第五十六話:海の平穏を目指して
静寂。
それはこれまでの冒険で経験したどの静寂とも、明らかに異なるものだった。
それは、もっと物悲しく、そしてどこまでも寂しい、命の気配が失われた場所だけが持つ空っぽの沈黙。
私たちの目の前に広がっていたのは、かつては楽園であったであろう海底のドームだった。
天井からは鍾乳石のように不思議な形の岩が無数に垂れ下がり、その間を縫うようにしてどこからか差し込むぼんやりとした光が青いカーテンのようにゆらゆらと揺れている。
そしてそのドームの床一面。
そこはかつては宝石箱をひっくり返したかのように、色とりどりの美しいサンゴ礁で埋め尽くされていたのだろう。その名残が今もあちらこちらに見える。けれどその美しい光景のほとんどは見るも無残に破壊され、ただの白い骸と化していた。
根元から無残にへし折られたサンゴの枝。その表面は生命の輝きを失い、まるで風化した骨のように白く濁っている。かつてこのサンゴの森を住処としていたであろう小さな魚たちの姿はどこにも見えない。ただ破壊されたサンゴの瓦礫の上を、時折名も知らぬ深海の生き物がそろりと影のように通り過ぎていくだけ。
まるで巨大な嵐が通り過ぎた後の荒れ果てた庭園のようだった。
「……ひどい。なんて、悲しい場所なの」
ぽつりとそんな言葉が私の口から漏れた。
その時だった。
破壊されたサンゴの森の中心。
ひときわ大きく積み上がった瓦礫の山が、まるで生きているかのようにゆっくりと、もぞりと動いた。
「……!」
私は咄嗟に黒檀の杖をぎゅっと握りしめた。
私の隣でフェンが「ぐるるるる……!」と低い唸り声を上げ臨戦態勢に入る。
瓦礫の山だと思っていたもの。
それは一つの巨大な黒い物体だった。
傷ついた獣のように静かにその身を横たえていた、この海の主。
私たちの存在にようやく気づいたのだろう。
その物体からゆっくりと一本の巨大な触手が、ぬうと姿を現した。
船のマストほどもある途方もなく巨大な触手。その表面はぬめりとした黒い皮膚で覆われ、無数の吸盤がまるで開いた目玉のようにこちらを睨みつけている。
一本、また一本と闇の中から次々と現れる黒い腕。
やがてその中心部がゆっくりと、その巨体を持ち上げた。
二つの巨大な、巨大な赤い瞳。
それはまるで地の底で燃える二つの篝火のように、不気味な光を放っていた。
クラーケン。
伝説の海の怪物が今、私たちの目の前で完全にその姿を現したのだ。
けれど。
(……怒ってはいない)
私はその圧倒的な存在感を前にしながらも不思議と恐怖は感じていなかった。
その赤い瞳。
そこにあったのは敵意や殺意といった攻撃的な感情ではない。
もっと深い、深い哀しみの気配。
そして自分の体を思うように動かせないもどかしさと、絶え間ない苦痛にただ耐えているかのような、そんな疲弊しきった光だった。
その巨体はよく見るとあちらこちらが傷ついていた。
鋭い岩で裂かれたのであろう深い傷。その傷口からは黒い血のような液体が、だらだらと流れ出している。
彼は暴れているのではなかった。
ただ苦しんでいるのだ。
長年住処としてきたこの美しいサンゴの森が何者かによって破壊され、その瓦礫の下敷きになって身動きが取れなくなってしまっている。
そしてその苦しみから逃れようともがけばもがくほど、周囲のサンゴをさらに破壊し自らの体をさらに傷つけていく。
悪循環。
ソルマーレの港を襲っていたあの巨大な触手は、彼の怒りの表れではなかったのだ。
ただ助けを求める悲痛な叫びだったのだ。
(……これは戦闘ではなくて……救出クエスト?)
私のゲーマー脳がこの状況を瞬時に、そして冷静に分析する。
この傷ついた海の主をどうやって救い出すか。
それこそがこのダンジョンの最後の試練。
私がどう動くべきかと思案していると、クラーケンの赤い瞳が私の方をじっと見つめてきた。
いや、私ではない。
私のさらに奥。
このドームの入り口とは正反対の巨大な岩壁。
その一点を彼はまるで何かを懇願するかのように、見つめていた。
(……あそこ)
私は彼の視線の先を追った。
そこは他の壁とは明らかに様子が違っていた。
巨大な岩が複雑に折り重なるようにして、巨大な『壁』を形成している。
けれどその岩と岩の隙間からごくごく微かに、しかし確実に外の海の力強い潮流が流れ込んできているのが分かった。
そしてその岩壁のあちらこちらに、新しい生々しい亀裂がいくつも走っている。
(……なるほどね。地形変動か)
全ての元凶。
おそらくあの地殻変動によってこの海底洞窟の、どこか別の場所が大規模に崩落したのだろう。
そしてその崩落した岩盤が本来このドームへと流れ込んでいた、豊かで清浄な海流を完全に堰き止めてしまったのだ。
その結果このサンゴの森は生命の源である、新鮮な海水の供給を断たれゆっくりと、しかし確実に死に向かっていった。
クラーケンもまたこの澱んで、死にかけている水の中でもがき苦しんでいたのだ。
謎は全て解けた。
「……フェン」
私は隣でまだ警戒を解いていない相棒に、小さな声でしかし力強く話しかける。
「どうやら戦闘は回避できそうよ。それどころかこの子を助けてあげられるかもしれないわ」
「くぅん?」
フェンが不思議そうな顔で私を見上げる。
「これからちょっとした大掛かりな土木工事を始めるの。あなたはあの主さんがパニックにならないように様子を見ていてちょうだい。でも絶対に近づきすぎてはダメよ。いい?」
「わふん!」
私のいつもの調子が戻ったことに安心したのかフェンは、私の意図を正確に理解したように力強く頷いた。
よし、決まりだ。
「オペレーション『海底リフォーム大作戦』、スタートよ!」
私は高らかにそう宣言すると黒檀の杖を静かに構えた。
作戦は単純明快。
あの巨大な岩の壁を破壊し、再びこのドームに生命の息吹を取り戻す。
けれどただ力任せに爆破するだけではダメだ。
そんなことをすればこのドーム自体が崩落してしまう危険性がある。
もっとスマートに、そして効率的に。
(……こういう時こそ私の出番よね)
私はにやりと笑うとまずはその岩壁へと、ゆっくりと近づいていった。
そしてその表面を杖の先端で軽く叩きながら、内部の構造を慎重に探っていく。
土魔法の応用。
私の魔力が岩盤の内部へと染み込んでいき、その密度や亀裂の走り方をまるでレントゲン写真のように私の頭の中に映し出していく。
(……ここね。この一点が全体の構造を支えているいわゆる『要石』。ここをピンポイントで破壊すれば最小限の力で壁全体を安全に崩落させることができるはずだわ)
私のゲーマー脳が最適な攻略ルートを瞬時に弾き出す。
私はその要石のちょうど中心部分に、杖の先端をそっと触れさせた。
そして風魔法を発動させる。
イメージするのはドリルの刃。
風の魔力を極限まで圧縮し、目には見えない超高速で回転する円錐状の刃へと変える。
『エアロ・ドリル』
杖の先端からきぃぃぃぃぃぃぃん、と金属を削るような甲高い、しかし微かな音が水の中で響き渡った。
硬い岩盤の表面がまるで柔らかな粘土のように、何の抵抗もなく削られていく。
きらきらと光る黒い岩の粉塵が、水中にぱらぱらと舞い落ちていく。
それは気の遠くなるような繊細な作業だった。
少しでも魔力のコントロールを誤れば刃が逸れて、取り返しのつかないことになる。
私の額にじわりと汗が滲む。
けれど不思議と苦ではなかった。
むしろ楽しい。
自分のイメージした通りに物事が進んでいく。
この万能感にも似た感覚がたまらない。
やがて要石のちょうど中心部分。
そこに深さ数メートルほどの綺麗な円形の穴が、ぽっかりと口を開けた。
「よし、第一段階完了ね。次は特製の水中発破よ」
私は冒険用の革袋からいくつかの材料を取り出した。
硝石、硫黄、そして炭。
私はそれらをいつもの黄金比率で丁寧に混ぜ合わせ、真っ黒な粉末を作り上げる。
けれど今回はこれだけでは終わらない。
水中で爆薬の効果を最大限に発揮させるには防水と、そして衝撃を一点に集中させるための特殊な工夫が必要だ。
私はその黒い粉末を土魔法で生成した粘り気の強い粘土で、団子のように何重にも、何重にも丁寧に包み込んでいく。
そしてその粘土団子のちょうど中心に、私の魔力にだけ反応する特殊な起爆用の魔石をそっと埋め込んだ。
最後にその粘土団子全体を水魔法で生成した薄く、しかしダイヤモンドよりも強靭な水の層で完全にコーティングする。
申し分のない水中爆弾の完成だった。
「よし、と。準備完了ね」
私は満足げに一つ頷くとその水中爆弾を、先ほど掘った穴の一番奥深くにそっと押し込んだ。
そしてその穴の入り口をこれまた魔法で生成した、頑丈な岩の蓋でぴたりと塞ぐ。
「フェン、少しだけ大きな音がするわよ。耳を塞いでなさい」
「わん……!」
フェンは心得たとばかりに自分の前足で、器用に耳を覆った。
私はそんな彼の健気な姿にくすりと笑うと、黒檀の杖の先端を岩の蓋へとぴしりと向けた。
最後の仕上げはもちろんこれ。
生活魔法の応用。
私の魔力をレーザー光線のように一点に集中させて、起爆用の魔石へと撃ち込む。
『イグニッション・レイ』
私がまたしても即席で考えた、実にそれっぽい名前の魔法を高らかに唱えた、その時だった。
杖の先端から一瞬だけ眩いほどの赤い閃光が放たれた。
その光が岩の蓋を貫通し、内部の魔石に触れた次の瞬間。
―――ドンッ!
これまでのどの爆発とも明らかに異なる音がした。
空気を殴りつけるような轟音ではない。
もっと硬質でそして内側へと向かうような、凝縮された音。
水中で起こった爆発の衝撃波がごぼんと低い唸りのような音を立てて、私たちの体をぐらりと揺らす。
それと同時に巨大な岩壁全体がびきりと一度だけ大きく揺れた。
「…………」
見た目には大きな変化はない。
失敗したのか?
いや、違う。
びき、びきびきびきびきびきびきびきびきびきびきびきっ!
巨大な岩壁の表面にまるで蜘蛛の巣のように、無数の細かい亀裂が放射状に走り始めたのだ。
そして。
―――ごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごご
まるで巨大なダムが決壊するかのように。
あれだけ頑丈に見えた岩壁が内側からの衝撃で、一気に崩れ落ち始めたのだ。
後に残されたのはぽっかりと口を開けた、巨大なトンネルの入り口。
そしてその向こうから。
―――ばしゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
外の海から新鮮で力強い海流が、濁流となってこのドームの中へと一気に流れ込んできたのだ。
澱んでいた水が押し流されていく。
死んでいた海が再び生命の息吹を取り戻していく。
そのあまりにも壮大でそして美しい光景に、私はしばらく言葉を失って立ち尽くしていた。
「……ふう。少し派手にやりすぎたかしら」
私はぱんと杖についた見えない埃でも払うかのように、軽く手を叩いた。
「わ、わふん……」
私の隣でフェンがぽかんとした顔で、すっかり様変わりしたドームの様子を見つめている。
彼の常識がまた一つ私の手によって、音を立てて破壊された瞬間だった。
新しい海流が流れ込んだことでドーム内は一気に活気を取り戻していた。
どこからともなく小さな魚の群れが現れ始めている。
白く死んでいたサンゴの表面にほんの少しだけ生命の色が戻り始めたように見えた。
そして何より。
ドームの中央で瓦礫の下敷きになって苦しんでいた、あのクラーケン。
新しい海流が彼を押しつぶしていたサンゴの瓦礫を、優しく、しかし力強く洗い流していく。
長い、長い苦しみからようやく解放されたのだ。
彼はゆっくりとその巨大な体を持ち上げた。
そしてその巨大な赤い瞳でじっと私のことを見つめてきた。
その瞳にもう哀しみの気配はない。
そこにあったのは純粋な感謝の気持ちだった。
『……ありがとう、小さき者よ』
声は聞こえなかった。
けれどその言葉は私の頭の中に直接、温かい光となって流れ込んできた。
彼はその巨大な触手の一本をゆっくりと私の目の前に差し出した。
それはもはや恐ろしい武器ではなかった。
ただ感謝を伝えるための優しい手のように見えた。
私は微笑むとその巨大な触手の先端にそっと、自分の手を重ねた。
ぬめりとしたしかしどこか温かい感触。
その瞬間私たちの間に確かな絆が生まれたのを感じた。




