1.ネル
魔女の薬屋。
王都から馬で半日駆けた森の傍にあるその店には、「緑の沼の魔女」と呼ばれる魔女がいる。多くの魔女が百五十から二百年生きるというが、この魔女はまだ百年も生きていない。
この魔女は店を構えてはいるが、実際にその特別な魔女薬を手に入れたければ、どこかで魔女と直接顔を合わせる機会に恵まれる以外に手段はない。
長く一人で暮らしていたその魔女の元で、一人の娘が居候を始めたのは三年前。
一人やって来て魔女の薬を学んだその娘も、いよいよ独り立ちをしようとしている。
王都中央の騎士団本部に、今日も魔女の、ごくごく普通の薬を納めに来たのは弟子の娘。
「やあ、今日もご苦労さま。マルヴィナも元気にしているか?」
娘に尋ねたのは騎士の一人イーモン。娘を気にかける一人だ。
しかし娘を気にかけてはいるものの、実際彼の興味はマルヴィナにしか向いていない。娘もそれをよく理解している。
「先生は今日もお元気ですよ。朝から調剤室をお掃除されています」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あの日、薬師の父と二人きりで暮らす小さな我が家に騎士団が雪崩込んできた。暴れも騒ぎもしない父を連れ出すと、家捜しを始めた。
私は、家中をひっくり返して確かめる男達を、現実感なく眺めるしかなかった。
もうあと一年もすれば正騎士になるはずの恋人アランの姿はないが、何人かの見知った顔は、険しい表情でこちらに視線ひとつ向けることもない。
私の部屋も女性の騎士によって家捜しされたが、めぼしい物は特に無かったらしい。
その後には街の中央の騎士団本部に連れて行かれ、そこで初めて事情を聞かされた。
王都から来たという騎士イーモンさんは、まさに「王都の騎士」。整えられた明るい金の髪に春の空のように澄んだ青の瞳が美しい、貴族然とした紳士だった。
彼によると、私の父が薬師組合の不正を告発したことで、組合幹部と街の薬師の家に今日一斉に捜査が入ったのだという。
家族にも事情聴取がされるということで、私も騎士団本部に留め置かれて聴取を受けた。
とはいえ私は何も知らないし騎士団でも私の関与は疑われていないということで、平民には十分過ぎる部屋に滞在して、時折雑談を振られながら同じ話を何度もする程度だった。
やがて一週間が経つ頃、事情聴取の終了と解放が告げられた。
「さて、ネルさん。長い間ご苦労さま。押収された資料からも容疑者の話からも君の関与が無いことが確認されたから、君は家に帰れるよ」
それを聞いてとにかくほっとした。
誰よりも私こそが私の無実を信じていたけれど、もしも悪意ある人間が一人でもいれば、どう転んだか分からなかったのだ。
家に帰ったら片付けをしなければ…と思っていたら、さらに続けられる。
「とは言え、このまま今の家に住み続けることはお勧めできない。君のお父さんはまだ帰れないし、事実がどうであれ、街の人間から見た君たち薬師とその家族は、今の時点では犯罪者と同じ目で見られている。国と騎士団から正式な通達が出るまで、この街の人間には何も言わずにどこかで身を隠しなさい」
私は黙って頷き、それを見たイーモンさんは表情を和らげて続けた。
「ところで、先ほど王都から書記官の交代要員が着いたところだから、今日までよく働いた彼らも王都へ戻るんだ」
イーモンさんの視線を追うと、私が聴取を受け始めた時から同席していた二人の騎士が頷いた。
そういえば始めに書記官として紹介されたけれど、存在感がなさすぎて忘れていた。普段は潜入捜査でもしているのだろうか。
「他にも戻る団員がいるから、彼らと一緒に王都に行きなさい。街を出てすぐに頼れる人もいないんだろう? お父さんからはネルさんを任せられる知人の伝があると聞いているから、そこまではこちらで繋ごう」
ありがたい申し出だ。その通り、私には街の外に頼れる人の当てはない。父の伝ならひとまず安心。
イーモンさんの申し出を受けて昼過ぎに一旦家に帰った私の元に、大家のおばさんがやって来た。
「ネルちゃん。あんた、悪いけどもう出てってくんないかね」
気の毒そうな空気を見せてそう切り出してから、おばさんは続けた。
「あんたが帰って来たってことは、あんたは何もやってないんだろうけどね。親が騎士に連れてかれたってんじゃあ、他の店子が怖がるんだよ」
持ち出せない家具なんかは買い取ってやるから、悪いけどなるべく早くね。そう言い残して去って行った。
半日かけて一人で荷物を整理した。大きな家具や持ち歩けない生活用品は全て置いていく。
ほとんどの書物と薬草は騎士団が持って行ったので、大した物は残っていない。
父の衣類と私物は、イーモンさんの指示通りに木箱に詰めて騎士団に預け、残りは私の衣類と一緒に古着屋へ。
そうして結局、役に立つのか立たないのか分からないような少しの薬草、調剤道具と当面の衣類だけを背負い袋に詰め込み、幸いにも持ち去られなかったお金を着る物のあちらこちらに隠した。
支度を済ませて一晩休むと、翌朝早くやって来た大家のおばさんに鍵を返す。父が持っていた鍵も一緒に。
すぐにでも生活ができそうで、それでも物がなくなった室内を見て回ったおばさんは、家賃の残りと家具の買い取り分として銀貨と銅貨を五枚ずつ手渡して、最後にそっと抱きしめてくれた。
その日のうちに街を出る。
イーモンさんに指定された門に向かいながら、これから冬に入ろうとする街並みを眺めた。
六つの時に母を亡くし、父と二人でやって来た街。人が多くて騒がしくて、賑やかで温かくて。
街の薬師組合に所属して、男手ひとつで十年、ここまで育ててくれた父。
五年ほど前から体調を崩しがちだった父の遣いで街に出た時、酔っぱらいの男に絡まれている子供を庇っていたところに、助けに来てくれた騎士の一人が従騎士のアランだった。
何度か街で偶然顔を合わせて、食事に誘われて、初めて出会ってから三ヶ月ほどの頃、お付き合いを申し込まれた。
真面目な人で、結婚するわけでもないのに父に挨拶をして、結婚するまでは手を繋ぐだけ、と言われて頭を抱えながらも約束を守ってくれた。
あれから一年半。今となっては父に感謝だ。
イーモンさんからは、アランに言付けることもできると言われたが、断っておいた。
同じ街に住んでいて三ヶ月も連絡が無ければ、そういうこと。もうじき正騎士に叙任されるであろう彼とは、何も無かった。
私も彼も、何も無かったのだから、これからどうとでもなる。
西へ向かう門には、王都へ戻る騎士団の馬車。
立派な体躯の若い馬二頭が牽く馬車は、五騎の騎馬兵とともに街の検問を越えて順調に走り出した。
荷車のような馬車に揺られ、朝のひんやりとした空気に皆それぞれ身をすくめる。
さっさと街を出ることが、犯罪者の娘の身を守ることになる。
おばさんの優しさは分かっているよ。
だから行き先も行く当ても街の誰にも告げずに出てきた。
門を抜けた馬車は、真っ直ぐに王都を目指す。
何度か夜営をすることになるけれど、慣れた人たちが一緒なので安心だ。野盗が出たとしても負ける気がしない。心強い。
お尻は痛いが、イーモンさんに感謝せずにはいられない。
出発から十日。
途中途中の夜営や休憩では、アランと同じか少し若いくらいの従騎士が走り回り、旅慣れない私の傍には女性の騎士が代わる代わる付いて声をかけてくれたので、思ったよりずっと快適な旅だった。
そうして私は王都に到着した。
ここには私の知り合いは居ないけれど、父もいずれ合流できる。
それまでは父もイーモンさんもよく知る人が預かってくれるらしい。
どんな人だろう。少し緊張する。
イーモンさんの秘書官を名乗る騎士に連れられて来た応接室で昼食をいただきながら、待つこと少し。
やって来たのは、えんじ色のローブを頭から被り、深い森の緑を宿した瞳の、柔らかな美しさを隠さない、父と同じ年頃に見える女性だった。
彼女はそのローブを少し上げて顔を見せると、私の顔を見てはっきりと言った。
「わたしは魔女のマルヴィナだ。おまえの母マーシャと父エドワードとの契約により、今日この時よりわたしがおまえの身を預かり、一人前の魔女に育て上げてやる。わたしのことは先生と呼びなさい」
「え?」
自宅の家宅捜索に続いて、人生で一番の衝撃が更新されてしまった。




