第七話: 攻略中断、ただいまよりダンジョン飯の時間です!
『湿地の迷宮』の攻略は、予想通り、いや、予想以上に順調に進んでいた。
毒々しい紫色をした沼は、私の浄化魔法の前ではただの水たまりに過ぎず、行く手を阻む粘着質のスライムたちは、乾燥の風を浴びてぱりぱりの乾物へと姿を変えていく。
じめじめとした空気、ぬかるんで一歩ごとにぐちゅりと音を立てる足元、そこら中から漂ってくるカビと泥の入り交じったような匂い。普通の冒険者なら、五分で音を上げて帰りたくなるような環境であることは間違いない。
でも、私にとっては、それすらもが新鮮なスパイスだった。
「わふっ!」
私の少し前を歩いていたフェンが、ぴたりと足を止め、くんくんと鼻を鳴らした。その視線は、目の前の分かれ道の、右側の通路へと注がれている。
「ん? どうしたの、フェン。こっちの道、何かある?」
「くぅん!」
彼は『こっちだ!』とでも言うように、一度だけ短く鳴くと、私を振り返りもせずに右の通路へと進んでいく。その足取りには、何の迷いもない。
「あらあら。そんなに自信満々なのね。分かったわ、あなたのその自慢の鼻を信じてみましょう」
私はくすりと笑いながら、彼の後を追った。
前世でやり込んだゲームにも、パーティーに一人は欲しい『探索スキル』持ちのキャラクターというのがいたものだ。隠し通路やアイテムを発見する能力を持った、いわばトレジャーハンター。今のフェンは、まさにそんな感じだ。彼の優れた嗅覚は、危険を察知するだけでなく、何か『良いもの』の匂いも嗅ぎ分けることができるらしい。
フェンに導かれるまま、薄暗く狭い通路をしばらく進んでいく。壁からは相変わらずぽたぽたと水滴が落ちていて、その音がやけに大きく聞こえた。道は緩やかな下り坂になっていて、どんどん迷宮の深部へと向かっているのが分かる。
そして、数分ほど歩いたところで、道は不意に開けた。
「……うわぁ……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
目の前に広がっていたのは、これまで見てきたどの空間とも違う、信じられないほど美しい場所だった。
そこは、ドーム状になった広大な地下空洞だった。そして、その空間のほとんどは、またしても毒々しい紫色の沼に覆われている。
けれど、その中央部分だけが、まるで神様がそこだけ切り取って持ってきたかのように、ぽっかりと円形に、澄み切った水で満たされていたのだ。
広さは、王城の中庭にあった噴水くらいだろうか。
その円形の泉の中心からは、こんこんと清らかな水が湧き出ているのが見える。水は信じられないくらいに透明で、底にある真っ白な砂粒の一つ一つまで、はっきりと見通すことができた。泉の周りには、柔らかな光を放つ苔が絨毯のように生い茂っていて、その幻想的な光が水面に反射し、きらきらと乱反射している。
周囲の、澱んだ紫色の毒沼。その真ん中に、ぽつんと存在する、澄み切ったオアシス。
そのあまりの対比の美しさに、私はしばらく言葉を失って、ただ立ち尽くしていた。
「わふん!」
私の足元で、フェンが『どうだ!』とでも言いたげに、胸を張って一声鳴いた。
「すごい……すごいじゃない、フェン! よくこんな場所を見つけたわね!」
私は興奮気味に彼の頭をわしゃわしゃと撫で回す。フェンはくすぐったそうに、でも嬉しそうに目を細めて、私の手に顔をすり寄せてきた。
「本当に、信じられないくらい綺麗な場所……。こんなところが、このダンジョンの奥にあったなんて」
効率を第一に考える冒険者なら、おそらくこんな場所は素通りしてしまうだろう。何しろ、この泉の先には、奥へと続く道が見当たらない。ただの行き止まりの広間。攻略という観点から見れば、何の価値もない場所だ。
けれど、今の私にとっては。
「……ふふっ。ふふふふふっ」
笑いが、こらえきれずに口からあふれ出てくる。
「最高の休憩ポイントじゃない……!」
マイホーム資金を稼ぐための冒険?
ダンジョンの最深部にいるという主の調査?
そんなことは、今、この瞬間、どうでもよくなった。
目の前にあるのは、誰にも邪魔されない、私たちだけの秘密の楽園。
これを楽しまないなんて、冒険者失格だ。
「よし、決めた! フェン、ここでキャンプしましょう!」
「わんっ!?」
私の突拍子もない提案に、フェンが『え、今から!?』とでも言いたげな、間の抜けた声を上げた。
「ええ、今からよ! 冒険を中断して、優雅なキャンプの始まりよ!」
私は高らかにそう宣言すると、背負っていた革袋をその場にどさりと下ろしたのだった。
◇
キャンプをすると決めたら、話は早い。
まずは、安全の確保からだ。この泉の周りは清浄な空気に満ちているけれど、いつ、どこから毒沼の魔物が這い上がってこないとも限らない。
私は泉のほとりの、少しだけ開けた平らな場所に立つと、すう、と大きく息を吸い込んだ。
「さて、と。まずは、魔物避けの結界を張りましょうか」
「くぅん?」
フェンが、不思議そうに小首を傾げている。
神聖魔法の使い手でもないのに、結界なんて張れるのか、とでも言いたげな顔だ。
「まあ、見てなさいな。私流の、お手軽結界術よ」
私は両手を、地面と水平になるように、ゆっくりと広げた。
そして、目を閉じ、意識を集中させる。
イメージするのは、私たちの周りをぐるりと囲む、目には見えない空気の壁。ただの壁じゃない。内側から外側へ向かって、常に優しい風が吹き続けている、ドーム状の壁。虫や、小さな魔物くらいなら、その風圧で弾き飛ばしてしまうような、そんな空気の流れ。
(風魔法の応用……『エア・シェルター』!)
私が心の中でそう唱えると、足元から、ふわり、と柔らかな風が巻き起こった。その風は、私たちの周りを優しく包み込むように円を描き、やがて安定した空気の流れとなって、目には見えない防御壁を形成した。
見た目には、何も変わらない。
けれど、試しに近くに落ちていた枯れ葉を、その境界線の外から内側へ向かって投げてみると、葉っぱはまるで透明な壁にでもぶつかったかのように、ぽん、と軽く弾き返された。
「よし、成功ね。これなら、安心して眠れるわ」
「わふぅ……」
フェンが、感心したように、ほう、とため息をついている。彼は自分の鼻先を、その見えない壁にくんくんと押し付けて、不思議な感触を確かめているようだった。
「安全な寝床が確保できたら、次はお食事の準備よ!」
私は意気揚々とそう言うと、まずは泉の水を革袋に汲んだ。念には念を入れて、浄化の魔法をかけておく。これで、飲み水は万全だ。
次は、食材探し。
幸い、この泉の周りには、食べられそうなものがいくつか生えていた。
「あ、このキノコ、見てフェン! 青白く光ってるわ! 綺麗!」
光る苔の間に、ぼんやりと発光する、傘の大きなキノコがいくつか生えているのを見つけた。浄化魔法をかけても何の変化もない。つまり、毒はないということだ。
「こっちの水草も、なんだかシャキシャキして美味しそうね」
泉のほとりには、クレソンのような、瑞々しい緑色の水草も群生していた。これも、もちろん毒はない。
私はそれらを必要な分だけ採取すると、いよいよ調理に取り掛かった。
「焚き火、焚き火っと。乾燥した枝は……ないわね、この湿度じゃ」
あたりを見回すが、当然ながら、火起こしに使えそうな乾いた木は見当たらない。
でも、問題ない。
「こういう時は、土魔法の出番ね」
私は地面に手をかざし、土の中から水分だけを抜き去って、からからに乾燥させた土の塊をいくつか作り出した。そして、それを積み木のように組み上げて、簡易的なかまどを作る。仕上げに、風魔法でそのかまど全体に乾いた風を送り続け、完全に水分を飛ばした。
そして、そのかまどの中に、指先からぽん、と小さな火種を飛ばす生活魔法『発火』で火をつける。
「よし、完璧ね!」
ぱちぱちと、心地よい音を立てて炎が燃え上がる。
私は革袋から、愛用の小さな鍋を取り出した。これは、街の雑貨屋で買った、旅人用の調理器具だ。
鍋に浄化した水を入れ、かまどの上に乗せる。
ぐつぐつと、お湯が沸騰してきたところで、先ほど採取した光るキノコと水草を、ざぶりと投入した。
そして、味付けの決め手は、これ。
私が懐から取り出したのは、岩塩の塊と、いくつかのハーブを混ぜ合わせて作った、特製の乾燥スープの素だ。これも、森でのサバイバル生活の間に作り置きしておいた、私の自信作。
それをぱらぱらと鍋に振り入れると、ふわり、と食欲をそそる、たまらない香りがあたりに立ち込めた。
「わふぅぅぅ……」
私の隣で、フェンがくんくんと鼻を鳴らし、早く食べたい、とでも言うように、そわそわと落ち着かない様子で尻尾をぱたぱたと揺らしている。
「ふふっ、もうちょっとよ、フェン。美味しくなあれ、って、おまじないをかけないとね」
私は木の枝で作った即席のおたまで、鍋の中をゆっくりとかき混ぜる。
青白く光るキノコが、スープの中でゆらゆらと揺れ、幻想的な光を放っている。瑞々しい水草の緑色が、目に鮮やかだ。
やがて、スープにとろみがついてきたところで、火から下ろす。
「はい、お待たせ! 『湿地の迷宮』特製、光るキノコのあったかスープの完成よ!」
私は木を削って作ったお皿に、熱々のスープをたっぷりと同じ量だけ注ぎ分けた。一つは私ので、もう一つは、もちろんフェンのだ。
◇
「ふー、ふー……うん、おいしい!」
一口すすると、ハーブの香りと、キノコから出た優しい出汁の風味が、口いっぱいに広がった。とろりとしたスープが、少しだけ冷えた体にじんわりと染み渡っていく。キノコはぷりぷりとした食感で、水草のシャキシャキ感が、良いアクセントになっている。
「わふっ! わふっ!」
隣では、フェンも夢中になって、ぺろぺろと音を立てながらスープを飲んでいる。その銀色の口元が、スープで少しだけ汚れているのが、なんだか微笑ましい。
「どう? フェン。美味しい?」
「くぅん!」
彼は顔を上げ、満足げに一声鳴くと、ぺろりと私の手の甲を舐めた。その仕草が、最高の賛辞のように感じられた。
私たちは、しばらく無言で、それぞれのスープを味わった。
聞こえてくるのは、ぱちぱちと爆ぜる焚き火の音と、泉の水がこんこんと湧き出る、静かな水音だけ。
薄暗い地下空洞のはずなのに、不思議と、少しも怖いとは思わなかった。光る苔と、スープの中の光るキノコが、私たちの周りを優しく照らしてくれている。
まるで、世界に、私たち二人と、この小さな焚き火だけしか存在しないみたいだった。
(……ああ、なんて、贅沢なんだろう)
スープの温かさが、私の心をゆっくりと解きほぐしていく。
追放される前。公爵令嬢だった頃。
私の食事は、いつも豪華絢爛だった。見たこともないような高級食材が、銀の食器に乗せられて、寸分の狂いもなくテーブルに並べられる。でも、その食事が、美味しいと感じたことは、一度もなかった。
いつも誰かに見られているような気がして、息が詰まりそうだった。淑女として、完璧なテーブルマナーを守らなければならない。一口食べるごとに、ナプキンで口元を押さえなければならない。そんな、窮屈なルールの塊。
味がしなかった。
前世。その時に会社員だった頃も、似たようなものだったかもしれない。
毎日、仕事に追われて、食事はいつも、出来合いのもの。ただ、空腹を満たすためだけの、作業。味なんて、覚えてもいない。
でも、今は違う。
ダンジョンの奥深くで、自分で見つけた食材で、自分の力で作った、温かいスープ。
隣には、世界で一番大切な相棒がいて、『おいしいね』って、顔を見合わせて笑い合える。
これ以上の幸せが、他にあるだろうか。
(ゴールを目指すだけが、冒険じゃないんだ!)
私は、はっきりとそう思った。
ダンジョンの最深部にたどり着くこと。依頼を達成して、報酬を貰うこと。それも、もちろん大事なことだ。マイホームの夢だって、絶対に叶えたい。
でも、本当に大切なのは、そこへたどり着くまでの、一つ一つの道のり。
こうして、綺麗な景色を見つけて、道草をすること。
面白い食材を見つけて、どんな味がするんだろうって、わくわくすること。
失敗したり、遠回りしたり、そういう無駄に見える時間こそが、きっと、何よりもかけがえのない宝物なんだ。
私の冒険は、誰かに評価されるためのものじゃない。
ただ、私とフェンが、『楽しい』って、心から思えるかどうか。
それだけが、唯一のルール。
「……ねえ、フェン」
私は、空になったお皿を膝の上に置くと、隣で満足げに毛づくろいをしている相棒の、もふもふの背中を優しく撫でた。
「マイホーム、絶対に手に入れましょうね。そしたら、今度は庭で、バーベキューをしましょう。もっと大きなお肉を、焼いてあげるわ」
「わふん!」
フェンは、私の言葉を理解したように、力強く一声鳴いた。
私たちは、もう一度、顔を見合わせて、一緒に笑った。
その笑い声は、静かな地下空洞に、優しく吸い込まれていった。
私たちは、その夜、泉のほとりで眠った。
風魔法の結界は、夜通し私たちを優しく守ってくれた。フェンのもふもふの毛皮を布団代わりに、寄り添って眠る夜は、どんな高級なベッドよりも、ずっと暖かくて、安心できた。
夢も見ないほど、深い、穏やかな眠りだった。
◇
翌朝、私たちはすっかり気力も体力も回復して、目を覚ました。
「ん……よく寝たわ……」
私は大きく伸びを一つすると、泉の清らかな水で顔を洗った。ひんやりとした水が、まだ少しだけ眠たい意識を、しゃっきりとさせてくれる。
「フェン、おはよう」
「わふん!」
フェンも、すっかり元気を取り戻した様子で、私の周りを嬉しそうに駆け回っている。
私たちは、残っていたスープで簡単な朝食を済ませると、キャンプの後片付けを手早く済ませた。かまどは崩して元通りにし、ゴミ一つ残さない。来た時よりも美しく、がモットーだ。
「よし、と。じゃあ、そろそろ行こうか」
私は背中の革袋を背負い直すと、この美しい泉に、もう一度だけ目を向けた。
「ありがとう。最高の休憩場所だったわ」
心の中でそう呟き、私はこの場所を後にする。
名残惜しくない、と言えば嘘になる。
でも、冒険はまだ、終わっていない。
「さあ、フェン! 迷宮の主にご挨拶しなくっちゃね!」
私の元気な声に、フェンも待ってましたとばかりに、「わん!」と高らかに吠えた。




