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婚約破棄されましたが、私の織った月光の絹がなければ王国は終わりですので、どうぞご自由に

作者: uta
掲載日:2026/06/23

「今宵この場をもって、リディアーナ・フォン・クレセンティアとの婚約を破棄する」


第二王子カイルの声が、春の舞踏会で賑わう大広間に響き渡った。


シャンデリアの光が揺れる。音楽が止まる。数百の視線が私に突き刺さる。


(あら、ついに来たのね)


私は内心でため息をつきながら、表面上は驚愕に目を見開いてみせた。令嬢らしく、ね。


「カイル殿下、一体何をおっしゃって……」


「とぼけるな!」


カイル殿下の碧眼が怒りに燃えている。金髪が揺れ、その端正な顔が正義感に酔いしれた表情で歪んでいた。ああ、その顔。三年間の婚約期間で何度見たことか。


「お前は私の可愛いセレナに嫉妬し、彼女のドレスを切り裂いた。そのような悪女と婚姻など結べるはずがない!」


殿下の傍らで、義妹セレナが涙ぐんでいる。蜂蜜色の巻き毛を震わせ、大きな翠緑の瞳を潤ませて。小動物のような愛らしさで、周囲の保護欲を刺激する——いつもの演技。


「お姉様……私、お姉様に何か悪いことをしてしまいましたか……?」


震える声。潤んだ瞳。完璧な被害者の姿。


(四十九回目よ、この子の嘘に付き合わされるの)


私は心の中で正確にカウントした。三年間、小さな悪意と嘘を四十九回。全て記録済み。一回目は私のお気に入りの髪飾りを「落として壊してしまった」と泣いた時。十回目は私宛の招待状を「届いていなかった」と言った時。二十五回目は私の作った試作品を「自分のもの」として王妃様に献上した時。


全て、覚えている。全て、記録している。


「セレナ、もう泣かなくていい」


カイル殿下がセレナの肩を抱く。騎士のように、守護者のように。


「この悪女から、私が必ず守る」


会場のあちこちから嘲笑が漏れた。


「侯爵令嬢ともあろう方が、義妹に嫉妬とは」

「所詮は先妻の娘、継母様とは気が合わなかったのでしょう」

「王子殿下がお気の毒」

「あの地味な令嬢より、セレナ嬢の方がお似合いですわ」


貴族たちの囁きが耳に届く。三年間、何度も聞いた声。何度も浴びた視線。


私は俯いた。——彼らにはそう見えたはず。


実際は、ドレスの裏地に縫い込んだ手紙の位置を確認していたのだけれど。


継母マリエッタが、会場の隅で満足げに微笑んでいるのが視界の端に映る。かつては美しかったであろう面影を残す四十代の女性。セレナと同じ蜂蜜色の髪。そして、目元に滲む計算高さ。


計画通りとでも思っているのでしょうね、継母様。


「リディアーナ、何か申し開きはあるか」


カイル殿下が高圧的に問う。裁判官のつもりなのだろう。正義を執行する王子様のつもり。


私は顔を上げた。


三年間、従順な婚約者を演じてきた。耐えてきた。証拠を集めてきた。


今日という日のために。


「婚約破棄——」


私の声は、自分でも驚くほど澄んでいた。凪いだ湖面のように、波一つない。


「謹んでお受けいたします、殿下」


深く、優雅に一礼する。侯爵令嬢として完璧な角度で。完璧な所作で。


会場がざわめいた。


「なっ……抵抗もしないのか?」


カイル殿下が面食らった顔をしている。想定外だったのでしょうね。泣いて縋りつくとでも思った? それとも、怒って反論するとでも?


残念。私はそこまで愚かではないの。


「ただ——」


私は微笑んだ。心からの、本当の笑みを。三年間、一度も見せたことのない笑み。


「一つだけ、真実をお伝えしてもよろしいでしょうか?」


その瞬間、私のドレスが淡い光を放ち始めた。


月光のような、銀色の輝き。


会場が息を呑む音が、波のように広がった。



        ◇ ◇ ◇



「な、何だこの光は……!」


カイル殿下が後ずさる。セレナの演技じみた涙が止まり、その翠緑の瞳に焦りが浮かんだ。


(あら、知らなかったの? これが本物の魔法織物よ)


「お騒がせして申し訳ございません」


私は穏やかに告げながら、ドレスの裏地に手を伸ばした。銀糸のように繊細な淡い金髪が、光を反射して輝く。


「この輝きは、魔力を織り込んだ布——『月光の絹』の特性でございます。感情の昂りに反応いたしますの」


会場がどよめく。


月光の絹。


王国の至宝。国宝級の魔法織物として、各国から羨望される逸品。身に着ける者を護り、魔力を増幅させる奇跡の布。


「まさか……あの月光の絹を、ドレスに?」

「一体誰が織ったのだ」

「あれほど希少な布を……」


貴族たちが色めき立つ中、私は一通の封書を取り出した。ドレスの裏地に丁寧に縫い込んでおいたもの。


「製作者は私でございます」


静寂。


完全な、静寂。


「は……?」


カイル殿下の間抜けな声が響いた。


「何を言っている。月光の絹の製作者はセレナだと——」


「いいえ」


私は義妹を見た。蜂蜜色の髪の下で、セレナの顔が蒼白になっていく。


「セレナが社交界に売り込んでいた織物は、全て私が密かに制作したものでございます」


言葉が、静かに広間に落ちる。


「継母様とセレナは、私の才能を——実母から受け継いだこの希少な力を、三年間搾取し続けてまいりました」


「嘘よ!」


セレナが叫んだ。被害者の仮面が剥がれ、素の表情が露わになる。歪んだ顔。醜い焦り。


「お姉様、なんてことを……! 私を陥れようとして……!」


「陥れる?」


私は小首を傾げた。令嬢らしく、優雅に。


「あら、セレナ。陥れられているのは、どちらかしら」


封書から取り出したのは、二通の書状。黄ばんだ羊皮紙と、真新しい証明書。


「一通目は、私の実母——先代クレセンティア侯爵夫人の遺言書。そしてもう一通は……」


王家の紋章が、燭台の光を受けて金色に輝いた。獅子と月桂樹。王国の威信を示す刻印。


「王家発行の血統証明書でございます。私の母は王家の遠縁であり、月光の絹の唯一の継承者として、王家から保護される権利を有しておりました」


会場がざわめく。


「王家の遠縁……?」

「先代侯爵夫人は確かに、王国随一の織姫と呼ばれていたが……」

「まさか、血統まで……」


会場の奥から、白髪交じりの初老の男性が進み出た。


宰相ギルバート・ヴォルフシュタイン卿。王家に長年仕える重鎮にして、法と真実を何より重んじる厳格な人物。


「拝見してもよろしいかな、令嬢」


鋭い灰色の瞳が、私を見据える。


「どうぞ、宰相閣下」


私は恭しく書状を手渡した。


宰相の厳格な眼差しが、書状を精査する。封蝋を確認し、紋章を確認し、筆跡を確認する。


やがて、その表情がわずかに和らいだ。


「……間違いない。王家の紋章、筆跡、封蝋……全て本物だ」


「そんな馬鹿な……!」


継母マリエッタが悲鳴のような声を上げた。


「あの遺言書は確かに……!」


言葉が途切れる。自分が何を口走ったか気づいた顔。


「確かに隠したと?」


私は微笑んだ。


「継母様、今のお言葉、皆様お聞きになりましたわね」


会場に、囁きが広がる。


「隠していた……?」

「遺言書を隠蔽していたのか」

「それは重罪だぞ」


継母の顔から血の気が引いていく。


「まだ終わりではございませんの」


私は優雅に一歩、前に出た。ドレスの月光が、私の歩みに合わせて揺れる。


「ドレスの裏地には、もう少し興味深いものを縫い込んでおりましたの」


取り出したのは、数枚の書状の写し。そして、一冊の小さな日記帳。


「継母様とセレナの悪行を記録した手紙の写し——そして、セレナ自身が書いた日記と照合可能な筆跡の証拠でございます」


「筆跡の……証拠?」


セレナの声が震えた。


「ええ」


私は淡々と続けた。日記の一節を読み上げる。


「『今日もお姉様の作品を私のものとして売り込んだ。馬鹿な貴族たちは誰も気づかない。お母様の言う通り、あの女から全てを奪い取ってやるわ』——セレナ、あなたの日記の一節ですわ」


「で、出鱈目よ!」


セレナが叫ぶ。だが、その声には既に余裕がない。


「筆跡鑑定をされますか? 宰相閣下、王宮の書記官を呼んでいただければ、照合は容易かと」


宰相が頷く。セレナの顔が歪んだ。


「そ、それより!」


最後の砦にしがみつくように、セレナが声を張り上げた。


「お姉様が私のドレスを切り裂いたのは事実でしょう!? それだけは言い逃れできないはずよ!」


私は肩をすくめた。


「あら、そのドレスを見せていただけます?」


「え……」


「私が作った織物でなければ、魔力は宿りません」


私は会場を見渡した。数百の視線が、私に注がれている。先ほどまでの嘲笑はない。代わりにあるのは、驚愕と、困惑と、そして——好奇心。


「つまり、本物の月光の絹であれば、このように——」


私のドレスが再び淡く輝く。月の光を織り込んだような、神秘的な光。


「光を放つはずですわ。セレナのドレスが私の作品なら、切り裂かれた今でも残留魔力で輝くはず。試してみましょうか?」


沈黙。


セレナが後ずさった。


「あ、あのドレスは……」


「私が確認しよう」


宰相が厳かに告げた。


「侍従、セレナ嬢の控室から件のドレスを持ってきなさい」


数分後。


侍従が運んできた「切り裂かれた」ドレスは——


月光どころか、どこにでもある安物の絹だった。魔力の欠片もない、ただの布。しかも、切り裂かれ方が明らかに不自然。まるで、自分で切ったかのような。


「——ご覧の通りでございます」


私は冷然と告げた。


「魔力の欠片もない、ただの安物の絹。私の作品ではございませんわ。そもそも、私が作った月光の絹は、簡単には切れません。魔力で強化されておりますから」


会場が騒然となった。


「セレナ嬢、これはどういうことだ」

「詐欺ではないか」

「王子殿下は騙されていたのか」

「自作自演か!」


貴族たちの視線が、同情から軽蔑へと変わっていく。さっきまでセレナを庇っていた者たちが、手のひらを返すように距離を取る。


「ま、待ってくれ!」


カイル殿下が声を上げた。その顔は蒼白を通り越して土気色だ。


「私は、セレナの言葉を信じて……」


「殿下」


私は静かに遮った。


「三年間、私は四十九回、セレナの嘘を許してまいりました。そのたびに殿下は、涙を流す女性の言葉を無条件に信じ、私を責められましたわね」


「それは……」


「一度でも、検証なさいましたか? 一度でも、私の弁明に耳を傾けられましたか? 一度でも、セレナの言葉を疑われましたか?」


沈黙が答えだった。


「殿下にとって私は、『正義を執行する』ための便利な悪役だったのでしょう」


冷静に、淡々と。感情を込めず、事実だけを述べる。


「私は……私は正しいと思って……」


「ええ。殿下はいつも『正しい』と思っておいででしたわね」


私は微笑んだ。


「——ご自分だけは」


言葉が刃となってカイル殿下を貫く。彼の碧眼が揺れる。正義感に酔いしれていた瞳が、今は動揺で満たされている。


背後で、継母マリエッタが崩れ落ちる音がした。


「あなた……あなたいつから……」


「最初からですわ、継母様」


私は振り向いた。床に膝をついた継母を、静かに見下ろす。


「実母の遺言書を隠したのも、遺産を横取りしたのも、全て存じておりました。証拠を集める時間が必要だっただけ」


「そんな……三年間も……」


「ええ、三年間」


私は頷いた。


「四十九回の嘘。四十九回の屈辱。全て記録し、全て証拠を残しました。——耐えられましたわ。この日のためなら」


継母の顔が、絶望に歪む。


(三年間の忍耐が、ようやく報われる)


会場の隅から、ゆっくりと拍手が響いた。



        ◇ ◇ ◇



拍手の主は、漆黒の髪と深い紫紺の瞳を持つ壮年の男性だった。


三十手前だろうか。彫りの深い端正な顔立ちに、知性と威厳が同居している。黒を基調とした礼服が、その佇まいをより引き立てている。


威厳と知性を湛えた佇まい。見覚えがある——隣国の公爵、レオナルド・ヴァン・エーデルシュタイン。外交使節として、この舞踏会に出席していたはず。


「素晴らしい」


低く、静かな声が会場に響く。寡黙で表情の変化に乏しいと評判の公爵が、珍しく言葉を発している。


「これほど見事な逆転劇を見たのは初めてだ」


公爵が歩み寄ってくる。その視線は私だけを捉えていた。まるで他の誰も存在しないかのように。


「リディアーナ嬢。いや——月光の織姫殿」


「……私をご存じで?」


「三年前から」


公爵の言葉に、私は瞬きを繰り返した。三年前? 私がまだ、セレナに才能を奪われ始めた頃?


「我が国は長らく、王国の月光の絹に注目していた。だが、表向きの製作者とされる令嬢——セレナ嬢には、どうしても違和感があった」


「違和感……」


「彼女の指には、織物師特有の繭がない。糸を紡ぐ者の手ではなかった」


私は無意識に自分の指先を見た。薄い繭のような光沢。長年の織物作業の証。母から受け継いだ才能を磨き続けた、その証明。


「真の作り手を探していた。そして——あなたを見つけた」


公爵の紫紺の瞳が、まっすぐに私を射抜く。見透かすような眼差し。だが、不思議と不快ではなかった。


「貴女の才能が不当に扱われている状況も、把握していた」


「では、なぜ今まで……」


「証拠がなければ、内政干渉になる。他国の公爵が、この国の侯爵家の内情に口を出すわけにはいかない。それに——」


公爵は静かに微笑んだ。初めて見せた、穏やかな表情。厳格な顔立ちが、不意に柔らかくなる。


「貴女自身が、自分の手で真実を明かすことを望んでいるように見えた」


胸の奥が、じんと熱くなった。


三年間、誰にも気づかれなかった。誰にも理解されなかった。ただ黙って耐え、証拠を集め、この日を待った。


——見ていた人が、いたのだ。


「改めて申し出たい」


公爵が片膝をついた。会場がざわめく。公爵という高位の貴族が、侯爵令嬢に跪くなど、前代未聞だ。


「月光の織姫殿。我が国の宮廷織物を、貴女に任せたい。貴女の才能を正当に評価し、自由に活かせる場を用意する」


「レオナルド公爵、これは——」


宰相が口を挟もうとしたが、公爵は続けた。


「無論、王家の遠縁である貴女の地位は保障する。保護ではなく、対等な協力者として」


対等。


保護ではなく、対等。


この三年間、一度も聞いたことのない言葉だった。


私の傍らで、侍女のエミリアが静かに涙を流していた。栗色の髪を実用的に編み込んだ彼女は、幼い頃から私と共に育った。実母の代から仕える侍女の娘。三年間の証拠集めに密かに協力してくれた、唯一の共犯者。


「お嬢様……お嬢様の本当の価値を知る日が、ようやく……」


「エミリア」


私は微笑んだ。


「荷造りを」


「……はい!」


エミリアの顔に、喜びが広がる。


私は公爵に向き直った。


「謹んでお受けいたします、公爵閣下」


深く一礼する。今度は、心からの敬意を込めて。



        ◇ ◇ ◇



その後の展開は、あっけないほど早かった。


継母マリエッタとセレナは、詐欺と文書偽造の罪で拘束された。王家の血統証明書を隠蔽し、遺産を横領した罪は重い。爵位剥奪は免れないだろう。


会場の隅では、父——フェリクス・フォン・クレセンティア侯爵が茫然と立ち尽くしていた。淡い金髪に琥珀色の瞳。温厚だが優柔不断な人。私を愛してはいたけれど、継母の巧みな操作に気づくことはなかった。


「リディアーナ……私は……」


父が何か言おうとしたが、私は首を振った。


「お父様。全て終わりましたわ」


「だが、私は何も知らなかった。お前がこれほど苦しんでいたとは……」


「ええ、お父様は何もご存じなかった」


責めているわけではなかった。ただ、事実を述べただけ。


「月光の絹の製作者が私だと、お気づきでしたか?」


「……いや。趣味の手仕事だと……」


「そうですわね」


私は小さく笑った。


「お母様から受け継いだ才能を、お父様にお見せする機会がございませんでしたもの」


父の顔が歪む。己の不明を恥じる顔。だが、謝罪の言葉を待つつもりはなかった。


「私は新しい道を歩みます。お父様もどうか、お元気で」


それだけ告げて、私は踵を返した。


「待ってくれ、リディアーナ!」


追いすがってきたのは、父ではなくカイル殿下だった。


「私は……私は知らなかったんだ。セレナに騙されていただけで——」


「ええ、存じております」


私は振り向いた。


「殿下は三年間、一度も真実を確かめようとなさらなかった。涙を流す女性の言葉だけを信じ、私の弁明には耳を貸さなかった」


「それは——」


「殿下にとって私は、守るべき相手ではなく、断罪すべき悪役だったのでしょう」


冷静に、淡々と。もう、感情を隠す必要もない。


「騙されていたのは確かです。でも——騙されることを選んだのは殿下ご自身ですわ」


「リディアーナ……」


「さようなら、カイル殿下」


最後の一礼。三年間の婚約者に対する、これが最後の礼儀。


レオナルド公爵が、カイル殿下に向かって静かに告げた。


「あの方を追放したこと、一生後悔なさいませ」


その言葉には、警告以上の重みがあった。


会場を後にしながら、私はかつて自分を蔑んでいた貴族たちの顔を見た。


蒼白になった者。冷や汗を流す者。慌てて私に頭を下げようとする者。


(ようやく気づいたのね。私の織物なしでは、この王国の特産品は成り立たないと)


月光の絹。王国の至宝。それを生み出せる唯一の存在が、この国を去る。


「お、お待ちください! リディアーナ様!」


誰かが叫んだが、私は振り向かなかった。


三年間。四十九回の嘘。


全ての忍耐が、今夜終わる。



        ◇ ◇ ◇



三週間後。隣国エーデルシュタイン公爵領。


私のために用意された工房は、想像以上に素晴らしかった。


天井まで届く大きな窓から、柔らかな光が差し込む。上質な絹糸が棚に並び、最高級の織機が部屋の中央に鎮座している。そして——誰にも邪魔されない、静かな空間。


窓の外には、緑豊かな庭園が広がっていた。王国とは違う、穏やかな風景。


「気に入っていただけたかな」


レオナルド公爵が背後に立っていた。相変わらず、足音を立てない人だ。


「ええ、とても」


私は振り向いた。もう、従順な令嬢を演じる必要はない。猫を被る必要もない。


「糸も織機も、王国では手に入らない品質ですわ。——公爵閣下のお心遣いに感謝いたします」


「レオナルドでいい」


「では、レオナルド様」


私は微笑んだ。


「一つ伺ってもよろしいですか」


「何なりと」


「なぜ、ここまで……」


私の才能を評価してくれたのは分かる。政治的な価値も理解できる。でも、これほどの待遇を用意した理由が分からなかった。


公爵——レオナルドは、静かに窓辺に歩み寄った。紫紺の瞳が、外の景色を映す。


「貴女の織物を初めて見たのは、五年前だ」


「五年……?」


五年前。私が十四歳の時。母が亡くなって、一年が経った頃。


「まだセレナ嬢が現れる前。貴女の実母が亡くなって間もない頃」


私は息を呑んだ。


「あの頃の貴女の作品には、悲しみが織り込まれていた。月光の絹に、銀色の涙のような模様」


覚えている。母を亡くし、泣きながら織り続けた日々。悲しみを布に込めるしかなかった日々。


「だが、ある時から作品の質が変わった。悲しみではなく——怒りと、決意が宿るようになった」


「それは……」


「継母と義妹が来てからだろう」


レオナルドが振り向いた。紫紺の瞳が、まっすぐに私を見つめる。


「絹に隠した手紙は、貴女の三年間の叫びだ」


心臓が跳ねた。


「誰にも聞いてもらえなかった声。誰にも信じてもらえなかった真実。——貴女は、布に縫い込むしかなかった」


「……っ」


喉が詰まった。言葉が出てこない。


三年間。ずっと一人で戦ってきた。エミリアという味方はいたけれど、本当の苦しみは誰にも言えなかった。言っても、信じてもらえなかったから。


涙を流しても、同情を得るのはセレナだった。真実を訴えても、信じられるのはセレナだった。


だから私は、泣くのをやめた。訴えるのをやめた。ただ黙って、証拠を集めた。布に織り込んだ。


「もう隠さなくていい」


レオナルドが、そっと私の前に立った。近い。でも、威圧的ではない。むしろ——守るような距離。


「貴女の才能も、苦しみも、怒りも——全て、表に出していい」


「……」


視界が滲んだ。


ああ、これが。


これが、本当に理解されるということなのか。


「リディアーナ」


初めて、名前を呼ばれた。「令嬢」でも「織姫殿」でもなく、ただ名前を。


「貴女の新しい人生は、今日から始まる」


私は頷いた。涙が頬を伝う。


三年間、一度も流さなかった涙。悔しくても、悲しくても、絶対に見せなかった涙。泣けば負けだと思っていた。泣いても誰も助けてくれないと知っていたから。


「ようやく……」


声が震えた。


「ようやく、織物を——好きなものを、好きなように織れるのですね」


「ああ。貴女の思うままに」


窓の外で、隣国の陽光が工房を照らしていた。月光の絹ではなく、太陽の光に包まれて。


私は初めて、本当の涙を流した。


悲しみではなく、解放の涙を。



        ◇ ◇ ◇



——そして王国では、月光の絹を失った代償に、誰もが気づき始めていた。


特産品の崩壊。各国からの注文に応えられず、王国の威信は地に落ちた。月光の絹を求める外国の使節は、空手で帰っていく。


カイル王子は「悪女の肩を持った愚かな王子」として求心力を失い、王位継承争いから脱落した。第一王子派と第三王子派が台頭し、彼は宮廷の片隅に追いやられている。


継母マリエッタとセレナは、爵位を剥奪され、辺境の修道院に送られた。社交界で華やかに振る舞った日々は、二度と戻らない。


そして、かつてリディアーナを蔑んでいた貴族たちは——今になって、彼女の価値を痛感している。あの地味な令嬢が、王国の至宝を生み出していたのだと。


後悔しても、もう遅い。


月光の織姫は、隣国で新たな人生を歩み始めているのだから。



        ◇ ◇ ◇



私は新しい工房で、新しい糸を手に取った。


エーデルシュタイン産の絹糸。王国のものより柔らかく、光沢がある。これに魔力を織り込めば、どんな布が生まれるだろう。


「何を織るつもりだ」


レオナルドが、工房の入り口に立っていた。毎日のように様子を見に来る。公爵としての仕事もあるはずなのに。


「月光の絹——ではなく、もっと違うものを」


私は微笑んだ。


「母から受け継いだ技術を、私なりに発展させてみたいのです。悲しみや怒りではなく——希望を織り込んだ布を」


「希望か」


レオナルドが、珍しく笑った。


「楽しみにしている」


今度こそ——私だけの物語を、織り始めよう。


誰かに奪われるためではなく。誰かに利用されるためではなく。


私自身のために。私を理解してくれる人のために。


窓から差し込む光の中で、私は糸を紡ぎ始めた。


新しい人生の、最初の一本を。



——完——

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