第五十一話:その鍛冶場を攻略せよ!
「―――化学実験?」
私のあまりにも場違いで、そしてあまりにも突拍子もない言葉。
それが伝説の鍛冶炉『龍の心臓』の前に広がる重苦しい沈黙を破った。
最初に反応したのはこの都市の長である棟梁だった。彼の深い皺に覆われた顔が信じられないものを見るかのように、驚愕に大きく見開かれる。
その白く長い髭が驚きでわずかに揺れた。
「か、がく……?じっけん、じゃと……?」
彼の声はわずかに揺れていた。
それは怒りからではない。
ただ純粋に、私の発した耳慣れない単語の意味を理解できずにいる。
そんな困惑の気配。
彼の周りにいた他のドワーフの職人たちも同じだった。
「おい、聞いたかよ、今の……」
「かがく……?何かの呪文か?」
「いや、それにしては響きが間抜けすぎる……」
そんなひそひそとした囁き声があちらこちらから聞こえてくる。
私はそんな彼らの反応を、まるで教師が生徒たちの無知を微笑ましく思うかのようににこやかに眺めていた。
「ええ、もちろん分かっています。この燻ってしまった可哀想な鍛冶炉。わたくしが最高の形で再点火してさしあげると、申し上げたのです」
私はにっこりと花の咲くような微笑みを棟梁に向けた。
そのあまりにも不遜で、そして絶対的な自信に満ちた私の態度。
それが逆に彼らの度肝を抜いたようだった。
誰もが言葉を失い、ただ呆然と私のことを見つめている。
私はそんな彼らに追い打ちをかけるように続けた。
「皆さんのお考えはよく分かります。この炉を蝕むススは物理的な力では決して取り除くことはできない。あなた方がその最高の技術と道具をもってしても傷一つつけられなかったのですから」
私の言葉にドワーフたちの顔に、悔しさと無力感の気配が再び濃く浮かんだ。
「ですが、それはあなた方のアプローチが間違っていただけのこと。硬いものにはもっと硬いものをぶつける。それは確かに鍛冶の基本でしょう。けれどこのススはもはや、ただの燃えカスではございません」
私は一歩前に出ると、黒く煤けた炉の壁にそっと指先で触れてみた。
ひんやりとしたざらりとした感触。
長年の燃焼で金属とこの山に満ちる膨大な魔力が結合してできた、特殊な物質。
それはもはや生物の垢のように、炉の内壁に頑固にこびりついていた。
「これは病気のようなものです。病を力任せに殴りつけても治りはしませんでしょう?必要なのはその病の根源を、内側から分解してしまう『薬』です」
「……薬、じゃと?」
棟梁が訝しげにその剛毛に覆われた眉を動かした。
「そうだ。そしてその薬を作るための技術が『化学』。わたくしの故郷ではそう呼ばれていました」
もちろん大嘘である。
けれどこの世界の常識しか知らない彼らに、前世の科学知識を一から十まで説明したところで理解できるはずもない。
魔法に似た何か新しい技術。
そう思わせておいた方が話が早い。
「……面白い。面白いことを言う小娘だ」
ぽつりと棟梁はそう呟いた。
その瞳の奥で消えかけていたはずの、職人としての好奇心の炎がほんの少しだけぱちりと音を立てて再び燃え上がっている。
いや、彼は藁にもすがりたかったのかもしれない。
この都市の心臓がゆっくりと死に向かっていくのを、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった絶望的な状況。
そこに現れた得体の知れない、しかし絶対的な自信に満ちた一人の少女。
そのあまりにも突拍子もない提案に、彼は最後の希望を賭けてみたくなったのだろう。
「……よかろう」
やがて彼は重々しくそう言った。
「お主の言う『かがく』とやら、このわしに見せてみよ。もしお主がこの『龍の心臓』を再び蘇らせることができたなら。その時はお主の望み、何でも聞こう。このヴァルヘイムの全ての技術と全ての道具を、お主に授けることをこのわしが約束する」
その言葉に周りのドワーフたちがどよめいた。
「と、棟梁!本気ですかい!?」
「こんな、人間の小娘の戯言を信じるというのですか!」
「黙れ!」
棟梁の腹の底から響くような一喝が、全ての反対意見をぴしゃりと黙らせた。
「……じゃが、もしお主が失敗した時は。その時はこのヴァルヘイムから、二度とわしらの前にその顔を見せるでない。分かったな」
その言葉は静かだった。
けれどその静けさの中にこの都市の長としての、絶対的な覚悟がこもっていた。
「ええ、もちろん。その約束、このわたくしの全てを賭けてお受けいたします」
私はにっこりと花の咲くような微笑みを彼に向けた。
こうして私の、そしてこのヴァルヘイムの未来を賭けた壮大な賭けが成立した。
さて、と。それでは早速、始めさせていただきますわね。
私は腕まくりをすると、まずはこの病にかかった巨大な心臓の『応急処置』から取り掛かることにした。
ひどく弱々しく、そして不健康な赤黒い色に淀んでいる炉心の炎。
このままではいつ消えてしまってもおかしくない。
私の計画を実行するには、まずこの炎を一時的にでも安定させる必要があった。
「棟梁、そして皆さん。少しだけ熱くなりますから、下がっていてくださいね」
私がそう言うと、ドワーフたちはまだ半信半疑ながらも、ためらうように後ずさった。
私は一人巨大な炉の前に進み出る。
そしてすうと大きく息を吸い込んだ。
体の中に眠る、あの圧倒的な力をゆっくりと呼び覚ます。
『炎の加護』
あの『灼熱の火山』で古龍から授かった、炎そのものを自らの手足のように操る力。
私の体の中からふわりとオレンジ色のオーラが立ち上り始めた。その光はまるで真夏の太陽のように熱く、そしてどこまでも力強い。
私の瞳が燃えるような金色にきらりと輝いた。
「わふぅ……」
少し離れた場所で私のことを見守っていたフェンが、そのただならぬ魔力の気配に感嘆のため息を漏らしているのが聞こえた。
私はその『炎の加護』の力を、黒檀の杖の先端に極限まで集中させる。
そしてその杖を燻る炉心へとぴしりと向けた。
ただ炎を叩きつけるだけじゃない。
この弱々しい炎と私の炎を『同調』させるのだ。
まるで熟練の音楽家がオーケストラの指揮をするように。
私がこの炎の新しい指揮者となる。
「―――『ドラゴン・ソウル』!」
私がまたしても即席で考えた、実にそれっぽい名前の魔法を高らかに唱えると、杖の先端からごおおおおおおおおっ、と本物の竜の息吹にも匹敵するほどの純粋で清浄な黄金色の炎の奔流がほとばしり出た。
その炎は炉心でか細く揺らめいていた赤黒い炎を、優しく、そして力強く包み込んでいく。
するとどうだろう。
まるで瀕死の病人が特効薬を投与されたかのように。
炉心の炎がみるみるうちにその元気を取り戻し始めたのだ。
弱々しかった燃焼音は次第に力強さを増し、淀んでいた炎の色も鮮やかなオレンジ色へとその姿を変えていく。
「お、おい、見ろよ……!」
「炉の火が……!炉の火が、蘇っていくぞ……!」
ドワーフたちから驚愕の声が上がる。
彼らの目にはこの光景が、まるで奇跡のように映ったことだろう。
けれどこれはまだ始まりに過ぎない。
あくまで応急処置。
この炉を本当の意味で蘇らせるには、もっと根本的な手術が必要なのだ。
さて、と。これでしばらくは持つでしょう。
私は満足げに一つ頷くと杖を下ろした。
炉心の炎はまだ完全ではないものの、先ほどのいつ消えてもおかしくないような状態からは脱している。
私の常人離れした炎の操作術を目の当たりにして、ドワーフたちの私を見る目が明らかに変わっていた。
先ほどまでの侮蔑や嘲笑の気配は完全に消え去っていた。
そこにあるのは畏怖と、そしてほんの少しの期待。
「棟梁。ここからが本当の『化学実験』です。あなた方のその素晴らしい腕を、少しだけお借りしてもよろしいでしょうか?」
私の問いに棟梁はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがてはっと我に返った。
「……ああ。ああ、もちろんだ。何でも言え。わしらにできることなら、何でも協力しよう」
その声はまだ驚きで揺れていた。
けれどそこには確かな職人としての、熱い意志が再び灯っていた。
よし、交渉成立だ。
私はにやりと笑うと懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
それは私がこの冒険の前のこと。
本来、自らの装備作成のために、我が家の書斎で地道に書き上げていた、一枚の設計図だった。
「まず、これを『龍の心臓』のサイズに合わせて、作っていただきたいのです」
私が広げた設計図を棟梁とその周りの職人たちが、食い入るように覗き込む。
そこに描かれていたのは彼らがこれまでの人生で、一度も見たことのないような風変わりな、しかしどこまでも合理的な一つの巨大な『装置』の図面だった。
「……な、なんだ、これは……?」
「炉の、空気を取り込むための管……か?じゃが、この形……。こんな複雑な構造、見たこともないぞ……」
製鉄所で使われる『高炉』と呼ばれる巨大な装置。
その簡易的な構造図。
この『龍の心臓』が本来の力を失った最大の原因。それは空気の流入効率の悪さだ。ならばその部分を抜本的に改善してやればいい。
熱した空気を効率よく炉心へと送り込み、燃焼効率を極限まで高めるための全く新しい送風システム。
「この設計図通りに部品を作っていただけますか?素材は普通の鉄で構いません。細かい加工はわたくしが魔法でお手伝いしますから」
私のあまりにも突拍子もない提案に、ドワーフたちはしばらく顔を見合わせていた。
けれど棟梁はすぐに決断を下した。
「……分かった。やろう。お主の言う『かがく』とやら、とことんまで付き合ってやる」
その一言を皮切りに伝説の工房都市は、再びその本来の活気を取り戻した。
ドワーフの職人たちが私の設計図を元に、次々と見たこともないような形の部品を打ち出していく。
私もその作業に加わった。
彼らが力任せに叩いて成形するのを、私は風魔法で精密に冷却しその強度を高めていく。
土魔法で巨大な部品を、まるで羽のように軽々と持ち上げあるべき場所へと運んでいく。
それはもはやただの鍛冶作業ではなかった。
ドワーフの伝統的な技術と、私の常識外れの魔法。
その二つが見事に融合した、一つの巨大な協力作業。
創造だった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
私たちは食事も睡眠も忘れて夢中で作業に没頭した。
そしてついに。
その風変わりで巨大な装置は完成した。
伝説の鍛冶炉『龍の心臓』に、まるで巨大な血管が新たに接続されたかのように。
全く新しい送風システムがその威容を現したのだ。
「……ふう。これで第二段階は完了ね」
私は額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
周りではドワーフの職人たちが、自分たちの手で作り上げたその異様な装置を信じられないといった顔で見上げている。
けれどまだ終わりではない。
ここからが最後の、そして最も重要な仕上げだ。
「皆さん、もう少しだけお付き合いください。これからこの炉を、本当の意味で蘇らせますから」
私はにやりと笑うと再び炉の前に立った。
そしてこのヴァルヘイムの山から、私が『元素分離』の魔法で特別に抽出しておいたいくつかの粉末を、炉の中へと投入していく。
石灰石から取り出した炭酸カルシウム。
それといくつかの特殊な触媒。
これらが炉の中で、あの頑固なススと化学反応を起こし、それをどろりとしたスラグと呼ばれる液体状の物質へと変えてくれるはずだ。
そしてそのスラグを新しく設置した排出口から、外へと排出すれば。
「……棟梁。最後の仕上げはあなたにお願いします」
私は隣で固唾を飲んで私の作業を見守っていた棟梁に、そう言った。
「新しい送風システムの最初の火入れ。この都市の長であるあなたの手で、行ってください」
私の言葉に彼はごくりと一度大きく唾を飲み込んだ。
そして震える手で代々、この都市の棟梁にだけ受け継がれてきたという特別な火打ち石を受け取った。
彼の顔には期待と不安と、そして長年この都市を率いてきた者としての誇りが複雑に入り混じっていた。
彼はゆっくりと炉の点火口へと近づいていく。
都市の全てのドワーフたちが息を詰めて、その瞬間を見守っている。
―――カチッ!
甲高い硬質な音。
火打ち石から小さな、小さな火花が散った。
その火花が炉心に溜まった可燃性のガスに引火した、その瞬間。
―――ごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!
もはや音というよりも衝撃波だった。
伝説の鍛冶炉『龍の心臓』が、長い、長い眠りからついに目を覚ました。
新しく設置された送風システムが、凄まじい勢いで熱せられた空気を炉心へと送り込む。
炉はまるで飢えた竜が獲物に食らいつくかのように、その空気を貪欲に吸い込んでいく。
そしてその炎の色がみるみるうちに変わっていった。
赤黒く淀んでいた炎が鮮やかなオレンジ色へ。
そして黄金色へ。
最後には目も眩むほどの白に近い、清浄でどこまでも美しい青白い炎へと。
力強い安定した燃焼音。
それはもはや苦しげな咳ではない。
この都市の心臓が再び力強く、脈打ち始めたその鼓動の音だった。
都市全体がその振動でわずかに揺れた。
建物の外で作業をしていた他のドワーフたちからも、「お、おい、見ろよ!」「『龍の心臓』の煙突から……!」「煙の色が違う……!白い、清浄な煙だ……!」という驚愕の声が聞こえてくる。
炉の前にいた私たちはただ言葉もなく、そのあまりにも神々しい復活の光景に心を奪われて立ち尽くしていた。
やがて棟梁がゆっくりとこちらを振り返った。
その深い皺に刻まれた顔は驚愕と信じられないという純粋な喜びとで、ぐしゃぐしゃになっていた。
その瞳からぼろり、ぼろりと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「……蘇った」
ぽつりと彼は絞り出すような声でそう呟いた。
「『龍の心臓』が……。わしらの魂が……。蘇ったぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
魂からの雄叫び。
それが合図だった。
彼の周りにいた全てのドワーフたちが、我を忘れて歓喜の声を上げた。
屈強な職人たちが互いの肩をがしりと叩き合い、子供のように声を上げて泣き、この奇跡の復活を心の底から喜び合っていた。その熱気は燃え盛る炉の熱量にも勝るとも劣らないほど、熱く、そしてどこまでも純粋だった。
(……ふう。まあ、大成功といったところかしらね)
私はその歓喜の渦の中心で一人、やれやれと肩をすくめていた。
私の前世のうろ覚えの科学知識と、この世界で軽んじられていた生活魔法。その二つが組み合わさった時、この世界の誰もが想像すらしなかったとんでもない奇跡が起こる。
その事実をまた一つ証明してしまった。
少しだけくすぐったいような、誇らしいような、そんな不思議な気持ち。
私の足元でフェンが「わふん」と誇らしげに一声鳴いた。彼もまたこの壮大なプロジェクトの一部始終を見届け、自分のことのように満足しているようだった。その大きな黒い瞳が「さすがだぜ、主!」と雄弁に物語っている。
「ええ、あなたのサポートのおかげよ、フェン。ありがとう」
私は最高の相棒の頭をくしゃりと掻き回してやった。




