第二話
薫風舞う平原を越え、大きな谷を越えて愛馬を全力で走らせているクロネはようやく関所に到着した。
門のように作られた関所は扉は常に閉じられており、二階が見回り用の高台になっているが、酒や暇つぶし用のボードゲームが置かれており、今は兵士たちの休憩所となっている。
本来の使用用途を忘れられていた関所が、本来の使用に戻る。しかしそれは、誰一人として望んでなどいなかった。
クロネは二階に駆けあがり、この駐屯兵の総指揮を担当しているマベル・アッカーに話しかける。
「マベル隊長、ヴァミリア軍はどうなっていますか!?」
マベルは嫌な汗をかきながら、そっと双眼鏡を彼に手渡す。
「見ればわかる……」
生唾を飲み、クロネは意を決して双眼鏡を覗き込む。
そこには、出来れば嘘であってほしかった現実が広がっていた。
大きな黒い蛇が、山中の平原を我が物顔で闊歩している。ヴァミリアの黒い軍服が、ここまで恐ろしく見えたことは無い。
一糸乱れぬ足並み。手には最新型の錠を持っており黒い仮面をつけているせいか、異界の魔物が攻めてきたかのように感じる。
彼らの周りがどす黒く、邪気を纏っているかのようだ。見ているだけで寒気が走る。
同じ人間にはどうしても見えなかった。
「拡声器を持ってこい。いつものように警告だけで帰ってくれればいいが……」
マベルがそういうと一足先に来ていたノルヨカが、ホコリや蜘蛛の巣がかかった拡声器を持ってくる。
ヴァミリアの兵が何度か国境付近をうろつていたことは、これまでに何度かあった。
いつもなら拡声器で警告をすれば、踵を返して帰っていくのだ。今回もそうであってほしいと切に願う。
マイクのスイッチを入れガラクタ寸前の拡声器を使い、マベルが警告を始める。
「こちらは、永久中立国ランダーン国境警備隊兼ベルダ村駐屯兵隊長のマベル・アッカーだ。ここから先は我が母国ランダーンの地だ。武装し、この地に足を踏み入れるのならば侵略行為とみなし国際問題に発展する。戦闘になるのはこちらも不本意だ。互いに無駄な犠牲は払いたくあるまい。そちらにも平和を愛する気持ちがあるのならば、今すぐに引き返してくれ。これは警告だ。もう一度言うこれは警告だ」
マイクのスイッチを切り、一息つく。
「隊長! ヴァミリア軍の足が止まりました!」
双眼鏡を覗いていたノルヨカが、マベルに報告する。どうやら今回も挑発だけで済みそうだ。誰しもが、安堵した時だった。
――突然ノルヨカが大声で叫ぶ。
「敵陣に戦車を確認! 砲台こちらを向いています!!」
事の重大さを理解するのに何秒有しただろうか。
そう戦争はすでに始まっていたのだ。警告など何の意味も持たず、ただ敵は当たり前のように、関所に向かい砲弾を撃ち込んだ。
「逃げろぉおおおおおおおおおおお!!」
関所の二階は轟音とともに爆ぜ消えた。マベルの叫びに反応できたのは、僅かに三名。
砲台の動きを見ていたノルヨカ、外にいて銃を構えていたガンバレルとマベルの真後ろにいたクロネだけだった。
砲撃で外へ吹き飛ばされたクロネは、地面に頭を打ったのか視界が歪む。耳鳴りが止まなまま、無数の瓦礫の中で目を覚ます。
「くそ……。ゴホッ! 誰かいないのか!」
ガンバレルの声が聞こえる。彼はまだ無事なようだ。
体が強く地面に叩きつけられた衝撃の痛みのせいで、上手く言葉が出ない。動こうとしても、何かが体に重なっているせいで身動きが出来ない。
体に重なる物をどけようとする。手に触れたのは冷たい瓦礫ではなく、まだ温かい人の肌だった。
「クロネ……大丈夫か?」
目の前にいたのは、血だらけのマベルだった。
混濁していた意識と記憶が徐々によみがえってくる。
クロネは砲弾が直撃する寸前にマベルに突き飛ばされ、彼が覆いかぶさるように瓦礫やガラス、砲弾からクロネを身を挺して守ったのだ。
「隊長……? どうしてこんな!」
「部下を、守るのに……理由が必要か?」
身を起こし、彼の体を確認する。
背中には無数の瓦礫やガラスが突き刺さっており、見るも無残な状態だ。
「隊長、あっ、足が……」
彼の足が消えていた。爆発の影響で足が千切れどこかにいってしまったのだ。止めどなく流れる血の河。左腕はねじれ、皮膚が裂けている。
鉄骨の一部が脇腹や肺を貫通しているせいか、呼吸すらままならない。
血臭と爆炎の焦げた臭いが混ざり合い、噎せ返るようにくさい。嗚咽を我慢しながらマベルの体を瓦礫の中から救い出す。
「俺のことはいい……もうすぐ死ぬ。クロネ、おまえに、伝えたいことがある」
掠れた声を絞り出す。見るに堪えない状態だった。今すぐにでもエルヤのところに連れていき、治療させたかった。が、素人目でも分かる。
彼は手遅れだ。応急処置もできずに血はだらだらと延々と流れ続ける。
「なんで、しょうか?」
だからこそ、彼の最後の言葉を聞いてやらねばならない。それがクロネにしてやれる、最後のことだった。
「俺の死体、は置いていけ。それ、と……おまえが、この隊の指揮をするんだ。おまえにしか、頼めない……。やって、くれるか?」
弱々しい声が消えていく。彼の返事も待たずに。
「分かりました。やれるだけやってみます」
マベルはもう死んでいた。だらんと首を下げ、生気すら感じられなくなった瞳だけを残して、彼はもう逝ってしまった。
「隊長……」
悲しみに暮れるのはあとだ。彼には、やらねばらないことが残っている。これ以上被害を出さないこと、そして村に人々を命に代えても守ること。
あそこには、大切な人がいる。
「おいクロネ! 大丈夫だったか!?」
ガンバレルが話しかけると、クロネは頷く。
「隊長……? おいまさか!」
彼はクロネの傍らで死んでいる無残な隊長の死体を見た。
「ああ、隊長は……僕を庇って死んでしまった。……僕は任された。だから、僕の指示に従ってくれ。ガンバレル、みんなを集めてくれ。関所は壊された。数キロ離れた先に防衛線を作る。いいね?」
「お前、どうしてそこまで冷静にいられるんだよ。人が死んだんだぞ!」
「分かっているさ! でも、ここで誰が冷静にならないとみんなが死ぬ。それに、僕は託されたんだ。みんなの命を」
恐ろしくも冷静なクロネにガンバレルは最初の間戸惑っていたが、彼の真剣な眼差しを信じた。
「分かった。みんな、集まってくれ!」
彼のかけ声で生き残っている隊員が集まる。二十人中生き残ったのは十八名。隊長のほかにもう一人犠牲なってしまった。
「隊長は死んでしまった。僕は最後の命令により、この隊を任せられた。ここから数キロ先に防衛線を作る。谷の前に数十年前に作られたそれ用の基地もある。絶対に村に奴らを近づけさせないためにも、みんな協力してくれ」
返事はまばらだった。
いきなりのことで状況が飲み込めない者もいれば、ノルヨカのようにクロネに賛同している者や、先ほどの砲撃で戦意すらも失っている者。
場が混沌としていた。
なんとかして皆をまとめなければ、いずれ敵の攻撃も待つことなく、駐屯兵団はバラバラになるだろう。
「いきなりのことで状況が飲み込めない人もいるだろう。だけど頼む! 今は僕を信じて動いてくれ!」
クロネは頭を下げ、皆に切願する。
「隊長がここまで頭を下げている。協力しないわけにはいかないだろうが! お前ら、あそこには俺たちの守るべきもんがある。それを守られねぇで死ぬわけにはいかねぇ。兵士なら、大切な物守ってから死のうぜ」
クロネの横に立ち、士気が下がるこの空間を奮い立たせたのは他の誰でもなくガンバレルだった。口調は荒々しかったが、彼の想いが通じたのか、拳を突き上げ雄たけびをあげる者もいた。
一番大きかったのは、隊員から信頼が厚いガンバレルがクロネを隊長と呼んだことだろう。それにより隊員は理解したのだ。
今は彼が隊長なのだと。
「やりましょうクロネ隊長! 僕たちがあの村を守りましょう!」
ノルヨカが賛同し、周りの者たちも賛同し始める。どうにか空中分解になることだけは防げたようだ。
「ありがとう。みんな」
「隊長なんだから、もうちっと堂々としやがれ。じゃねぇとみんな不安がるんだよ」
ガンバレルはクロネの背中を、音が鳴るほど強く叩き気合を入れた。
彼は、背中に痛み以外の何かを感じ、ガンバレルが言ったようにしっかりとしなければ。と己を奮いたてる。
「まずは移動だ。ヴァミリアがいつまた攻めてくるか分からない。今のうちに戦闘の準備をしよう。各員行動開始!」
生前のマベルの言動を思い出しながら、真似をしてクロネは指示を送る。
全員それぞれの馬に騎乗し、指示された場所へと駆けていく。
「マベル隊長。僕、貴方の無念必ず晴らしてみせます」
心の中で敬礼をし、愛馬に乗り隊員の後を追う。
戦闘は始まってしまった。もう止めることはできない。彼らに出来ることはただ一つ。被害を食い止めること。
本隊が相手なら戦闘にもならないが、所詮は尖兵。食い止めることぐらいできる。
数は五十いるかいないか。数の圧倒的不利は変わらない。
だが、こちらには地の利がある。他の町に行き援軍を呼ぶだけの時間は稼げるはずだ。
山間に吹きすさぶ風を切り裂くように愛馬を駆るクロネは、未だに気づいていなかった。人を殺すとは、人を撃つとはどういうことなのかを。
そして悩む。命を奪ってしまったことに。
十分ほど馬を走らせ到着したのは、防衛線を張るための設備。基地と呼ぶにはいささか小さすぎる。
「銃を持って、土嚢を積み上げろ! いいか絶対ここから先に行かせるな! 俺たちの死に場はここだ!」
クロネよりも先に来ていたガンバレルが早速、防衛線を作成していた。全員訓練通りの動きをしている。
しかし今から行われるのは、訓練をしていないことだ。
クロネも銃を持つ。
手に持つのは、何世代も前のマスケット銃。銃剣を付け、一発一発確かめるように弾倉に弾を込める。
一度に装填できるのは五発まで。一度に撃ち出せるのは一発。かたや相手は一秒間に何発も弾を吐き出す最新式の銃。
持てるだけの弾倉をポケットに入れ、弾を装填する。
「アルボー、ワッテ。二人は戦車に乗って谷の前まで来ていてくれ。もしものためだ」
二人は頷き、村に置いてある新品同様の戦車を取りに行った。
彼らは唯一の戦車専属の乗り手だ。
クロネも戦車の動かし方程度なら知っているが、すべてを知っているわけじゃない。
戦車は谷を越えれない。戦車そのものが細い谷に入れないのだ。だからもしものために谷の入り口に戦車を置く。
ここが突破されても戦車が待ち構えている。
だが、突破されるわけにはいかない。谷を越えられると村は目と鼻の先。広大な平原が広がっており、人手の少ないこちらが圧倒的に不利だ。
「各員、戦闘配備。もうじき敵が来る」
クロネの言う通りにして、皆が土嚢に隠れ銃を構える。
引き金にかける手がいつもより重い。木片だけを撃ってきた時とはわけが違う。
そして地平線から、黒い蛇が現れ出でる。
戦う術を知らない小動物をいたぶるように、蛇はまるで遊んでいるかのように締め付けていく。
気がつけば、息が吸えなくなってしまうのだ。
首元に毒牙が迫っている。払いのけるには今しかない。大切な物を奪われるその前に。
「来るぞ! 気を引き締めろ!」
ヴァミリア軍は何かが弾けたかのように走り出す。叫びながら銃を乱射する姿はまさに狂っていた。
まだ。まだ。と恐怖や緊張で焦る鼓動と気持ちを抑え、標準を覗く。
まだ届かない。もう少しだけ。クロネの指が震える。顎から汗が滴る。標準が動く。銃弾が土嚢に当たり、土が飛ぶ。
「今だッ! 撃てぇええええええええええ!!」
クロネの掛け声で一斉に銃弾が敵目掛けて飛んで行く。
彼も引き金を引いたはずだった。しかし、手が動かない。
恐怖ですくんでしまっているのだ。情けないと自分で自分を叱咤し、様々な想いを引きずり込めた弾が敵に撃ち出された。
放った弾丸は少なからず敵に命中した。
鮮血が緑を大地を赤く染める。敵には絶命した者もいた。瀕死の重傷を受けた者もいた。しかし、誰一人として歩みを止める者はいなかった。
ひたすら進み、命果てるまで戦い続ける。
異常な光景だった。足を撃たれ動けないと思う敵でさえ、立ち上がり神と叫びながら戦う。呪われて――否、憑りつかれているようだった。
銃弾はついに味方の命までも襲い始めた。
「目がぁぁあああぁああ!? うあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
叫び声すらも銃声で掻き消される。自陣に投げ込まれたのは手榴弾。降ってきたのは、手榴弾の雨。
「手榴弾だ!」
叫ぶのが刹那遅かった。何名かは土嚢で守られたが、興奮で身を乗り出してしまっていた一人だけが、犠牲となってしまった。
土煙で視界が一時的に奪われると同時に銃声が鳴り止む。
「気を緩めるな。みんな絶対動くな」
弾倉を代え、手動で弾を排莢する。銃身が火が出るほど熱くなっていた。彼も含め全員すでに満身創痍。
これ以上戦闘が長引けば、いずれ気が狂ってしまう。興奮で身を乗り出す者の出てくるだろう。
「なぁ、敵はいなくなったんじゃないか? 俺たちの勝ちだ。やったぞぉおおお!」
「馬鹿立ち上がるな!」
ガンバレルの隣にいた兵士が、何を思ったのか勝利を揺るがぬものと確信し、雄たけびを上げながら立ち上がる。
命取りはこの一つの過ちだった。
「へ……?」
彼の体は蜂の巣になっていた。煙と静寂を轟音とともに消し去りながら。敵は逃げてなどいない。むしろ近づいている。
「こっちも手榴弾を投げるぞ!」
ガンバレルが口でピンを抜き、まだ見えぬ敵に手榴弾を投げる。
鈍い地響きが場を再び静寂と返す。
反応が無い。それがかえって不気味だった。先ほどとは打って変わって静かすぎる。
「神の名のもとに!!」
聞こえてきたのはこの言葉だった。
土煙が晴れると、再び銃を乱射した男が走りながら近づいてくる。
狂気に支配された男の胸にはいつくもの爆弾が仕込まれていた。全員が察した。自爆するつもりだと。
「神王万歳ぃいいいい!!」
人間が泥人形のように爆発した。
クロネたちの目の前で。土嚢とともにクロネたちも吹き飛び、散った肉片だけが彼にへばりつく。
噂には聞いていた。ヴァミリア軍の傀儡兵。
神王ヴァルレンディオを絶対とし、彼への忠誠心からか、操られているように戦い喜びながら死んでいく。
クロネたちも名前だけは知っていたが、これほどとは思いもよらなかった。
しかも自爆したのは一人だけではない。一人、二人、三人と自らの命を差し出した。
自陣で巻き込まれたのは、八名。状態は明らかに悪い。怪我をし、泣き叫んでいる。わざと死なない程度の威力で痛めつけている。
戦線が壊れ始めた。
「逃げよう。谷の入り口まで撤退だ。みんな撤退だ!」
クロネの判断が正しかった。が、仲間を傷つけられ怒り狂った数名の兵士たちが敵に向かい攻めていく。
敵の中心に行くのは、無謀なことだった。
叫び声がこだまし、耳に残る。これが戦争。
彼の足の震えが止まらなかった。腰が抜けて、立ち上がることすらままならなかった。自分の足を何度も殴り、言うことを聞かせる。
「谷の入り口まで撤退だ! みんな言うことを聞いてくれ!!」
必死の叫びだった。ようやくクロネの叫びが届いたのか、撤退を始める。
「戦車だ! 戦車が来たぞぉ!」
味方の悲鳴にも似た叫び声で駐屯兵全員が振り向くと、鋼鉄の装甲の絶望が迫っていた。誰しもが、敗北を予期した瞬間でもだった。
恐怖心で埋もれそうになる気持ち。
クロネですら、心が折れてしまいそうになるほどの絶対的で強大な死。
これが初めての戦場。あまりにもむごすぎる。勝利など欲しくなかった。ただ守れさえすればよかったのだ。
このままだと大切な物がすべて壊されてしまう、奪われてしまう。
「ごめん、リリィ……」
こんな時でもクロネは彼女の名前を呼んだ。
下唇を噛みながら、己の非力を悔やみながら。たった一つの誓いさえも蹂躙していく。
そうだ、約束したはずだ。どこにもいかないと。ずっとそばにいると。ならば守らねば。この気持ちだけは殺してはいけない。
生きる希望を、捨てるわけにはいかない。もう一度だけでもいい彼女に会いたい。村に戻りたい。
単純な理由が、彼の体を突き動かす。
「みんな足を止めるな、谷まで行けば戦車は追って来ない! 怪我人を連れて馬で逃げるぞ!」
馬に乗り、戦場から撤退を始める。何故か、ヴァミリア軍から銃弾は飛んでこなかった。
わざと彼らを逃がすように、馬の尻を叩くように戦車から放たれた砲弾が、先ほどまでいた彼らの場所を粉々に砕く。
「みんな止まるな!」
気まぐれとも知れない奇跡を二度信じるだけの勇気は、あいにく持ち合わせていない。
全員馬を走らせ、谷へと消えていった。
「どうして……追って来ない?」
ガンバレルがクロネに近づき、ヴァミリア軍の様子を伺いながらそう言った。
「分からない。だけどいずれまた戦闘が始まる。援軍が来るまでなんとか耐え続けないと」
谷を抜け、自軍の戦車が堂々と立っている。
「アルボー、ワッテ」
馬を降り、二人の名前を呼び戦車の入り口の扉を開けさせる。
「クロネ、どうなった? ヴァミリアを追い返したのか?」
答えたくもない問いがアルボーからされた。彼の顔も、脆い希望にすがるような表情をしている。
口が重い。言葉がまるで鉛のようだ。彼はアルボーの僅かな期待を裏切るように、ゆっくりと問いに答える。
「ダメだった……。押し返すことはできなかった。それに、仲間も数名――やられた」
戦車を強く殴ったのは、アルボーでもクロネでもなくガンバレルだった。
「俺がもう少し強けりゃ、一人でも犠牲を少なくできたはずなのに。くそ! 今まで何をしてたんだよ俺たちは!」
後悔などしてももう遅い。
状況が変わってしまったのだ。穏やかなベルダ村で何もせず、ただ毎日を気を張らずに過ごしていた日々は、終わったのだ。
戦火に飲み込まれそうになった時、後悔は命取りとなる。
クロネたちが、しなければならないことは後悔でもなく、ただ必死に生きていたはずの仲間の分まで生き抜くことだ。
「ガンバレル、ここにもう一度防衛線を作る。もう日が沈む。夜間までは、さすがのヴァミリア軍も攻撃はしてこないだろう。今のうちに村の宿舎から武器や食べ物を持ってくる。谷の入り口は細くて戦車は通られない。戦車を軸にして夜間は耐え忍ぶ。指揮を頼まれてくれるか? 僕は、村に戻って説明してくる。二時間ごとに見張りは交代するようにしよう」
ガンバレルは痛む右手をさすりながら頷く。
クロネは愛馬を駆り、村へと急ぐ。彼もまたリリィの顔を見て安心したかったのだ。そしてまた、まだ守れていると自分に言い聞かせるためでもあった。
「ノルヨカ、みんなは?」
真っ先に村の全員に事情を事細かに説明し終わり、診療所に着くと目を涙で腫らしたノルヨカが、処置室の前で壁に身を任せ座っていた。
「今、処置中です。先輩、この戦闘で八名が重症、五名が死亡。軽症者も含めれば残っているのはたった七人です。もう無理ですよ、援軍が来るとしても最低でも三日。どうやってこの村を守り抜けばいいんですか?」
答えられるはずなどなかった。
誰かが隣町に援軍を頼んだとしても、おそらくこの村は見捨てられる。勝てるはずもない戦いに、臆病なランダーン軍が来るはずがない。
自分たちが死ぬ様を、彼らは平気で見て見ぬふりをするだろう。
孤立無援。次第に、自分の手足が切断されているかのような気分だ。
「今、友人が処置されてます。右腕が爆弾で無くなっていました。あいつ、手先が器用でして、なんでも作るんですよ。自分、あいつの作るおもちゃとか結構好きだったんですよ……。いつか生まれる子どものために作るんだって言ってました」
ぼそぼそと独り言のようにノルヨカが続ける。
「あっ、そういえばあいつ結婚する人ができたって言ってたな。だからか……妙に子供っぽく作ってたのは。あの手じゃ、もう。自分は、ヴァミリアが憎いです。自分たちが何をしたっていうんですか。ただ、普通に生きていただけなのに。神様は……不平等ですよ」
何も言えなかった。今の彼に慰めの言葉など、傷口をえぐるようなものだ。
処置室からマスクに血がついたゴム手袋、手術着を着ているエルヤが出てくる。
「先生、あいつは……あいつはどうなったんですか! 助かるんですよね? ねぇ!?」
ノルヨカはエルヤの肩を強く掴み、彼を神を崇める信徒のような目で見つめる。
「まだ分からん。ここの処置室だけじゃ人が収まらない。別の部屋に行く。どいてくれ」
「分からないって。なんですかそれ。あなた医者でしょ! なら、あいつを助けてやってくださいよ! それがあなたの仕事でしょ!?」
診療所に怒号が飛ぶ。
あの温厚なノルヨカがここまで感情的になることなど、考えられなかった。
裏切られた瞳の色で、エルヤを睨みつける。このままだとどうなるか想像もつかない。クロネが二人の中に割って入ろうとした時、エルヤがマスクを下げ口を開く。
「勘違いしているようだから言っておくぞ。医者は神じゃない。助けられない人だっている。人が死んで泣いている人たちを見て、医者は全員思うんだよ。この涙は二度と見たくないってな。だからこそ今、全力で命と向き合っているんだ。もう一度だけ言う。どけ、邪魔だ」
エルヤの覚悟や気迫に押されたのか、挙動がおかしいノルヨカが大人しく道を開ける。
自分でも分からなくなっているのだ。何が正しい行動か、何が間違っている行動か。壁に寄りかかりすすり泣く。
緊張によってせき止められていた感情が、一気に洪水のように溢れ出たのだ。戸惑ってしまうのは当然だろう。
一時間後、ようやく慌ただしかった診療所が少しだけ落ち着きを取り戻す。
ノルヨカが、友人のところへ行くと女性が一人大きな声を出して泣いていた。すぐに察しがついた。彼女が彼の婚約者。
そして彼は、泣いている彼女を慰めることなくただただ静かに眠っていた。
「先輩、自分に何か仕事をください。なんでもします。ヴァミリア軍を殺せと命令してくれれば、自分は何人でも殺します」
彼の中で何かが壊れた。そう気がつくのに時間はさして必要なかった。
「分かった。仕事を与える。来てくれ」
月が天に昇り、太陽の代わりに輝きを放っている美しい月下も森で外套を纏ったノルヨカと、疲れ切った顔をしているクロネが話をしている。
「どうしてですか、どうして自分を戦場に出してくれなんですか?」
この村一早い馬の手綱を握りながら、ノルヨカは不満を隠しきれていなかったのか、狂気を孕んだ言葉をクロネにぶつける。
「今のお前は危険すぎる。このまま戦場に出すわけにはいかない。それに彼のような犠牲者を出さないためにもこの危険を知らせるんだ。分かったか?」
数秒の沈黙の後、ノルヨカは分かりましたと呟く。
「では、行って参ります。どうかご武運を」
互いに敬礼をして、ノルヨカは暗闇が支配する森に向かってランタンを持ちながら馬を走らせる。暗い森ですら怯えていた彼は、もういない。
闇はすぐさま彼を隠してしまった。
溜め息を吐き、踵を返し村に戻る。村には、銃を持った村人が大勢いた。男も歳も女も関係ない。
「どうして。銃を!?」
村人の一人がクロネの質問に答えた。
「俺たちも戦うぜ。自分の村は自分たちで守る。そういうことに決まったんだ」
違う。そうじゃない。彼は頭の中で強く否定した。
「人手が足りないんだろ? だったら俺たちも戦うぜ。力になりたいんだよ。頼むよクロネ」
本気の眼をしている。きっと何を言っても無駄だろう。
「分かり……ました」
この言葉だけは言いたくなかった。
「だけど、男だけで参加してください。女性や子どもが死ぬのは嫌ですから」
想いとは裏腹に言葉がすらすらと出てくる。ここまで饒舌になったつもりなどない。
「それを承諾していただけないと、戦闘には参加させません」
村人たちは驚くべき速さで承諾した。そこまでしてこの村を守ろうしている。理由は分かる。
ここには、彼らの生きた証すべてがある。
だからこそ、命を懸けてでも守りたいのだ。兵士も村人も戦う理由は変わらない。
「では、そういうことで。明日の朝に谷の入り口まで来てください。お願いします」
クロネは歩を宿舎でもなく、戦場でもない場所に進めた。よろよろとして少し押しただけで倒れてしまいようになっている。その後ろ姿を見て、あとを追いかけるリリィ。
二人が到着したのは、あの小岡だった。
血や焦げた硝煙の匂いが鼻孔にこべりついている。戦場の匂いだった。
「クロネ!」
名前を呼ばれ、振り向くとそこにはリリィが心配そうな目をしたまま立っていた。
「リリィ……」
彼は倒れ込むように彼女に抱きつく。まだ自分は握れている。彼女を。まだ守れている。彼女を。この事実だけで十分だった。何も必要なかった。
「僕は、何もできなかった。人を殺した。隊長に託されたのに。みんなを死なせてしまった。僕が、僕が」
地面に膝を着き、徐々に声が涙声に変わっていく。リリィは何も言わず感情を受け止めるように強くぎゅっと抱きしめていた。
「私も、戦うよ。クロネ、銃の撃ち方ぐらい知っているよ?」
「ダメだ。人を殺すってことは、その人の人生を奪うことなんだ。リリィにその業を背負ってほしくないんだ」
滞っていた感情が人を殺した後悔となって彼は数十年ぶりに大声を出して、泣いた。
そしてまた、絶望の朝が来た。