは何も守れない」
ガンバレルは渋々了承し、クロネの作戦を具体的にするために話し合いを始めた。
作戦はこうだ。敵が交戦を始めるに合わせ、奇襲班が谷の上から狙撃をし敵を排除。谷の入り口には戦車と歩兵。
戦車は対戦車銃槍を持ってこない限り、破られることは無い。
クロネは奇襲班を率い、山を登る。通常かかる一時間の道を三十分で登らなければならない。
敵がいつ、攻撃を仕掛けてくるか分からない。それに山道は夜の間進むことはできない。明るくなり、道が分かる昼頃でなければ登ることができない。
昼を過ぎても敵は攻めてこない。理由は分からないが、好都合なことこの上ない。
防衛班には副隊長のガンバレルがいる。彼がいるなら、到着する前に突破されるのは有り得ない。
「急げ! 交戦が始まる前になんとしても到着するんだ!」
クロネは柔い山肌を削るように走り、何キロもある装備一式を担ぎながら、遅れる兵士たちを勇気づけながら目的地を目指す。
一方、防衛班はすでに交戦を開始していた。
ヴァミリア軍が何かを待っていたように、一斉に動き出し攻防が始まった。昨日のあの狂った姿は見る影を潜め、銃声だけが響く。
ようやくの思いで谷の上に到着したクロネたちは、うるさく響き渡る銃声にうんざりしながら銃を構え、戦闘準備を指示する。
「構えろ。まずは敵を谷の中まで誘い出すんだ」
ガンバレルらは、時刻通りについていると信じながら発砲中止の合図を味方に伝える。
銃声が止まるとヴァミリア軍が、濁流のように谷の中に流れ込む。
やはり、操られているように行けの掛け声でたとえ地雷原の場所だろうと、弾丸が飛び交う嵐の中でも、神王を信じて突き進む。
哀れと感じながら、クロネは目を見開き攻撃を支持する。
予想だにしなかった上からの攻撃。
ヴァミリア軍は叫び声一つも上げずに、まるで虫のように絶命していく。
光景は、無残を極めた。
一度の攻撃で、十名は確実に殺した。
人を殺すという、彼らにとっての非現実がいつしか現実に馴染んでいく。人間の慣れとは恐ろしいものだ。
しかし、人を殺すことに慣れてはいけない。これだけは決して現実に馴染ませてはいけない。血で濡れた手は二度と洗い流すことはできないだろう。
殺した者たちが亡者となっていつしか復讐に来るかもしれない。
どんな理由があれど人を殺すという行為に、正しさなど求めてはいけない。
だが、今だけは今こうして人と殺してでも守ろうとする行為だけは、正しいことだと信じるしかない。
決着をつけなければならない。躊躇いや戸惑いが、自分を殺してしまうその前に。
気がつけば、ヴァミリア軍の侵攻の足が止まっていた。初めてのことだった。
「みんな、気を抜くな。必ず何か仕掛けてくる」
排莢し、地面に落ちる空薬莢の音が耳に残る。時間が静止してしまったようだった。
まばたきを一回、二回、三回目の時だった。
静止していた世界が再び音を立てて動き出す。歪な音を立てて、歪んだままの歯車を回し続けた。
敵軍から放たれたのは、音響弾と呼ばれるものだった。大きな女性の悲鳴にも似た甲高い高周波をたてて、人の耳を一時的に使えなくするもの。
どれだけ近くにいても声が聞こえない。意思の疎通がままならない。
気を引き締めろ。と言いながら隣の仲間を見ると、彼はものの数秒で肉塊と成り果てた。
クロネの目の前にあったのは、真っ赤な血に汚れた巨木。
――違う。
逃げろと叫ぶ声すらも届かない。
巨木と思わせるほどの剛腕の持ち主は、筋骨隆々の傀儡兵だった。身の丈はゆうに二メートルを超えている。
はち切れんばかりの筋肉を使い、クロネに襲いかかる。銃を盾にしたが、簡単に吹き飛ばされてしまう。
地面に折れた銃が転がり、背中から強く叩きつけられる。
あの大きな体の足音すらも聞き逃したのか。と自分の耳を疑ったが、ここでようやく音響弾の二つの狙いが理解できた。
一つは、耳を使えないようにして混乱を招く。そしてこの傀儡兵でその混乱を加速させる。
となると、傀儡兵は山を登ってきたということになる。読まれていた。作戦自体が。
村人しか知らない山道をどうやって。
だからこそ、彼らは何度もこの国境付近をうろついていた。攻める手順をあらかじめ決定し、この手を打たれたならばこの手で返すと決めていたのだ。
まるでボードゲームでもしているような感覚で、戦況をいとも簡単に覆された。
仲間たちが誰にも届かない叫び声を上げながら銃を撃つが、痛覚すら薬で消された傀儡兵には、まったく効果が無かった。
剛腕でまた一人、また一人と肉塊になる。仮面が鮮血の血飛沫で穢される。
耳鳴りが止み、ようやく叫び声が鼓膜に訴えかけていく。助けてくれと。死にたくないと。
呪いのように何度も何度も繰り返されるその言葉。また救えなかった罪悪感で、押し潰されてしまいそうになるクロネに、エルヤの言葉が突き刺さる。
生き抜け。
言葉の呪縛を振り払い、罪悪感を胸にしまい込み立ち上がる。
生き残っているのはたったクロネを含め二名。ここに来たとき十名はいたはずだ。
「逃げるぞ、防衛班に合流するんだ。行こう!」
クロネとともに逃げようとするが、彼はクロネを突き飛ばし傀儡兵に捕まってしまう。
「どうして!」
「逃げてください。あなたには、帰る場所があるはずだ」
彼は目の前で潰された。まるで熟れたトマトのように。
落ち葉を握り、歯がゆさに身を焦がしながら死んでいった情景を振り切るようにして傀儡兵から逃げた。
無様と笑われてもいい。だが、必ず生き抜いてみせれかればならない。そう誓たのだ。
そして谷の上で惨状が繰り広げられるとも知らず、援護待ちながら銃撃戦を再開させていた。
「上はどうした! クソ、戦車は下がれ! ヤバくなった時の保険だ。全員、銃身が焼け焦げるまで撃ち続けろ!」
ガンバレルは奮闘を続けていた。
防衛班の数は村人を入れれば、三十人。数ではほぼ互角に持ち込めたがしかし練度まではそういかない。
「嘘だろあいつら!」
そして戦場が持つ非情さも知らない。
ヴァミリア軍は驚いたことに、死体を拾い上げ盾のようにして前進する。
銃が古い故に、弾丸は人体を貫通しない。それ以前に先ほどまで生きていた人を盾にするなど常識では考えられないことだ。
倒れていたがまだ生きもあった者もいた。しかし、兵士として駒として使えなければ、もはや捨てる以外に彼らの中では選択肢はない。
そして死体の間から、一本の大口径の銃口が突き出していた。
――あれは。
対戦車銃槍。名の通り、戦車に向かい撃つものだ。もちろん人に向けて撃って良いものではない。しかし、ここは戦場。
有り得ないが通じる世界だ。
「逃げろぉおおおおおおお! 対戦車銃槍だぁあ!!」
放たれた一本の槍は、螺旋を描きガンバレルたちを襲う。轟音と爆音が辺り一面を破壊し尽くしていた。
防衛線はまたしてもあっさりと崩壊した。
土煙が晴れると、ヴァミリアが進軍を再開させる。谷を抜けられ村へと続く平原が眼前に広がる。防衛するための土嚢はあれど、人数の関係でこの広い平原すべてを守り切るのは不可能だ。
こうなれば、敗北は必至。村を捨て逃げるしかない。
だが、ガンバレルは逃げはしなかった。銃に弾を込め、戦車や残った兵士を連れ最後の交戦に移る。
「お前ら、無理に付き合わなくたって良いんだぜ? 逃げたい奴は逃げても誰も文句は言わねぇよ」
誰一人として逃げなかった。戦闘に参加した村人も、兵士として誇りをかけた仲間も。
「どうやら、ここには馬鹿しかいないみたいだな。……じゃあ、あいつら見せてやろうぜ。俺たちの意地ってやつを!」
最後の抵抗が始まる。
その数分前。診療所ではまだエルヤが処置を続けていた。
リリィは、あの異国の女性兵士の世話のために彼女の部屋を訪れていた。
「あの、失礼しますね。あれ? いない」
あの傷では、まだ動くことも出来ないはずだ。部屋中を探すが見当たらない。彼女がいたはずのベッドに手紙が置いてあった。
「手紙?」
手紙の中身には、こう書き記してあった。
『ここはもうじき、戦場になる。私が時間を稼ぐ間に、ここを人たちを連れて逃げろ。それと命を助けてくれたこと感謝している。この恩は忘れない』
最後に彼女の名前が書いてあった。
「キリハ・アンフォード……。あの人、もしかして!」
リリィは察したように窓の外を見る。すると天はかき曇り曇天が村を覆う。その中でひときわ目立つ紅い髪と、藍染の服。
間違いない彼女だ。
キリハは腰に剣をぶら下げ、どこかのお人好しが縫った部分をなぞりながら、その足は戦場に向かっている。
彼女自身、死ぬつもり毛頭ない。逆にヴァミリア軍を全員殺す気で戦いに臨む。
そして、ベルダ村駐屯兵の最後の足掻きが始まった。