第四十九話:ドワーフの都へ
一夜にして我が家の庭に誕生した私だけの工房。
それはこれから始まる新たな創造の物語のための、まだ何も書かれていない真っ白なページそのものだった。
朝日が工房の真新しい窓ガラスに反射して、きらりとまぶしい光を投げかけている。その光景を眺めながら、私は淹れたてのハーブティーを一口すすった。
鼻腔をくすぐる爽やかな香りが、まだ少しだけ眠たい頭をしゃっきりとさせてくれる。
「わふん」
私の足元で、最高の相棒がくんくんと鼻を鳴らした。彼の大きな黒い瞳が、私の手元にあるハーブティーのカップと私の顔を交互に見つめている。
「あら、あなたも欲しいの?これはあなたには少し苦すぎるわよ」
私がくすりと笑いながらそう言うと、彼は「ちぇっ」とでも言いたげにふいと顔をそむけた。その様子がたまらなく愛おしくて、私は彼の頭をわしゃわしゃと掻き回してやる。
平穏な休日。
けれど私の心の中はもはや、その平穏とは正反対の燃え盛る炉のような熱い衝動で満ち溢れていた。
『ミスリル銀の鍛造法』と『龍炎石』。
最高の理論と最高の素材。
これらが揃って、何もしないでいられるわけがない。
ゲーマーが最高難易度のクエストと、最強装備の素材を手に入れてそれを放置しておくなんてありえないのと同じ理屈だ。
「よし!フェン、行きましょうか!私たちの新しい遊び場へ!」
私の声に、それまで少しだけ不貞腐れていたフェンがぴょこんとその銀色の耳を立てた。
彼は私の瞳の中に、これから始まる新しい『お楽しみ』の気配を敏感に感じ取ったのだろう。そのふさふさの尻尾が期待に満ちてぶんぶんと揺れ始めた。
私たちは朝食もそこそこに、真新しい工房の扉を開けた。
中はまだがらんとしている。石とレンガで作られた頑丈な壁、高い天井、そして私が昨夜のうちに魔法でこしらえた大きな作業台と、いくつかの棚があるだけ。
けれどこの何もない空間が、これから私の夢と創造で満たされていくのだと思うと、心が躍った。
「さて、と。まずは小手調べと行きましょうか」
私は書斎から大切に運び出してきた、あの古びた本を作業台の上に広げた。
『ミスリル銀の鍛造法』。
そのページをめくる指がある項目でぴたりと止まる。
「『ドワーフ鋼の精錬法』……ふむふむ。ミスリル銀を作る前に、まずは基礎となるこの特殊な鋼を安定して生産できるようにならなければいけない、と。なるほどね。中間素材ってやつか。面白いじゃない」
私は腕まくりをすると、工房の隅に置いておいたフロンティアの市場で手に入るありふれた鉄鉱石の塊を、作業台の上にごろりと置いた。
本の記述によれば、この鉄鉱石から不純物を極限まで取り除き、そこに微量の魔力を帯びた炭素を混ぜ込むことで、普通の鋼鉄とは比較にならないほどの強度と靭性を持つ『ドワーフ鋼』が生まれるのだという。
「……要するに、これも私の得意分野ってことね」
私はにやりと笑うと、その鉄鉱石に黒檀の杖をそっと触れさせた。
土魔法の応用、『元素分離』。
この鉄鉱石の中から純粋な鉄の成分だけを丁寧により分けていく。
ごごご、と。
鉄鉱石が内側から細かく振動を始め、やがてさらさらとした砂鉄のような状態に変わっていく。
そしてその中から、きらきらと光る銀色の金属の粒子だけが、まるで目には見えない磁力にでも引き寄せられるかのようにふわりと宙に浮かび上がった。
「よし、第一段階はクリアね。次は、この子たちの出番よ」
私は工房の隅に積んでおいた、ただの薪を一本手に取った。
そしてその薪に、今度は『炎の加護』の力を注ぎ込む。私の手の中で薪がぼうっと赤い光を放ち、あっという間に真っ黒な炭の塊へと姿を変えた。ただの炭ではない。古龍の炎の魔力をたっぷりと吸い込んだ、特別な炭素の塊。
私はその炭を『元素分離』でさらに純度を高め、先ほど宙に浮かべた鉄の粒子と絶妙な比率で混ぜ合わせていく。
そして最後の仕上げ。
それらを超高温で一気に溶解させ、一つのインゴットへと鋳造する。
そのための炉が必要だった。
「まあ、これも自作するしかないか」
私は工房の隅の耐火レンガで囲まれた一角に、再び杖を向けた。
土魔法で簡易的な溶解炉をその場に作り上げる。そしてその炉心に向かって、『炎の加護』の力を解放した。
「『ドラゴン・ブレス』!」
私がまたしても即席で考えた、実にそれっぽい名前の魔法を高らかに唱えると、杖の先端からごおおおおおおおおっ、と本物の竜の息吹にも匹敵するほどの灼熱の炎の奔流がほとばしり出た。
炉の中の温度が一瞬にして数千度にまで跳ね上がる。
私は宙に浮かべていた混合物を、その灼熱の炉の中へとそっと投入した。
じゅわっ、と。
金属が一瞬にして溶け、混じり合い、真っ赤な液体となって炉の底に溜まっていく。
それをあらかじめ用意しておいた鋳型に流し込み、水魔法で急速に冷却する。
きぃん、と。
金属が冷えて固まる甲高い音がした。
鋳型から取り出したそれはまだ熱を帯びて、陽炎のように空気を揺らめかせている。
けれどその色はもはや、ただの鉄の色ではなかった。
黒鉄。
光を吸い込むかのような、深く、そしてどこまでも美しい漆黒の金属の塊。
「……できた。これが、『ドワーフ鋼』……!」
私は完成したインゴットを、やっとこで掴み作業台の上に置いた。
その表面は磨き上げられた黒曜石のようにつるりとしていて、尋常でない硬度を物語っている。
試しにフロンティアの市場で一番硬いと評判だった鋼鉄のハンマーで、その表面を軽く叩いてみた。
かんっ、と。
甲高い音がして、ハンマーの方が、あっけなく砕け散った。
ドワーフ鋼のインゴットには傷一つついていない。
「……ふふっ。ふふふふふっ」
笑いがこらえきれずに口からあふれ出てくる。
すごい。すごすぎる。
これならいける。
この鋼を元にすれば、ミスリル銀だってきっと作れる。
けれど。
「……でも、これじゃあ宝の持ち腐れじゃない」
ぽつりと、私の口からそんな不満の声が漏れた。
最高の素材は作れた。
最高の理論もここにある。
でも、今の私には、それらを最高の形で活かすための『最高の道具』がない。
このドワーフ鋼を自在に加工するための、ハンマーも金床もヤスリも、何一つ持っていない。
フロンティアの街の鍛冶屋にあるようなありふれた道具では、この伝説級の素材に傷一つつけられないだろう。
(……ないなら作るしかないのよね。でも、その道具を作るための道具がないじゃない。これじゃあ、卵が先か、鶏が先か、ということよね)
私はうーんと腕を組んで、作業台の上に鎮座する美しい黒鉄のインゴットを睨みつけた。
もどかしい状況。
最高のレシピと素材を前にして、調理器具がないという絶望。
私のせっかく燃え上がっていた創造の炎が、しゅるしゅると勢いを失いかけていた、その時だった。
「わふん?」
私の足元で一部始終を興味深そうに眺めていたフェンが、不思議そうな顔で私のことを見上げてきた。そしてくんくんと鼻を鳴らすと、私のズボンの裾をぐいと軽く引っ張った。
「ん?どうしたの、フェン」
彼は『こっちだ』とでも言うように、工房の入り口の方へと私を促す。
そしてギルドのある、街の方角をじっと見つめて、もう一度「わんっ!」と短く鳴いた。
「……ギルド?ギルドに何かあるって言うの?」
私の問いに彼はこくりと力強く頷いてみせた。
(……まさか)
私の頭の中で、何かがぱちんと繋がった。
そうだ。
それがどこにあるのか。
情報が必要だ。
そして、この世界のありとあらゆる情報が集まる場所。
私にはそれを利用できる最高のコネがあるじゃないか。
「……さすが、私の最高の相棒ね!」
私はフェンの頭を力いっぱい掻き回した。
「よし、決まりね!フェン、行きましょう!今すぐ、ギルドへ!」
私はもう、いつもの調子を取り戻していた。
きっとギルドで聞けば、何かが分かるはずだ。
◇
ぎぃ、と。
すっかり聞き慣れた音を立てて冒険者ギルドの重い扉を押し開ける。
昼下がりのギルドはいつものように、冒険者たちの熱気で満ちていた。
「あら、アリアさん!いらっしゃい!」
カウンターの向こうからいつもの快活な声が飛んできた。受付嬢さんが満面の笑みでぱたぱたとこちらに手を振っている。
「こんにちは。少しお尋ねしたいことがありまして」
私がそう言うと、彼女は「はい、何でしょう?」と、にこやかに小首を傾げた。
「この国で一番腕の立つ鍛冶職人がいる場所。どこかご存知ないかしら?」
私のあまりにも突拍子もない質問に、彼女は一瞬だけきょとんとした顔になった。けれどすぐに何かを察したようにぽんと手を打った。
「それでしたら、ギルドマスターが一番お詳しいかと!マスターは若い頃、ドワーフの王国で修行されていたこともあると聞いていますから!」
「まあ、そうなの!?」
それは初耳だった。
渡りに船とはまさにこのこと。
私たちは早速、ギルドの奥にある執務室の扉を叩いた。
「おお、アリア殿!どうなされた、そんなに慌てて」
中から現れたギルドマスターは、私の姿を見ると少しだけ驚いたように、しかしどこか嬉しそうにその大きな顔をくしゃりとさせた。
「マスター、単刀直入にお伺いします。この国で最高の鍛冶道具と、その技術が集まる場所。それを教えてください」
私の真剣な眼差しに彼はごくりと喉を鳴らした。そして何かを懐かしむように遠い目をした。
「……ヴァルヘイム、じゃな」
ぽつりと彼はその名前を呟いた。
「ヴァルヘイム?」
「うむ。大陸の背骨と呼ばれる巨大な山脈のさらに奥深く。外部の者にはその存在すらほとんど知られておらん、伝説の職人たちが住まうドワーフの工房都市じゃ」
伝説の工房都市。
その響きだけで私の心はどくんと大きく脈打った。
「そこには、この世界のありとあらゆる金属を知り尽くした職人たちが集まっておる。彼らが使う道具はどれも国宝級の一品。その技術は神の御業とさえ謳われておるほどじゃ」
「……そこへ、行きたいのです」
私のあまりにもまっすぐな言葉に、ギルドマスターはふうと一つ深いため息をついた。
「……まあ、君ならそう言うじゃろうと思ったわい。じゃが、アリア殿。その道は決して平坦ではないぞ」
彼の顔が険しいものに変わる。
「ヴァルヘイムは強力な結界に守られ、その場所を知る者もほとんどおらん。何よりドワーフたちは、よそ者を極端に嫌う頑固で気難しい連中じゃ。たとえ、たどり着けたとしても門前払いを食らうのが関の山じゃろう」
「結構です」
私はきっぱりと言い切った。
「その頑固なドワーフたちを、どうやって懐柔するか。それも含めて、私の『冒険』ですから」
私のあまりにも不遜なまでの自信に、ギルドマスターは一瞬だけ呆気にとられたようだった。
けれどすぐに腹の底から楽しそうに、がははははははっ、と豪快に笑い出した。
「……違いないわい!まあ、君ならあるいは、あの石頭どもをどうにかしてしまうかもしれんな!」
彼は執務室の奥にある鍵のかかった棚から、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
「これは、わしが若い頃ヴァルヘイムで修行した際にこっそりと書き写しておいた、都への地図じゃ。これがあれば少なくとも入り口まではたどり着けるじゃろう。……持っていくがよい」
手渡された地図には複雑な山脈の地形と、そこに隠された道筋が細かく描き込まれている。
最高の宝の地図。
私はその地図を落とさないように壊さないように、大切に革袋にしまった。
「……ありがとうございます、マスター。このご恩は一生忘れません」
「礼には及ばん。その代わり、最高の土産話を期待しておるぞ」
彼の温かい言葉に私は深々と頭を下げた。
こうして私の次なる冒険の舞台は、あっけないほど簡単に決まった。
最高の道具と最高の技術を求めて。
伝説のドワーフの都、ヴァルヘイムへ。
私はギルドを後にすると、一度愛しの我が家へと戻った。
そして最低限の旅支度を整える。特製の回復薬、保存食、そしてあの黒檀の杖。
玄関の扉を閉める直前、私はがらんとした、しかし温かい我が家をもう一度だけ振り返った。
「少しだけ、留守にします。最高の道具を手に入れて、最高の装備を作って、必ずここに帰ってくるから」
誰に言うでもなくそっと呟く。
私の隣で、フェンが「わふん」と力強く一声鳴いた。
私たちは顔を見合わせると、どちらからともなく一緒に笑った。
さあ、行こう。
私たちの新しい冒険へ。
フロンティアの街の門をくぐり、私たちは北の山脈地帯を目指して歩き始めた。
道行く人々が私たちの姿を見つけると、親しげに手を振ってくれる。
「おお、英雄様!またどこかへ、冒険かい!」
「気をつけてなー!」
その温かい声援に、私はにこやかに手を振りながら応えた。




