転校生
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毎朝八時になるとお兄ちゃんが部屋の明かりを点けてくれます。わたしはねぼすけなので、そうしてもらわないと朝起きることができないのでした。
緩慢に一度起きだすとその後の覚醒は速いもので、現金にもお腹が空いてきちゃいます。食卓ではお兄ちゃんがおいしいご飯を作って待っていてくれるので、わたしは笑顔で席に着きます。お兄ちゃんは優しい顔をしてわたしの方を見詰めます。
「あの糞尿野郎が家の前で待っているよ」
お兄ちゃんは笑顔でそう言いました。
「だからゆっくり食べると良い。まだまだ時間はいっぱいあるのだからね」
こんな風にはしたない言葉を使うことは滅多にないお兄ちゃんなのですが、どうもその呼び方にはこだわりがあるようなのでした。
「その糞尿野郎って、豊彦くんのことですね?」
「そうだよ。君の幼馴染の、あの糞尿野郎のことさ」
「もう、家の前で待っているの?」
「ああ。彼は少しせっかちなところがあるようで、朝目を覚まして支度を済ませたら、すぐに出掛けてしまうらしい。そして時間を潰すのも面倒なので、いつもの習慣で家の前まで来てしまったのだろう。ぼくが朝刊を取りに行く時に、出くわしたんだ」
ゆっくりと、わたしに分からせようとお兄ちゃんは丁寧に説明します。わたしはスコッチエッグをどう食べようか考えながら、尋ねました。
「だけど、わたしは朝ごはんをゆっくり食べた方が良いんですよね?」
「うんそうさ。ぼくはそっちの方が愉快だなぁ」
にこにことしてお兄ちゃんは言いました。
わたしはゆっくり朝食を済ませて、身支度を済ませて家を出ます。お兄ちゃんが言ったように、豊彦くんがふてくされたように待っているが見えました。
「随分と遅かったな」
豊彦くんが何のことでもなさそうに言いました。
「寝坊でもしているのかと思ったよ。もっとも、そんなことがないように、毎朝おれはこうしている訳だ」
「そんなことはしないよ」
わたしは抗議を申し立てました。
「わたしは寝坊なんてしないよ。しっかりものだもの」
「どうだか」
豊彦くんは皮肉っぽい目をして
「靴紐、ほどけてるぞ」
そう言って屈みこんで、わたしの靴紐を括りにかかりました。
「ありがとう」
「どうして気付かないんだ? というか、家の前まで来るのに、どうしてここまでほどけさせることができるんだよ」
「靴のサイズが合ってないのかも」
「おまえんちの兄貴がそんな失敗をやらかすとは思えんが」
豊彦くんは立ち上がると、確信に満ちた声でそう言いました。彼はお兄ちゃんのことを信頼しているようなのです。
「まあ良い。行こうか」
そう言って、姿勢良く学校に向かい始めました。しゃきしゃきと歩くその姿は、せっかちとお兄ちゃんに言われたままです。わたしはあわててそれに追い付きました。
「明後日に小テストがあったよな」
学校について、廊下を進みながら豊彦くんはそう言いました。
「そうだったかな?」
わたしは記憶を手繰り寄せます。そのような話を何方かがしていたような気がするのですが、どの科目の先生だったか、あまり思い出せません。
「数学だよ。随分とのんびりしているよな。大丈夫かよ」
「うん。わたし得意だし」
胸を張ります。
「そうか。九九の七の段は言えるようになったか?」
「それ、小学生の頃の話じゃない?」
そんな言い方は酷いです。意地悪です。
「じゃあ言ってみろよ」
「しちいちがしち。しちにじゅうし。しちさん……?」
「ほれみたことか」
豊彦くんは愉快そうに笑います。
「にじゅういち!」
遅れてそう言いました。ずっと前のことですから、詰まってしまうことくらいあるじゃないですか。それに九九が上手に言えなくたって、数学のテストの点数には関係のないことなのでした。
「豊彦くんは良いよね。頭良いし」
まんざらでもなさそうに豊彦くんは鼻を鳴らします。嬉しそう。彼は構内模試でも二番や三番の成績を何度も取っていますし、みんなからは優等生として認識されていました。羨ましいことです。
「おまえも兄貴に見てもらってるんだろ? 少しは良くならないか?」
「それについては、その。面目ないな」
「今度教えてやるよ。あの人はちょっと丁寧過ぎるというか」
そんな風に話している時でした。
向こうから大柄な人影がやって来ました。豊彦くんがちょっと嫌そうな顔をします。その人はわたしの方をまず一瞥して、それから豊彦くんの方をしげしげと見詰めました。睨むような気配が備わったその視線に、豊彦くんはあからさまな嫌悪を発しながら正面から向かっていきます。険悪です。わたしはおろおろとしてしまいました。
その人は豊彦くんの行く手を阻むように歩いています。あえてそうするように、進行方向を邪魔しているのです。豊彦くんがそこを逸れると、その人は合わせるように調整して動くのです。二人がぶつかった時、その人は睨むような目で豊彦くんを見詰めて
「そこをどけ」
と一言、口にしました。
「何がしたいのか、良く分からないな」
豊彦くんはそう言います。彼も結構、意地っ張りな性格をしていました。しばらくじっと睨み合いが続きますが、豊彦くんはわたしの方をちらりと確認すると、肩を竦めてその人に道を譲ってあげます。その人はわざと肩をぶつけるように豊彦くんの脇を通り過ぎると、「うるせぇんだよ」と脅すような声で言いました。
なんだか怖かったです。
「変な奴だ。まったく持って変な奴だ」
豊彦くんは言いました。
「何では飯田はおれに突っかかって来るのだろう。皆目と検討がつかない」
飯田というのが、今の大柄な人の苗字でした。下の名前はヨシヒトだったと思います。体が大きくていつも誰かに威張っているので、ドラえもんに出てくるジャイアンに良く似ていました。
そのジャイアンさんが、最近良く豊彦くんに突っかかってくるのです。理由は分かりません。豊彦くんは『皆目と検討がつかない』なんて言い回しをしていますが、それでも分かっているんじゃないかとも、わたしは思うのでした。
「仲良くしないといけないよ。でもどうしてなんだろうね?」
「どうだかな」
豊彦くんは頭をかきました。そうして少しぶつぶつ言いますが、結局うんざりしたように肩を落とします。もともと気は小さい性質なのです。ジャイアンさんみたいな人に迫られると、やっぱり嫌なのかもしれませんでした。
なんとかしなくちゃな、と思うのですが、これと言って思いつきません。後でお兄ちゃんに相談してみることを決めました。
「ところで。豊彦くん。少し話したいことがあるんだけど」
教室についてから、唐突にわたしがそう切り出すと、豊彦くんは少しだけ真剣な顔をこちらに向けました。そして少しだけ強くした声でこう言います。
「なんだよ」
促されて、わたしは昨日起こった不思議な出来事を話しました。ウサギの外見のことを説明するのはちょっと難しかったのですが、豊彦くんは「キマイラみたいだな」とそんな風に相槌を打ってくれました。きまいら? それはいったいなんなのですか?
最後まで聞き終えるまで、豊彦くんは一度も疑問符を浮かべることをしませんでした。わたしが変な話をする時、豊彦くんはいつもこんな風に真剣な顔をしてくれます。ですが、最後の最後にはこう確認を取るのです
「それはすごいな。だけどそりゃぁ、夢か何かがごっちゃになったんじゃなかろうな」
この言い回しは何度も訊きました。わたしはむっすりとします。
「そんなことはないよ。だってきちんと、あるちめっとせいばーも持って帰ったもの」
「それは証拠にならない。おまえは嘘はつかないし、隠し事も誇張した表現もしない。だがしかし現実に起こったことだけを認識し続ける能力に欠けている。ようするに騙されやすいんだ。他人にはともかく、自分の夢や妄想、勘違いって言う奴にな」
「そんなことは……」
ないと思います。きっと、そんなことはありません。
「とは言え、そこまで具体的に覚えているのなら、不思議な話だとしか言いようがない」
豊彦くんは妙にかしこまった顔をしました。
「おれも招待されてみたいもんだよ。その変な地下洞窟にさ」
「やめといた方が良いと思うよ。わたし何度も死に掛けたもん。豊彦くんなら絶対生き残らなかったって」
「……そんなことは断じてない。むしろおまえが生き残ったことが不思議だよ。スライムに手を突っ込むくだりなんて、間抜けそのものだ」
「それはその、反省してるけど……」
「まあおまえらしいとも言える。ところでおれが疑問に思うのは、消えた扉よりも妙なキマイラよりも、灯の一つも取り付けられていないにもかかわらず、薄明るかった洞窟の方だ。他のことはいくらでも屁理屈が言えるんだろうが、その点についてだけは単純に疑問だよ。魔法でもかかっていたのかもしれん」
「きっとそうだよ」
わたしは自分の考えを言いました。思い出すのは、どんな絵画よりも彫刻よりも、わたしが今までで見てきた中で一番美しかった、あの女の人のことです。
「あの女の人が魔法使いだったんだと思う。それであんな世界を作って、わたしはそこを冒険したんだね」
「かもしれないな。だとしたら、その絶世の美女とやらに会ってみたいものだ。おまえの言うとおりなら、その人は随分と大人びていたようだが……」
と、その時に教室の前の扉ががらがらと開きました。教室の隅にいたわたしが名残惜しく自分の席に戻りますと、現れた担任の先生は挨拶も禄にしないで、机に手をついてはきはきとこう切り出しました。
「今日は転校生が来ています」
教室中が途端に騒がしくなりました。その転校生のためにも、祝福して喜ぶべきことでしょう。騒ぎの中に混じることに決めました。
「それじゃ。入って来て」
教室が適度に沸いたのを確認してから、先生は廊下に向かって手招きします。前の扉が再び開いて、太陽を溶かしたような髪の毛が見えた時には、教室中が固唾を呑みました。
一番驚いたのはわたしです。
「藤堂ありす、です」
黒板にそう書いて柔和に微笑んだ彼女は、わたしの方に目もくれずにそう言いました。
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