月の大華
美麗なものの中には、離れた場所から見ているからこそ美しいと感じるものがある。例えば富士山。遠目には蒼く映る滑らかな山肌を持ち、その頂には白粉を塗ったかのように真っ白な雪が降り積もっている。しかし、いざ登ろうとすると黒々とした玄武岩がごろごろと道を埋め尽くしていて、お世辞にも美麗とは程遠い。
杉村の目の前に広がる世界も似たり寄ったりだった。砂とたまにある岩、そして大小様々なクレーターが今、杉村の目の前にはあった。無論のこと、地球にこのような場所はない。杉村は月にいるのだ。地上から眺めた月は煌々と輝き、幻想的な雰囲気を醸し出しているが、過酷な訓練を乗り越え実際に来てみれば何てことはなかった。
大気も水も存在しないただ単に不便な場所。それだけだった。重力は地球の六分の一というが、それでこのクソ重い宇宙服の重量が消えるかと言えばそうでもない。ヘルメットのバイザーに少々の息苦しさを感じながら、杉村は脚に力を込めて地面を蹴ってみた。舞い上がるレゴリスが視界に入るより早く飛び上がると、思っていたよりも跳ねたことに興奮よりも先に恐怖を覚えた。
それはこうして至上最大の費用をかけて行なわれている、人類史上初の月面基地建設プロジェクトに参加している人間が思うべきことではないことは分かっている。が、自分の気持ちに嘘をつかないのが唯一のモットーである杉村は、喋れば無線に筒抜けでたることは分かりきっているため口には出さないものの、胸中に湧き出てきた恐怖はオブラートに包むことすらせずそのままさらけ出した。
当然のことながら、それの相手をするのは自分になってくるので自分が言った愚痴に自分で答える形になってしまう。まるで小さい子供の大体が持っている『見えないお友達』となんら変わらないような状態だが、黙々と作業を続けて発狂するようなことになるよりは幾分マシといったところだろう。
チカ、とバイザーの左端に設置されているライトが光る。ライトは飛行士同士で合図を取り合う時に使われるものだ。何だ? と思い、ライトが示した通り左を向くと同僚のサムが手を振っている。地面に着地してから、二度ほどジャンプする。十分に着くかと思ったが、同僚のいるところまではまだ少し距離があった。不審に思ったのも一瞬、そうか宇宙には大気がないから距離感が上手く掴めずにいるのだ、と納得する。今度はよく目を凝らしてサムの位置を確認してから飛び、無事サムの目の前に着地する。
「What's the matter? (どうした?)」
無線越しに呼び掛ける。
(An artifact was seen in the center of this crater.(このクレーターの中心部に人工物が見えたんだ))
「An artifact?(人工物?)」
そう返しつつ杉村はすぐ脇に穿かれているクレーターを覗き込んだが、暗くて良く見えない。無線のチャンネルを上陸部隊とは別に頭上に静止する宇宙船に切り替えた杉村は、無線に声を吹き込む。
「Hey,Bob! Light up this crater in a searchlight.(おい、ボブ! 探照灯でこのクレーターを照らしてくれ)」
「Roger.(了解)」
ノイズ混じりの声が聞こえてから待つこと数十秒。クレーターの底まで照らすべく、月の重力の影響を受けないギリギリの高度で止まった調査艇から眩い探照灯の光が二本の光軸となって振り下ろされる。専用のバッテリーを搭載した探照灯の光は直視すれば失明は免れないほど強力で、大気による屈折も拡散もなく当初の性能そのままで底を照らした。そこにはーー。
「何だ……ありゃあ」
思わず日本語を口にしてしまったが、サムやボブが何と言ったのかと追求することはなかった。彼らも杉村と同様、目の前にあるものに目を奪われていたのだ。
探照灯で照らされたのは人型の物体ーーロボットだった。ヘルメットのバイザー越しにも使用できる専用の双眼鏡を当て、物体を見ると砂塵に覆われてこそいるがそれが洗練されたフォルムであったり、ディティールに至るまで精巧に造られていることも確認できる。これが自然にできたものなどという冗談はない。何処かの観測用ロボットか? しかし、こんなものが打ち上げられたという話は聞いたことがないし、仮に打ち上げられたものだとしてなぜ打ち上げたことを公表しなかったのか。様々な自問自答が頭の中を目まぐるしく行き交う。
もっと見ていたいという感情をねじ伏せ、やっとの事で双眼鏡を外した杉村は「Houston, this is Sugimura.Houston,reply.(ヒューストン、こちら杉村。ヒューストン、応答せよ)」と、無線に呼び掛けたが無線に流れるのは耳障りなノイズのみ。故障か? そう思ったが、サムも使えないらしく無線機が内蔵されているヘルメットの側面を指差してから、両手を交差させバツ印をつくる。
一度に二人の無線機が使用不能になるなんてことが、何のきっかけもなしに起こるとは思えなかった。それに数分前までは使えたのだ。使えなくなったのはーーあいつを見つけてから。ゾクリと背中に悪寒が走る。心拍数が上がったことを検知したのか、ピーという電子音と共に大量の酸素がヘルメット内に追加される。通信機が使えないままで船外活動を続けるのは危険過ぎる。着陸艇に戻らなくては。酸素を貪り、心拍数も元に戻りつつあるのを宇宙服の腕に取り付けられたコンディション・モニターで確認しながら、杉村は思った。
着陸艇に戻れば備え付けの無線機がある。それならば頭上の調査艇に残っているボブやヒューストンとも通信ができるかもしれない、などと勝手な希望的観測をしながらその旨を伝えるべくサムの方へと身体を流そうとした。
刹那。クレーターから臙脂色の光線が伸びた。そのコンマ数秒後に、光線に貫かれた調査艇が爆散する。オレンジ色の火球を膨らませたのも一瞬、調査艇があった空間には調査艇の代わりにその破片と青白いガスが滞留している。目を刺すような爆光だったが、当然の如く音はなかった。砲弾? レーザー? 何によって調査艇が爆破されたのかさえも考える間もなく、クレーターから黒い影が飛び上がってくる。
地球を背に、浮遊するそれは先ほどまでクレーターの底にあったロボットだった。背から片方に三つずつ、計六つ翼のように生え淡いピンク色の光を放っている細い板状のものは放熱板か何かか。
そこまで咄嗟に考えたものの、あまりにも常識離れした光景にもしかしたら自分は夢を見ているのではないか、という思いが湧き上がってくる。が、水冷式の下着の不快さを感じながら新たに噴射される酸素を貪るこの感覚は明らかに現実のものだった。
ゆら、とロボットの腕が持ち上がる。その手に握られていた銃らしきものから調査艇を撃ち抜いたのと同じ臙脂色の光軸が迸り、数キロ離れた場所にあった着陸艇を火球に変える。
ロボットの頭部、人でいう目に相当する部分ーーカメラか? ーーに走査線らしき赤い線が走る。どうやらこちらを見つけたらしい。銃を向けるのかと思ったが、ロボットは今度は脚部からミサイルポッドと思しきものが展開される。まずいと思った時にはもう遅く、一発のミサイルが発射された。姿勢制御スラスターを側面で煌めかせながら、こちらへ向かってくるミサイルの動きは妙にゆっくりとして見えた。
ああ、俺は死ぬのか。その思考が結ばれたとき記憶の箍が弾け飛び、これまでの記憶が次々と溢れ出てくる。宇宙飛行士になるために続けた勉強や何度も根を上げたくなった厳しい訓練。忌々しいはずだった訓練期間の記憶がなぜかこの時はとても懐かしく、微笑ましかった。そして、今回の月のミッションに行く前に電話越しに聞いた、娘の「お父さん。月の石、持って来てね」という声が耳の奥で再生される。ごめんな。月の石、持って帰れそうにないよ。目元から溢れてきた水滴で視界が歪む中、杉村は胸中にそう呟いた。地に触れたミサイルは禍々しい光で瞬時に杉村とサムを爪すら残さずに消し去ると同時に、月に史上初の人為的な破壊の爪痕を残した。