夏の大三角形
夏の大三角
三年の夏、俺たちは民宿にいた。
部活の合宿ということになっていたが、実質はただの旅行だった。三年は引退していて、後輩の面倒を見るという名目で呼ばれただけだ。
俺は行くかどうか三日迷って、西野が行くと聞いてから、行くことにした。
西野とは、二年のときからよく喋った。よく喋ったが、それだけだった。休み時間に喋って、たまに一緒に帰って、それでおしまいだった。
俺は西野のことを「西野」と呼んでいて、下の名前で呼んだことは一度もない。西野は俺のことを苗字で呼び捨てにした。
民宿には自販機があって、なぜかオレンジジュースだけ売り切れていた。西野は毎回そこの前で立ち止まって、「まだ入ってない」と言った。三日間、毎回言った。四日目に補充されて、西野は「入ってる」と言って、買って、半分俺にくれた。
西野は貝に詳しかった。
浜を歩いていると急にしゃがみこんで、貝殻を拾って、名前を言う。ツメタガイ、とか、サクラガイ、とか。なんで知ってんの、と聞いたら、「小四のとき集めてた」と言われた。俺が「ふうん」と言うと、西野はもう次の貝を見ていた。
二日目の夜、後輩たちと花火をやった。線香花火が全部湿気っていて、誰も文句を言わずに湿気ったやつをやった。火をつけていたのは西野で、ライターを持っていた。中学のとき兄貴からもらったやつだ、と言っていた。安い、青いライターだった。
そういう夏だった。
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ボートは、民宿の借り物だった。
赤いゴムボートで、物置の奥から出してきたやつだ。おじさんが「使っていいけど、ちゃんと戻しといてな」と言った。ちゃんと、のところに力が入っていた。
俺は昼のあいだ、それで散々遊んだ。夕方、砂浜に引き上げて、シャワーを浴びて、Tシャツと短パンに着替えた。携帯は部屋の充電器に挿したままだった。夕飯まで時間があったので、なんとなく浜まで歩いた。西野がついてきた。それだけで、正直、けっこう嬉しかった。
ボートは、五十メートルくらい沖にいた。
引き上げたつもりでいたのだが、つもりでいただけだった。
俺の頭にまず浮かんだのは、弁償という言葉だった。次に浮かんだのは、おじさんの顔だった。三番目に浮かんだのは、西野が見ている、ということだった。三番目が、いちばん強かった。
俺は服のまま海に入った。
「え、ちょっと」
「取ってくる」
かっこよく言ったつもりだった。
あとで思い返すと、たぶんぜんぜんかっこよくなかった。
泳いでいる途中で振り返ったら、西野も泳いでいた。
「なんで来んの」
「一人だと危ないよ」
ボートには追いついた。
二人でよじ登って、オールを探して、オールがないことに気づいた。
「オール、あった?」
「ない」
「じゃあ何で進むの」
「手」
俺たちは手で漕いだ。まったく進まなかった。というより、進んではいるのだが、進みたい方向と逆に進んでいた。
潮というものが世の中にあることを、俺はそのとき初めて実感として理解した。
一時間ほどで、砂浜は線になった。
西野は思ったより落ち着いていた。というか、俺より落ち着いていた。俺が「やばい」と七回くらい言ったところで、「うるさい」と言われた。
「島、あるじゃん」
流されていく先に、こんもりした島があった。ずっと前からそこにあって、俺たちのほうが勝手に近づいていた。
俺たちはそっちに向かって漕いだ。
二時間漕いだ。
ボートは島の東側の岩に、引っかかっていた。
「漕いでも漕がなくても、たぶん同じところに着いてたんじゃない?」
西野は、海を見る。
潮がそういう向きだったというだけだった。
砂浜というほどのものはなくて、石だらけの浜だった。上陸したときにはもう暗くなりかけていて、俺たちはずぶ濡れで、八月なのに普通に寒かった。
西野が短パンのポケットから、あの青いライターを出した。濡れていた。三十回くらいやって、ついた。
俺は流木を集めた。集めるのは得意だった。
火がついたとき、俺は少し泣きそうになったが、泣かなかった。
西野が「おー」と言った。
「服、乾かさないと」
西野はTシャツを脱いで、そのへんの枝に引っかけた。俺も脱いだ。
俺は見た。すぐに海のほうを向いた。海は真っ暗で、何も見えなかった。
「見た?」
「見てない」
「ふうん」
それきり、その話は出なかった。
俺は火に枝を足した。足しすぎて、少し煙たくなった。
星が輝いていた。
西野が空を見上げた。
「あれ、なんだっけ。三角のやつ」
「夏の大三角」
「そうそう。織姫と彦星でしょ、二つは」
「ベガとアルタイル」
「よく知ってんね」
「授業でやった」
「あたしは寝てた」
西野は膝を抱えて、しばらく黙っていた。火が、ぱち、と鳴った。
「でもさ、三個あるじゃん。もう一個、なんなの」
「デネブ」
「デネブ」西野は繰り返した。「デネブはさ、何してんの」
「べつに、何も」
「何もしてないわけないでしょ。あんな近くにいて。がんばってるんだよ」
そう言って、西野は少し笑った。
「がんばってる」
「そう、デネブはさ」
西野はそこで、あくびをした。
「……眠い」
「え、デネブは?」
「よし、もう寝よう」
そして西野は、火のそばで丸くなって、寝た。
自由だった。
俺はしばらく起きていた。空を見ていた。三つの星は、たしかに三角形をしていた。
定規で引いたみたいに、はっきりと。
その夜、いろんなことを考えた。さっき見えたもののこととか、三つの点があると三角形に見えるのはなぜだろう、とか、さっき見えたもののことについてだった。
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翌朝、漁船に見つかった。
親父さんくらいの歳の人が、船の上から俺たちを見て、「なにしてんの」と言った。俺は「すいません」と言った。ほかに言うことがなかった。
港に着いたら、警察と、母親と、西野の母親と、民宿のおじさんがいた。俺は怒られた。西野も怒られた。ボートは無事に戻ってきたのに、そこは誰も褒めてくれなかった。全国ニュースにはならなかった。地方紙のいちばん下に、二行だけ載った。
帰りのバスで、西野は寝ていた。
翌日から、俺と西野は普通にしていた。普通にしすぎていた。
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卒業式は、三月にあった。
俺は西野に何も言わなかった。言おうと思って、二回、近くまで行った。二回とも、途中で別の方向に曲がった。
体育館を出たら、晴れていた。
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いま、俺は東京にいて、普通に暮らしている。
会社まで自転車で十二分。妻がいて、子どもが一人いる。金曜の夜にコンビニで缶ビールを買って帰るのが好きだ。ビールは第三のやつでいい。味の違いが、正直そんなにわからない。
先週、上の子の自由研究が星の観察になった。
ベランダから見える星を三日ぶん書け、というやつで、当然のように俺が手伝わされた。
ベガとアルタイルとデネブは、うちのマンションからでもなんとか見えた。
書きながら、なんとなく調べた。
そこで初めて知ったのだが、あの三つの星は、全然近くない。ベガは二十五光年。アルタイルは十七光年。デネブは、千四百光年だという。
とんでもなくバラバラの場所にいるものが、たまたま地球からはそう見えているだけだ。線で結んだのは、人間だ。
俺は「デネブ 何してる」で検索した。特に、何も見つけられなかった。
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きのう、駐車場でビールの袋を提げたまま、空を見上げた。
東京の空でも、あの三つは見える。ちゃんと三角形に見える。距離のことを知ってしまったあとでも、目には、三角形にしか見えない。
ふと、西野のパンツのことを思い出した。
白い三角形だった。
「夏の大三角形」
声に出してみた。
ポケットで、スマホが鳴った。妻からで、「牛乳」と書いてあった。
俺は自転車を停め直して、コンビニのほうに戻った。




