2.ネルとマルヴィナ
「わたしは魔女のマルヴィナだ。おまえの母マーシャと父エドワードとの契約により、今日この時よりわたしがおまえの身を預かり、一人前の魔女に育て上げてやる。わたしのことは先生と呼びなさい」
なんということだ。この人が何を言っているのか一つも理解できない。
両親との契約? 善良な一般市民である両親が、どうして魔女と契約したの? どうして私を魔女にするの? 私の両親は魔女ではないのに?
「考える必要はないよ。それを知るのはおまえが魔女になってからだ。やるべき事は多いからね。余計な事は後で構わんさ」
まるで私の頭の中を読まれていたかのように、浮かんだ疑問の答えは後回しにされてしまった。
私の昼食の鶏の香草焼きを頬張った彼女は、にやりと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
こうして始まった魔女マルヴィナとの魔女修業は、私にとっては学ぶ事よりも心身を整える事の方が辛い日々となった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝は暑かろうが寒かろうが雨が降ろうが吹雪こうが「玄関扉を出て十歩の場所に置いた薪を朝一番に取ってきて」火を起こし、「井戸で汲む水は一杯目は井戸の周りに捨てて二杯目から」使い、「一日で一番始めに使う道具は全て右手で」取り、「朝のうちに全て磨き上げ」、魔女の家を掃除し(マルヴィナは片付けが少し苦手みたい)、食事の支度をし、「師よりも先に食事には手を付けず」、薬草の世話をして暮らす。他にも本当に意味があるのか無いのか、ただの験担ぎではないのかと疑うような小さな決まりを守ることを強いられた。
何より辛いのが、やはりこれも暑かろうが寒かろうが雨が降ろうが吹雪こうが、「魔女薬を作る日は、朝から水がめの水をそのまま頭から被って身を清めてから作業を始める」ということだった。この決まりについての唯一の救いは、薪の準備と水汲みを終えてから水を浴びて良い、ということだけ。
私が王都に来た冬から始まった魔女の修業は、何度も風邪をひいて中断した。
私は熱のために記憶があやふやになることが何度かあったけれど、マルヴィナは必ず、私のために熱冷ましの魔女薬を作ってくれた。それはちょっと苦かったけれど、よく知る味のような気もした。
繰り返し熱を出す私に対して、彼女が一度も苛立った様子を見せなかったことは意外だった。私に魔女の修業をさせると言い出した時は、あんなに有無を言わせない態度だったのに。
それに二度目の風邪からは、水がめの水を少し温めてくれていたようなのだ。
自分勝手で強引でぶっきらぼうな人だけれど、歩み寄りもしてくれる。もしも私に姉がいたら、こんな人だったのかな。そうだったらいいな。と、こんな事を考えたりもした。
そんな修道女のような細かな決まり事に振り回される生活にも慣れ、マルヴィナを先生と呼び始めてからしばらく経った頃。私は彼女が人々から「緑の沼の魔女」と呼ばれる所以を知った。
普段は私や父のような普通の薬師が作るのと同じありふれた薬を作る魔女ではあるけれど、時折、依頼を受けて、ごく限られた人にのみ作用する魔女薬を作ることがある。普通の薬と同じ材料で、普通の薬と同じ手順で作るそれは、仕上げに魔女の特別な力を加えることによって、その魔女固有の色に変わるそう。
マルヴィナの場合、それが「水の流れのない緑の沼」の色だった。
初めてマルヴィナが魔女薬を作る様子を見た時、仕上がった物を見て、悪口じゃん……と思ったけれど、口には出さなかった。多分彼女もその名には納得していない様子だったから。つまり、そういう目をしていた。
魔女薬を作るには、周囲の妖精の力を借りることが必要で、それにはこれまでの修道女のような細かな決まり事を守ることが大切なのだという。マルヴィナ曰く、「俗世の匂いが落ちて、妖精好みの匂いになる」のだそう。分からない。
けれど分からないなりにそんな生活を続けていたら、一年を前に気配を感じるようになった。
目には見えないけれど、何かが居るような。
さらに、日々マルヴィナが調薬をする様子を手伝いながら見ていると、次第に姿も見えるようになってきた。
それは人の子供を小さくしたような姿をしていたり、犬や猫のような見たことのある動物を小さくしたような姿をしていたり、トカゲや虫の姿をしていたり、私が見たこともない形のものもいた。そのどれもが手の平に収まるほどの大きさで、様々な色を持っていて、薄っすらと透け、淡く光っていた。もしかしたらこの世には、虹色に輝くカブトムシの妖精もいるかも。
私にも妖精の姿が見えるようになると、彼らにもそれが伝わったのか、私の周りをうろうろと飛び回るものや体をよじ登ってくるものも現れた。いくつかの妖精はお断りしたけれど……。
マルヴィナは「相手をし過ぎると調子に乗るよ」と鬱陶しそうに手で払ったりしていた。
修道女の暮らしのような魔女修業をしながら、マルヴィナの調薬や納品を手伝い、大きくはない魔女の家を掃除し、時折彼女の愛馬メアリーや妖精と遊んだりしながら三年を迎えようという頃、いよいよ私も魔女薬を作ることになった。
私がいつもの手順で薬を作るのを、妖精たちが集まって遊びながら見ている。
父と暮らしていた頃から、調薬の様子を眺め、作り方を教わり、手伝い、ここに来てからは私一人でも作ってきた、どこにでもある傷薬。
材料はいつもの「悪い物を除いた物」ではなく「良い物を選りすぐった物」。一つ一つの工程を丁寧に。
これを使うのはマルヴィナ。マルヴィナだけのために作る。
時間をかけて練り上げた傷薬に手をかざし、教わった呪文を唱える。
柔らかな光が浮かび、残ったのは薄い青紫色。
「ふむ。流石、わたしの教え子。良い出来だね」
今朝小枝に引っ掛けて作ったばかりという小傷に軟膏を塗りながら、マルヴィナが目を細めた。
その後も何度か魔女薬を作り、その度に青紫から桃色を行き来する私の薬を見たマルヴィナは、最終的に私にこう名付けてくれた。
「紫陽花だね。わたしはおまえに紫陽花の名を与える。大きな花を咲かせずとも、おまえらしい小さな花を沢山咲かせなさい」
深い森のような緑の瞳は私を見つめ、そして私の向こうを見ているように見えた。
これで魔女薬を作るための修業は終わった。
あとは魔法であるが、マルヴィナによると「魔女の魔法は感覚でしかないからね。わたしが教えられる事はないけど、まあ、もう少しだろうね」とのこと。
「師によって名を与えられた魔女は、妖精たちにもその存在を覚えられるからね。おまえももう、今までのように細かい決まり事を守り続けなくていいんだよ」
そう言ったマルヴィナに従い、朝の水浴びを夜にし、朝はなかなか起きない彼女を置いて朝食を摂り、彼女の手伝いをして魔女薬を作り、以前よりは気楽に過ごすうちに、わたしがあの街を出てから三年が過ぎていた。
初夏の爽やかな風が、水を浴びた薬草を揺らす朝。
今日もまだまだ起きる様子のないマルヴィナに代わって、王都の騎士団本部に薬の納品に行く。帰りには食料を買ってこようかな。そろそろハムとパンを補充しよう。香辛料を利かせたハムがいいかも。
わたしと半年遅れで王都にやって来た父にも会いに行きたい。東の街での事件もすっかり片付いて父の名誉も回復したけれど、父はもう組合には属さずに商店の専属薬師をしている。最近手首を痛めたと言っていたから、魔女薬を作ってみた。少しなら時間を取ってもらえるかな。
そういえば、私が魔女修業を受けることになった理由を聞いていなかったな。今日帰ったら教えてもらおう。
メアリーに櫛をかけ、手綱を付け、荷物を背に預けて跨る。そうだ、干し草も配達してもらおう。
彼女のいつも通りご機嫌な様子に、私も嬉しくなる。今日もあなたの速さで行こうね。




