6.ネルとアラン
「ネル!」
聞き覚えのある声に呼ばれて振り向くと、懐かしい顔が見えた。最後に会った時より引き締まった顔をしていて、なんだかちょっと……大きくなっているような……?
そして私が返事をするより前に、何かにぎゅっと上半身を包まれた。
なんだろう、これは。埃っぽくてちょっと汗くさい……
何かに押し付けられた顔を上げようともがいていると、頭の上から声が聞こえた。
「ネル、会いたかった。ごめん…」
「えっ…」
声の主と自分の今の状況にようやく思い至り、心臓がぎゅっと掴まれたようになる。体中が沸騰するように熱くなり、その熱がじわじわと頬に集まる感覚。どちらも初めてのことで、何が起きているのか分からない。
胸が苦しい。息が詰まる。顔が熱い。
口からひとつ息を吸い込み――
「おや、おかえり。早かったね」
突然先生の声が聞こえて、ハッとした。先生の家だ。見回しても私と先生しかいない。
どういうこと?
「おやおや、まるで茹でエビのような顔だな。うん。そうだ、おまえを見たら茹でエビが食べたくなった。わたしは二十尾ほど食べたいね。川で獲ってきなさい」
この自由な人はいつもこうだ。
「どうやらおまえも魔法が使えるようになったようだから、ついでに練習してきなさい。強く願うんだ。人間相手と同じで、意思を持って動く生き物にも効果は無いからね。周りの環境を魔法でどうにかして、わたしの為にエビを集めるんだ。とにかくやってみなさい」
いつもより無茶を言う先生に追い出されるようにして、私は一人、川に向かった。
鳥の羽音が聞こえる。先生がどこかに手紙を出したのだろう。
少し手こずりはしたけれど、エビ獲り自体は慣れていたから、そこに魔法も使えるならいつもより簡単なくらいだった。楽しくなって獲りすぎたエビを籠ごと洗う時に、魔法の加減を間違えて自分が水浸しになったのは予想外だったけれど。
獲ってきたエビを籠ごと庭先の大鍋に落とし、水をたっぷり入れておく。少しでも泥を吐かせるため。
「あら、お父さん、いらっしゃい」
ひと息ついて扉を開けると、父がいた。
突然呼びつけられて、騎士団本部からメアリーを連れて来てくれたという父が、先生が煎れたお茶を飲んでいた。初夏によく合う爽やかな風味なのに、いつも父だけが苦いと文句を言っている。
「お帰り、ネル。ついに魔法が使えるようになったんだってね。何かきっかけがあったんだろう? お父さんにも教えてくれるかい?」
父に聞かれ、騎士団本部でのことを思い出してしまった。ああ、また頬が熱くなる……。
先生は人がずぶ濡れになっているのを見て笑っている。朝から薬草を撒き散らして大掃除をしていた先生には笑われたくないのに!
「えーと、うん、そう。そうなんだけど……ちょっと着替えてくるから、先生とお話して待っててね!」
なんだか父から妙な圧を感じて気恥ずかしくなって、その場から逃げ出さずにはいられなかった。水を被っていて良かった。
着替えを終えて先生たちの元に戻ると、客人が一人増えていた。
先生の手伝いで街に出るうちにすっかり見慣れた騎士服だけれど、イーモンさんじゃないみたい。焦げたキツネのような髪はどんな動作にも邪魔にならない程度に刈り込まれ、背中は広い……けど、父に何か言われているようで、床に座り込んで縮こまっている。先生はにやにやしている。
その様子をぼんやり見ていると、父が私に気付き、新たな客人もこちらに目を向けた。
あっ……
「ネル!」
顔を見てすぐに立ち上がってネルに手を伸ばそうとしたら、後ろから肩を掴まれてあっと言う間もなく引き倒された。
親父さん、ずっと病気がちだったのでは? やけに力強くない? 絶対強いよ。俺ランドール卿に怒られちゃう。
「お父さん、そんなことしたら危ないよ」
ネルが親父さんを咎めてくれる。久しぶりに聞いたけど、やっぱり可愛い声だな。なんだか表情も前より豊かに見える。親父さんを睨みつけるなんて初めて見た。
可愛い。……え、こんな表情できたの? なんで? この三年半で、俺が知らない間に何があったの?
呆然と見ていたら、ネルと目が合った。あ、頬が赤くなってる。
「可愛い……」
あっ、声に出ちゃった。肩が痛いよ親父さん。
押し返してもいいけど加減が難しいからそのままにしてネルを見つめていたら、魔女が立ち上がった。
「どうせこの坊やが切っ掛けなんだろう? ネルがいいのなら話をしようか」
目を細めた魔女が続けた。
「ああ。おまえ、早く騎士になりたいから近道を教えろと騒いでいたあの鼻垂れ小僧か。路地裏に糸口はあったか?」
先生に言われたアランの目がこちらを向く。
そういえば、アランと初めて会ったのは路地裏だった。
先生がまたにやにやしている。
「坊やもネルが魔女になるために必要だったわけだな」
そうして、私が東の街を出てから先生に預けられることになった理由――全部ではないけど――と、あれからの日々の話をした。魔女修業で風邪ばかりひいていたこと、妖精が見えるようになり、魔女薬も作れるようになったこと、先生が案外おっちょこちょいなこと、祖父に初めて会ったこと、騎士団本部にお使いに行っていること。
アランも沢山話をしてくれた。あの事件のこと、私が居なくなってどれほど後悔したか、正騎士になる為にどれほど努力を重ねたか、でもいつまでも王都にさえも来れなくてどれほど苦しかったか、それでもまた会えた時に恥ずかしくないように心身を鍛え続けてきて、そしてやっと会えて感極まってしまったこと。
久しぶりに顔を合わせたアランに出会い頭に抱き締められたことを白状させられ、父はアランに謎の技をかけている。
私、王都に来てからお父さんが元気そうで安心してるんだよ。
父はうつ伏せにしたアランのすねを抱えて腰に跨り、アランの両足を抱えて反り返りながら教えてくれた。
「まあでも、アラン君はお義父さんとランドール卿が紹介した女性の誰とも関わらなかったから、一途ではあるんだよねぇ」
「えっ!!??」
ネルと俺の声が重なった。
驚きの余り思わず親父さんを乗せたまま起き上がってしまい、親父さんが頭をぶつけるすんでのところを横抱きに抱き止めて考えた。
正騎士になってからやたらと女性を紹介されたり声をかけられると思ったら、そういう事だったのか……。
ネルは……あ、怒ってる? 拗ねてる? もしや焼き餅? 本当に、あの頃とは全然表情が違う。
「可愛い……」
親父さんが腕の中で身動ぎするのをそのまま押さえ込んで椅子に座らせてからネルに目を向けると、「私だってお祖父さんにはまだ一度しか会ってないのに」ときた。
えー、それはあのやたらにデカいお祖父さんに何度か会った俺に対する嫉妬ね……
「そうだネル、せっかく魔法が使えるようになったんだから、久しぶりにお義父さんに会いに行こうか! マーシャの兄弟も、僕の弟も同じ国にいるんだよ」
父の提案に、あら素敵、と思ったところで扉を叩く音。そしてイーモンさんが現れた。
「紫陽花の魔女殿、おめでとう。ついに魔法が使えるようになったようだね。お祝いをしよう。今夜は私がご馳走するよ」
にこやかにそう言うが早いかあっと言う間に長机に様々なご馳走が並び、酒樽にいくつかの飲み物まで用意され、それを並べた人たち(イーモンさんのお屋敷の使用人かな?)は微笑んで去っていった。
私は昼間獲ってあったエビを塩茹でにして先生の前に起き、そこで一緒に摘んで、アランはそれを鷲掴みにして父と分けあっている。
それからは、なんだか不思議な光景だった。
先生は珍しくお酒を浴びるように飲み(酔ってはいないみたい)、イーモンさんは先生の隣で機嫌良く杯を傾けながら先生の口に手ずから殻を剥いた茹でエビを放り込んでいて、父は眉間に皺を寄せながらアランに肩を寄せてなにやら語っているし、アランはアランで父に返事をしながら次々ご馳走を平らげながらチラチラとこちらを見てくるし。
結局みんな好きなことしかしてないのね。
私も私でお酒を飲んでみたけれど、全く酔う感覚が無かったので、魔女というのはそういうものなのかもしれない。
誰も酔わない祝宴で、私たちはこれからの話をした。
魔女は師が認めれば独り立ちをする。私はまだ独り立ちには早いけれど、一度国を出て親族を訪ねることにした。魔女になるはずだった母を知るために。
父と二人旅のつもりだったけれど、イーモンさんの勧めでアランが同行することになった。咄嗟の事態に対応できて、野営も慣れている騎士を護衛として付けた方が安心ということで。
先生には「旅の間によく見極めるといいよ」とこっそり耳打ちされた。その通りだけれど、なんだか急にいろんな気持ちが渦巻いていてとても落ち着かない。
先生は、私が独り立ちしたら旅に出たいと言った。
魔女はやはり自由でないとね。と笑った先生は楽しそうだった。
父は旅から帰ったらそのまま商会に勤め続けるみたい。お祖父さんの商会で、時折訪れる母の知人と昔話をしているらしい。
イーモンさんはただ「何も変わらない」と言った。きっとこれからも騎士として、先生が居るこの街を守り続けるのだろう。
アランは? 旅の間に沢山話をしたいと言ってくれた。この街に来るまでもずっと好きだと言ってくれて、今日だってずっと視線を感じている。
長く離れていて、あの頃の私が気付かなかった様々な感情に、今は振り回されているのを実感する。
旅を終えてからどうなるか、それはまだ分からない。でもなんだか、何もかもが上手く転がるような気がしてならない。
今の私は、ただひたすら、未来が楽しみだ。




