テュデナベールの魔女
長いので連載にしようか迷いましたが、作者的に一気に読んでほしい作品でしたので、あえて短編にさせて頂きました。
目が覚めると、見知らぬ街の真ん中にいた。
少し、頭がボゥっとしている。眉をしかめながら辺りを見回し、奇妙に統一感の無い風景に首を傾げる。
(えー……、と?)
頭を小突いて記憶を辿ろうとする。記憶の断片がふと過ぎった時、突然腕を引かれてハッとした。
「ちょっとお、何ボケてんのよう」
振り返った私の顔に、濃い紫煙が吹きかけられた。艶めいた黒髪をきっちりと結い上げ、けれど派手な着物をだらし無く着崩した女が、とろんとした目で私を見ている。
「もうゲームは始まってんのよう」
(ゲーム……)
再び思案の泥に沈もうとする私の意識を、別の声が制止する。
「ほらほら、しっかりしなって。敵はもうそこだよ」
言いながら私の手に石を握らせたのは、ピエロの格好をした小さな少年。
「……。敵……?」
小さなピエロがニッと笑い、勿体振った仕草で道の向こうを指し示す。
晴天の空に照らされた、奇妙に歪んだ広い道。その先に、長い薄茶色の髪を揺らしながら歩いて来る、色の白い女の姿が見えた。
切れ長の力強い目に、少しツンとした鼻。淡く色付いた唇をキュッと引き締めたそれは、紛れも無い、この私の顔ではないか。
「うふふふふぅぅう」
派手な着物の遊女が、楽しそうに首をのけ反らせる。
近付いて来る、自分と瓜二つな顔を持つ人物。
しかしこれは、怪異などではない。彼女は。
「……クレハ」
私、コノハの双子の妹。
生れつき心臓が弱くて、病院と自宅の往復ばかりだった可哀相な子。
全く同じ外見でありながら、光と影のように異なっていた、私の妹。
「……クレハ……、あんた」
唐突に、凄まじい勢いで黒い感情が噴き上がる。
(殺さねばならない)
歩いて来る自分そっくりな妹を見るうち、視覚からその激情は私を満たす。
(殺さなければ)
ピエロから渡された石をきつく握り、私は半ば反射的に走り出した。
「うぁああぁあああ!!」
妹が走り出したのも、ほぼ同時。
私達は思い切りぶつかり合い、アスファルトの上に倒れ込んだ。
お互いの体に爪を立てながらも、体制を立て直したのは、私が先。
「あははははは! いいよいいよ! 頑張んなあ!」
甲高い野次の声。いつの間にか、街のあちこちに奇妙な住民達が顔を覗かせている。
私はピエロに貰った石を振り上げ、迷うことなく妹の顔に振り下ろした。
避けようと身をよじったせいで、石は妹の喉を直撃する。妹の苦しげな呻き声が哀れだったが、私はそれを無視して、二度、三度と石を振るう。
「この、恩知らず!」
鼻を目を口を砕き、血に濡れていく石。無意識に出た言葉の後を、記憶のカケラが追ってくる。
「よくも、あんな、恩を仇で返すような真似!!」
私達は瓜二つの双子の姉妹。
私は心臓の悪い妹のことを、精一杯気遣って生活してきた。
外見が同じだからこそ、せめて姉との差を感じさせぬように。夏でも日焼けを避け、服やアクセサリーは必ず同じ物を二つ買い、入院中の妹に出来る限り付き添い、まるで自分も病に侵されているかのような、そんな日々。
全ては妹を労おうとする気持ちから。
結婚の決まった恋人との時間さえ、クレハの為に割いた。
二人きりの甘い時間を、クレハを含む三人の時間に変えた。クレハが楽しそうに笑うのが嬉しかった。彼を挟んで、三人で楽しい時間を共有出来ることに喜びを感じた……。
「なのに、なのにテメェ、その私の気持ちおおお!」
クレハの心臓移植の為に、家族で渡ったアメリカ。
どうしてもと着いて来た恋人を、最初は純粋な感謝の気持ちで見ていた。
気付きもしなかった。
もっと早く、気付くべきだった。
コノハ、申し訳ない。
深々と頭を下げる彼。
泣きそうな顔の妹。
《僕は君より、クレハを愛してしまった。二人で、一緒になると誓った》
「ふざけんなあぁ!!」
グシャリ。
渾身の一撃。嫌な音を立ててクレハの顔がひしゃげ、体から力が抜けてダラリと零れる。
「は……、はあ……」
ワッと、歓喜の声が弾け飛んだ。
殺シタ、ヤッタ、と、奇妙な形の住民達が騒いでいる。
「はぁ……あぁぁ……」
私は血塗れの石をゴトリと落とし、その場にへたり込んだ。
しかし。
「ちょっとお、休む間なんか無いわよぉ」
遊女の青白い手が、意外な強さで私の髪を掴む。
「まあぁぁあだ、五分の一でしょうがぁあ?」
何だっていうのよ……
言葉の意味が分からず呆然とする私に、ピエロがまた新しい武器を手渡してきた。
今度は、ナイフ。鋭い刃先が、陽の光にキラリと冷たい閃光を放つ。
「さあぁあぁぁあ、次だよぉ、次、次、次ぃいぃ!」
ゲラゲラと笑う遊女に、髪を掴まれたままぐいと引き上げられる。無理に立ち上がらせられ、私は痛みに悲鳴を上げる。
「何よもう、殺ったじゃん!! 次って何よお!」
叫んだ瞬間、道の向こうの人影に気付いた。
さっきと同じ。ゆっくりと歩いて来る、何よりも見慣れた姿形、知り尽くした相手の人影。
『何だ、この娘、なぜ魔女との契約を覚えていない?』
2メートルはあるかという巨大な蜂が、ワンワンと奇妙な音を響かせながら遊女に聞いた。
「んふぅう? 人間にはよくある事さねぇ。魔女の毒気に当たって、記憶の一部が欠けちまってんのさぁあ」
遊女がニタニタと答えると、巨大な蜂がけたたましく笑い出した。
『弱い弱い弱い、人間は何て弱い!!』
それが癇に触って、私は遊女に髪を掴まれたまま、蜂に思い切りナイフを奮った。腹を裂いたつもりのナイフは空を切り、巨大蜂は何億もの小さな蜂にバラけて宙に散る。
「さぁさあ、その調子で! 行きなよ殺しなあぁ!」
ドンと背中を押され、よろめいた先には、無表情に立ち尽くす妹。
「クレ……!?」
いきなり、首を掴まれた。すごい力だ。ヒュ、と喉が鳴り、一気に呼吸が遮断される。
「……っくぅ……」
私はナイフを振り上げた。首を締める青白い腕を、力一杯切り付ける。
血が迸しる。
妹の顔が歪み、一瞬怯んで離れた隙を見逃さない。
(殺さねばならない)
沸き上がる強い確信に押され、私は迷うことなくナイフを翳す。
(大切な者を失わない為に)
ザクリ、と、妹の胸に沈み込むナイフの刃。目を見開き絶叫する彼女を無視してナイフを抜くと、噴水のように血が飛び散った。
ゲラゲラと笑う声。
もっともっとと煽る、興奮した野次の声。
私は仰向けに倒れた妹にのしかかり、首にナイフの刃を当てると、体重をかけて押し込んだ。
くぐもった悲鳴。
硬い感触。
充血した目玉がグルンと裏返ったと同時に、妹の首は胴体から離れた。
「あ」
「…あは、あは、あぁぁあは、あ」
血。叫び。血!
私は自棄になって笑う。
そうなるしかない。
こんな残酷な、こんな生々しい……
「あぁあ、いいね、いいねえぇ! 魔女様もお喜びさねぇ!!」
(魔女……)
靄がかかったままの頭の中で、ゆるゆると記憶が震える。
妹が入院した、心臓移植専門の、特別な病院。
広い土地を利用する為、アメリカの片田舎にそれは建てられていた。
病院施設の範囲を越えれば、そこはもう、田舎特有の自然の領域。
夏でも妙にひんやりとした空気。誰にも荒らされることなく悠々と茂る木々、微かな葉擦れの音を響かせる鬱蒼とした森は、昼でも尚ほの暗くて不思議に私の興味を引いた。
その森の中で、私は見付けたのではなかったか。
ひどく蒼々と澄んで、ピンと張り詰めるような静寂に包まれた……
「テュデナベールの湖」
我知らずに、唇が囁いていた。
美しく妖しい雰囲気に魅入られ、その湖に近付こうとした時。
そのほとりにポツンと建っていたログハウスの扉が開き、ローブで顔を隠した小柄な女が、静かだが、強く厳しい口調で私を止めた。
《面白半分の興味なら、そこに行くのは止めなさい。そこはテュデナベールという名の異世界に繋がる場所。人間にとって毒にしかなり得ない所なのだから》
「異世界……」
ここが、そうなのだろうか?
私はあの湖に浸って、この不可思議な場所に辿り着いたのだろうか?
「……う…」
ズキリと頭が痛む。一瞬走った、紫色の羽の乱舞、その蠱惑的な映像。
そんな物は、すぐに右手に触れた感触によって弾かれる。
冷たい感触。これは……。
「ガラス瓶……?」
私はピエロに渡された瓶を掴み、左手でこめかみを押さえながら頭を上げた。 陽炎のように。
ゆらゆらと、こちらに向かって来る、人影。
私は瓶の蓋を乱暴に捩り取る。中身が何かは、大体予想がついている。
「しつこいんだよおぉぉお?!クレハああ!!」
バシャリと音を立てて飛び散る液体。
それを浴びた瞬間に上がる、獣のような絶叫。
硫酸が、妹の顔を喉を胸を焼く。嫌な臭いだ。もちろんそれくらいでは致命傷にはならず、妹は不様にのたうち回って絶叫し続ける。
「うるさいなぁああ」
私は道に転がる妹の傍らに立ち、力任せに顔を踏み付けた。二度、三度。絶叫は増すばかり。
(殺さねばならない。大切な未来を守る為に)
「早く死ねっつーんだよおおおおお!!」
細い踵のヒールで、何度も何度も何度も妹を踏み潰す。焼け爛れた皮膚が剥げ、悲鳴は醜い濁音に変わり、濁って軋む。
殺せころせころせ殺せコロせコロセ殺せ殺セ
野次の声がうるさい。血の臭いが鼻につく。息が苦しい。
「……っグぎっ……え」
生々しい断末魔にハッとして足を止めると、顔をズタズタに砕かれた妹が、今まさに絶命する瞬間だった。
「……は、はは……」
無理に笑おうとした私は胃を引き攣らせ、体を折って地面に嘔吐した。
もともと胃の中はほとんど空で、吐く物など何もないのに、嘔吐の発作はいつまでも続いた。
息を詰まらせて涙を流し、ようやく一心地ついた時。
「ダイジョウブ? コノハ」
ぎこちない動きで私の顔を覗き込んだのは、綺麗な銀色の髪をなびかせたビスクドール。
「……?」
その人形には見覚えがあった。
幼い頃、両親が娘達の卒園祝いに与えてくれた、高価で美しいフランス人形。名前は、そう、フランチェスカだ。
キラキラと輝く人形は、まるで幸福だった頃の家族の象徴。全てが壊れる前の美しく愛おしい、儚く脆い夢のカケラ。
「フラン……」
私はすがるように人形に手を伸ばした。
伸ばした瞬間、バン、と破裂するような音が耳を弾いた。
思わず身を引いた直後、目の前に転がるのは、無惨に砕かれ散らされた、フランチェスカの哀れな残骸。
目を見開く私の前に、わざとらしい仕草でピエロがピストルを差し出してくる。
「……っ!」
たった今人形を粉砕した銃身は、まだ熱を失っていなくて、温かい。
「う……ぅ」
ギリッと歯を噛み締めて、私は真っ直ぐに前を見据える。
当然のように、しっかりとした足取りで歩いて来る人影。
見慣れた姿。妹の、私と全く同じ姿。
「クレハぁあ……」
私は妹に向けて真っ直ぐにピストルを構え、グッと引き金を引いた。想像以上の音と衝撃に打たれ、狙った先が大きくズレる。
私はキインと響き続ける耳鳴りに目を細め、その場で体制を整えると、無傷でこちらに向かってくる妹に銃口を向け直した。
足を突っ張り、引き金を絞る。
二発目を放つ瞬間、頭の中に、消えていた記憶の一部が突然フラッシュバックした。
白い、病室。
頑なに窓の向こうを見つめ続ける、ベッドに横たわった妹。
冷たい視線で彼女を見下ろしている私が唇の端を歪ませ、低く、囁く。
“バチが当たったのよ”
そうだ。
妹の適合者として選ばれたドナーに問題が発生して、心臓移植は直前で中止となったのだった。
手の届く範囲にあった希望を突然取り上げられ、妹は気力を失っていた。
その妹に、私は怒りと侮蔑に満ちた薄ら笑いを浮かべて……。
妹は長い沈黙の後、ひどく怠そうに体を起こして、私を見詰めた。
『コノに、私がどれだけ悪いことしたか、分かってるよ。許してくれなんて口が裂けても言えない。……でもね』
目を潤ませて、直後、妹は決して言ってはいけない言葉を私に投げた。
『本当に彼が好きなの、初めての恋なの。元気になって、彼と結婚して、彼の子供を……』
彼の子供を。
言った妹も慌てて口を手で覆ったが、私の手が動く方が先だった。
バシンと、力一杯に頬を打つ音。
“あんた、私が子供も産めない役立たずだって言いたいわけ!!”
私は二十歳の時、病気で子宮を摘出されている。
子供を産めない体。彼から結婚を仄めかされた時、どれだけそのことで悩んだことか。それを知った上で家庭を築くことを望んでくれた彼を、どれだけ大切に思っていたことか!
ベッドに倒れ込み、弱々しくすすり泣く妹を置いて、私は病院を飛び出した。 泣きながら、怒りと絶望に震え、足をもつれさせながら向かった先こそが、テュデナベールの湖。
慣れないピストルを構えながら、私は記憶の再生に朦朧としながらも、何とか引き金を引くことに成功した。
衝撃。火薬の臭い。熱。
弾は妹の左肩を擦り、パッと鮮やかな血飛沫を上げさせた。
その様子が、また私の記憶を刺激して煽る。
まだ夕方だというのに、木々に光を遮断されて闇に沈んだ、冷たい湖。
その渕で膝を折って座る、私の姿。
水の上に立って私を見下ろす、奇妙な格好のあの女……。透けた衣装を纏い、残忍な笑みを浮かべた、紫色の羽を右肩だけに生やした、あの……
「魔女……」
異世界、テュデナベールに巣くう魔女。
ああ。
そうだ。
私は魔女と契約したのではなかったか。
愛する者を、その者と続く未来を守る為に。
魔女は、殺せ、と笑った。
《殺せ》
《残忍な殺戮ショーを、ここの住民達の前で演じてみせよ》
《四回、いや、五回》
《五回殺せ。五人見事に嬲り殺せたら、お前の願いは現実のもの》
五回。
五回殺せば、願いは叶う。
それが魔女との契約。だから向かって来る妹は、常に丸腰なのだ。裏切り者のクレハは、私に殺され、テュデナベールの住民達を楽しませる為だけに、何度も甦りを繰り返す。
「ひ……ぃいははははは!!」
私は狂い切った笑い声を上げ、一気に走って妹との間合いを詰めた。怯んだ妹に投げた冷たい一瞥、至近距離から迷うことなくピストルを弾く。
銃声に掻き消される、か細い悲鳴。
飛び散る血、血に塗れた細かな肉片。
「あはははははは!」
ただの肉の塊になり果てた妹を笑い、その死体を踏み付けて進む。
あと一人!
(殺す。殺さねばならない)
ゆっくりと前方に現れる、妹の影。
意気込んで走り寄った私は、けれどその姿を見て拍子抜けしてしまった。
「さあぁ、これで最後だよぉお」
遊女が半分はだけたままキセルを吹かし、ケラケラと笑い声を上げた。
「……は、こんなお膳立て、いらないっつーの」
異形の住民達が遠巻きに見守る中、私は冷たく微笑みながら妹に近付いた。
妹、クレハは鉄の十字架に戒められていた。
両手を大きく左右に広げ、両足を一くくりにした形で、無防備に私の前に晒されたその顔に、血の気は無い。
「怖いの?」
ピエロに“道具”を受け取りながら、私は妹の耳元に囁く。
「……でもね、駄目よ。あんたは死ぬの」
ピエロから受けた最後の道具は、なぜか医療用メスだった。
「これで、最後ね?」
サクリと。
あまりにも簡単に肉に沈む、メスの鋭い先端。
恐怖に硬直していた妹の顔が一気に歪み、絶叫が辺り一面に響き渡る。
私は目を見開いてメスを動かし、熱い鮮血を顔に浴びた。 けれどもはや、それすらも気にならない。
「けは、あ、あ」
口をパクつかせ、確実に弱まっていく妹の声。強くなっていく全身の痙攣。生々しい死の現実。
「い、あぁああ、ああ」
涙を流し、ガクガクと震えながら、妹は私を凝視した。
「あ、ああぁ……」
顔を血に染めた私と、ふいに目が合う。
「わた、私、は……」
真っ直ぐに見詰めてくる充血した目を凝視したまま、私の手は目当ての物に辿り着く。ドクドクと動いている熱い感触、今なお弾けそうな力強さ。
「私は」
(……?)
ふいに、違和感を感じた。
違和感の理由はすぐに分かった。クレハはいつも自分のことを、クレ、と略した名前で呼んでいたからだ。
私、などではなく。
その意味を理解しきる前に、私は目当ての物を思い切り、生きた肉体から引きずり出した。
耳を覆いたくなるような、断末魔の悲鳴。
その声が消え行く刹那、私は聞いた。
片手に生きた心臓を掴んだまま、確かにそれを聞いた。
『私、は、コノハよ!!』
パキンと。
それはまるで、薄い氷が一瞬で砕け散るが如く。
私の中の、霞みが散った。
ハッと見開いた私の目の奥にあった、明快に晴れた記憶。
魔女と交わした、契約の中身。
あの森の中で私は、千々に乱れた心で片羽の魔女に出会った。
魔女は私の顔を見て、可哀相に、と囁いた唇を残忍な笑みの形に歪めた。 凍り付くような瞳で笑う魔女に平伏し、私は絶望するままに妹の死を口走った。
それはもはや、願いとも呼べない、醜い慟哭でしかなく。
とても愉快そうにそれを眺めていた魔女は、唐突に青白く長い指を私の額に突き刺した。
『そこまで憎む相手とはいかなる者か』
問いながら、私の頭の中身をグチャグチャと掻き回す。
痛みは無い。血が流れたわけでもない。ただ記憶が迸しった。妹と過ごした過去の記憶が、鮮明に、恐ろしいほど鮮やかに、魔女の指先に絡んで弾けた。
その感触のおぞましさが逆に私を冷静にさせたのは、果たして魔女の思惑だったのかどうか?
全身を嫌悪と拒絶に震わせながらも、私は燃え盛っていた怒りの炎が、急速に萎むのを感じていた。
炎の向こうに燻っていたものを見たくなくて、私は哀願するように魔女を見上げる。
『どうしたね?』
ねっとりと問い掛けながらも、魔女の指は私の深い部分をなぞるのを止めない。
私は嫌々をする子供のように身を震わせた。
怒りの重みで押し隠していた底の底の本音。
そんなものは見たくなかった。
私は必死で振り払おうと抗いたが、一度浮かび上がった感情を留めることは出来なくて。
認めざるを得なかった。
裏切られて尚も、何ら変わらず彼らを愛しているということを。
妹を。
彼を。
そう、自分自身のことよりもずっと強く、あの二人を深く深く愛しているのだ。
けれどそれをそれを認めろというのは、あまりに残酷な仕打ちではないか。
愛しい者達は共に求め合い、その中に私の存在は無いと言うのに。
『どうしたと聞いたのだが』
歯を剥き出して笑い、魔女は私の脳に爪を立てる。
ガリュ、と鳥肌が立つような音に震えたものの、やはり弾けたのは痛みではなかった。
「嫌だ」
私は痛みの代わりに現れたそれに怯え、幼い子供のように必死で首を振った。
「嫌だあ!!」
叫んで耳を覆っても無駄。
魔女が気の毒そうに笑う。
『自らの内なる声は、そんなにも痛いか』
そう、私を内側から突き刺しているのは、私自身の内なる声。
本当の気持ち。本当は分かっている、見たくなかった現実!
彼の愛を失い、子を作る能力の無い私と。
彼の愛を受け、子を作る能力を持っている妹。
そう。
生き残るべくは?
これが片羽の奇異な女のやり口だというなら、本当にさすがとしか言いようがない。
さすがは魔女と呼ばれ、恐れられる存在。本当の残酷がどういう物なのか、髄まで知り尽くした者の容赦無い仕打ち。
全くもって、恐れ入る。
「……お願い……」
魔女の膝元にガックリと頭を垂れ。
私は消え入るような泣き声で、その願いを口にする。
「クレハを、助けて」
その言葉に無表情に応じた魔女の、奥底から滲んで見えた含み笑い。
『いいだろう、娘よ』
ツイと私の胸元を指差し。
『お前のその心臓を、妹に差し出してみせると言うのなら』
一つの命を守る為に、別の命を。
それはごく当然な、等価交換。
死を覚悟して頷いた私に、魔女は冷酷そのものの高笑いを浴びせ掛けた。
『けれども心臓を移し替えるだけでは、我々には何の楽しみも無いねぇ?』
魔女の目の奥に見た、ギラギラと生々しい興奮。
『望み叶えたくば、自身の手で、その命を散らしてみせよ』
『ただ楽に死の時を受け入れるなんて、あんまりに楽すぎるだろうよ?』
だから。
『自らを五回殺せ』
手に掴んだ心臓が、ドクンと跳ねる。
「……あ」
理解が頭に浸透したと同時に、私はビクンと体を硬くした。
全て、私だ。
惨殺されたのは、全て、私だ。
私がボロボロにして絶命させた相手は、全て、この。
私、自身なのだ。
「ヒッ……!」
理解した瞬間、殺された分身が受けた苦痛が、一気に自分自身に跳ね返ってなだれ込んだ。
「ひぃっ……ギ!」
砕かれ、溶かされ、切られ、えぐられ。
想像を遥かに超えた苦痛の波が、私の絶叫さえもを覆い隠した。
!!!!!
醜い苦痛に痙攣しながら、私は濃密な悪意の触手に成す術もなく絡め取られて行くのを、辛うじて感じていた。
後には、ただ。
暗転した現実が広がるのみ。
七月二十一日、午前九時五分。
「……脳死を、確認しました」
医師が困惑気味に呟いた瞬間、近くに控えていた中年女性が、弾かれたように椅子を倒した。
「コノハ! コノハぁあ!」
ベッドに横たえられた娘の体に縋り付き、中年女性は脇目も振らずに号泣する。
「どうして……何でなの!? 何でなのよ、コノハぁあ!」
取り乱す婦人の傍らで、ベテラン揃いの医師や看護婦達も皆、ただ黙って困り果てるしかない。
急死した青木コノハの死因について、納得のいく説明が出来る者は誰一人いなかった。
「……と、とにかく」
沈黙を破ったのは、初老の病院長。
「すぐに移植手術を開始します。皆、予定通りに」
一斉にざわめく病室。バタバタと、弾かれたように医師や看護婦達が散っていく。
病室には、ベッドに横たわる動かぬ女性と、彼女の母親、その主治医だけが残された。
「コノハ……コノハ……」 ボロボロと涙を流し続ける中年女性を気遣い、主治医の青年が遠慮がちに声をかける。
「……あの、コノハさんはきっと、命をかけて妹さんを守ったのだと思います」 主治医にとって、それは半分本音でもあった。
一週間前の、穏やかなよく晴れた真昼の午後。
青木コノハは、病院の中庭にあるベンチで、ぐったりと意識の無い状態で発見された。
外傷は無く、何らかの毒物を服用した形跡も無かった。
なのに、閉じた彼女の瞳が再び開くことはなく、その肉体はゆっくりと死の道を辿って行った。
四肢が強張り、内臓が死に行き、生きる為に必須な肉体機能が次々と停止し。
最後に、心臓だけを残す形で……
“心臓を妹に”
間違いなく青木コノハ自身の筆跡で書かれた、短いたった一言のメモ。
いくら一卵性の双子とは言っても、コノハの心臓がクレハにピタリと――それこそ、もともとクレハ自身の物であったかのように――適合したのも、医師達を驚かせた。
全てが、不可思議な闇の中で起こった夢のようだ。
ガラガラとストレッチャーが運ばれてくる音を遠く聞いて、医師は宥めながら母親を立ち上がらせた。
肩を支えてやりながら病室から出る刹那、医師は何の気無しにコノハの横たわるベッドを振り返った。
ふいに昔、祖母から語り聞かされたお伽話を思い出す。
不可思議で理不尽で、常に退屈している住民達が巣くう、狂った街の狂った逸話。暇を紛らす為にならば、喜んで生きた人間さえもを引きずり込む、恐ろしい異界への入口……
くすくすくす。
瞬間、何か得体の知れない異質な笑いを聞いたような気がして、医師は全身を総毛立たせた。
慌てて廊下に視線を移し、バタンと音を立てて病室の扉を閉じる。
二人の去った病室には、物言わぬコノハの亡き殻だけが残された。
くすくすくす。
風に溶け大気に混じり、異質な存在達が含み笑い。
くすくす……
それはやがて、コノハの遺体を運びに来た病院スタッフ達の喧騒に飲まれ。
気配すらも残さずに。
ひっそりと、消えた。