第四十六話:二人の聖女
約束の日。
フロンティアの街は、まるで年に一度の収穫祭が前倒しでやってきたかのように、そわそわとした不思議な熱気に満ちていた。普段ならパンの焼ける香ばしい匂いや、鍛冶場の槌の音が響く中央広場は、今日ばかりはその主役を完全に奪われている。広場を埋め尽くしているのは、人、人、人の波。この街の全住民が仕事を放り出してここに集結したのではないかと思うほどの、途方もない数の人だかりだった。
子供たちは、これから始まる珍しい見世物に目をきらきらさせ、大人たちは息を詰めて、これから起こるであろう出来事の行く末を見守っている。その空気は、期待と不安がせめぎ合うような、独特の緊張感があった。
(……やれやれ。大げさなことになったものね)
私は、その人だかりから少し離れた、壇上の脇に設けられた待機場所の椅子に腰掛け、眼下に広がる光景をぼんやりと眺めていた。私の足元では、フェンが「なんだなんだ?」とでも言いたげに、そわそわと落ち着かない様子で尻尾をぱたぱたと揺らしている。
『聖女対決』
リアナが、実に彼女らしいやり方で言い放った、この公開処刑のような茶番。その噂はあっという間に街中に知れ渡り、今日という日を一大イベントへと仕立て上げたようだ。
「アリアさん、準備はよろしいですか?」
背後から、心配そうな声がかけられた。振り返ると、そこにはいつもの快活な笑顔を不安そうに曇らせた受付嬢さんが立っている。
「ええ、もちろん。私の準備は、三日前からとっくに整っていますわ」
私は、足元に置いていたずしりと重い柳の籠を、片手でひょいと持ち上げてみせた。籠の中には、私がこの三日間、心血を注いで作り上げた翠色と青色に輝く小さな小瓶が、ぎっしりと詰め込まれている。その一本一本が、私の知識と魔法、そして最高の相棒との連携が生み出した、奇跡の結晶だ。
「……本当に、大丈夫なのでしょうか。リアナ様は王都でも指折りの治癒魔法の使い手だと聞いています。その力は、まさしく本物の奇跡だと……」
「奇跡、ですか。ふふっ、結構なことじゃありませんか」
私は、悪戯っぽく笑ってみせた。
「だったら、見せて差し上げましょう。私の奇跡は、あなたのそれとは少しばかり種類が違うものなのですよ、とね」
私の、あまりにも自信に満ちた不遜なまでの物言いに、受付嬢さんは一瞬だけきょとんとした顔をしていたけれど、やがてその口元にふっと花が咲くような笑みを浮かべた。
「……そうですね。私としたことが、少し野暮なことを聞いてしまいました。アリアさんは、いつだって私たちの想像を遥かに超えていく方でしたものね」
「分かっていただけて、嬉しいですわ」
彼女の温かい信頼が、私の心を温かくしてくれた。
ごうん、と。
広場に設置された、街の時を告げる鐘が重々しく鳴り響く。
正午の鐘。
対決の、始まりの合図だった。
◇
広場の中央に作られた壇上に、今日のもう一人の主役がその姿を現した。
桜色のふわふわとした髪は、高価な宝石をあしらった髪飾りで丁寧に結い上げられている。純白の絹のドレスは彼女のか細い体を儚げに見せ、その裾は風を受けてさざ波のように優雅に広がっていた。大きな瞳には慈愛と少しの悲しみをたたえて。その唇は、これからこの街の民に与えるであろう救いの言葉を紡ぐために固く結ばれていた。
どこから見ても非の打ち所がない。
誰がどう見ても、慈悲深き『聖女』そのもの。
彼女の周りには、王都から連れてきたのであろう、銀色に輝くプレートメイルに身を固めた近衛の騎士たちが物々しく控えている。その光景は、一枚の宗教画のように荘厳で、そしてどこまでも計算し尽くされていた。
壇上の脇には、今日の『患者』となる元兵士たちが十数人ほど、緊張した面持ちで座っている。彼らは皆、あのスタンピードの戦いでオークが手にしていた、呪いが込められた武器によって傷を負った者たちだ。命に別状はなかったものの、その呪いは根深く、今も時折体に痺れや痛みが走るのだという。その顔は、後遺症のせいで青白く生気がない。
広場を埋め尽くした観衆が、息を詰めて壇上を見守っている。
やがて、リアナの隣に控えていた騎士の一人が一歩前に出ると、魔法で増幅されたよく通る声で高らかに宣言した。
「これより、リアナ聖女様による、慈悲深き治癒の儀を執り行う!皆の者、その目と心に、聖女様の起こされる真実の奇跡をしかと焼き付けるがよい!」
その、芝居がかった口調と共に、リアナがゆっくりと兵士たちの方へと歩みを進めた。
彼女は、一番手前に座っていた、一番症状の重そうな青年の前にそっと膝をつくと、その両手を彼の傷ついた腕に優しく重ねた。
「……可哀想に。どれほど、お辛かったことでしょう。でも、もう大丈夫。わたくしが、あなたをその苦しみから解放してさしあげます」
その声は、まるで聖母のごとくどこまでも優しく、そして甘く聞こえる。
彼女が、目を閉じ、祈るように何かを呟き始めた、その時だった。
ぱあああああああっ!
リアナの体全体から、まばゆいばかりの、しかし目に優しい温かい黄金色の光が放たれた。
その光は、広場全体を、まるで真昼の太陽がもう一つ現れたかのようにさんさんと照らし出す。
「おお……!」
「なんて、神々しい光なんだ……!」
「さすがは、王都の聖女様だ……!」
集まった人々から、感嘆と畏敬のこもった声があちらこちらから上がり始める。
見事な演出だ。
これを見せつけられれば、誰もが彼女の力を本物の奇跡だと信じて疑わないに違いない。
黄金色の光は、リアナの手を通して青年の体の中へとゆっくりと、しかし確実に注ぎ込まれていく。
青年の、苦痛に満ちた顔が少しずつ穏やかなものへと変わっていくのが、遠目からでも分かった。
「……すごい。本当に、痛みが引いていく……」
青年が、信じられない、といった様子でそう呟いた。
その言葉に、観衆の興奮はさらに高まっていく。
リアナの額には玉のような汗がびっしりと浮かんでいた。治癒魔法は、相当な集中力と魔力を消耗するのだろう。
けれど、その苦しげな表情さえも、彼女は民のために身を粉にして尽くす、献身的な聖女の姿として見事に演じきっていた。
(……ふうん。なるほどね。見栄えはいいけど、効率が悪い上に根本治療になっていないわ。ゲームで言うところの、対症療法ってやつね)
私の、前世のゲーム知識とこの世界で培った魔法理論が、彼女の魔法の欠点を瞬時に見抜く。
一人の患者を治療するのに、数分。これでは、十数人いる兵士たち全員を癒すにはかなりの時間がかかるだろう。
そして何より。
彼女の光は、呪いを完全に消し去ることができていない。
青年の顔色は、確かに良くなった。けれど、その腕にまとわりつくように残っていた、黒くもやのような呪いの気配。それが、完全には消えきっていないのを私の目ははっきりと見抜いていた。
痛みを和らげ、一時的に症状を抑えることはできても、呪いの根源を断ち切るには彼女の力はまだ足りていないのだ。
やがて、リアナはぜえ、はあ、と荒い息をつきながら治療を終えた。
彼女は、ふらつく足取りで立ち上がると、観衆に向かって儚げに微笑んでみせた。
「……皆の者、ご覧いただけましたか。これが、神より授かりしわたくしの力。聖女の奇跡です」
その言葉に、観衆の一部から割れんばかりの拍手が送られる。
けれど、その拍手はすぐに小さくなっていった。
なぜなら。
「……聖女様、ありがてえ。でも、まだ体の奥がずきずきと痛むんだ……」
「俺もだ……。痺れは、前よりマシになったが……」
そんな、小さな、しかし確かな不満の声が、治療を受けた兵士たちからあちらこちらから聞こえ始めていたからだ。
誰もが、気づき始めていたのだ。
彼女の治療が、完全ではなかったことに。
その声に、リアナの聖女の微笑みがぴしりと一瞬だけ凍りついた。
広場の空気に、気まずい沈黙が重く漂い始めた、その時だった。
「―――素晴らしい奇跡でしたわ、リアナ。さすがは、王都の聖女様ですね」
場違いなほど明るく、どこか楽しんでいるような私の声。
それは、この重苦しい空気を打ち破るのに十分すぎるほどの威力を持っていた。
それまで、壇上の脇でダンマリを決め込んでいた私。
その登場に、広場中の視線が、まるで申し合わせたように一斉に私へと向けられた。
◇
私は、柳の籠を片手に、ゆっくりと壇上の中央へと歩みを進めた。
私が一歩歩を進めるごとに、観衆のざわめきがさざ波のように広がっていくのが分かった。
「お、おい、見ろよ……」
「アリア様だ……!」
「一体、何を始めるつもりなんだ……?」
リアナの、あの神々しいまでの光のパフォーマンスの後だ。
私の、何の変哲もないただの革鎧姿と、手にしたただの柳の籠。
そのあまりの地味さは、観衆の目にひどく滑稽に映ったことだろう。
案の定、リアナの隣に控えていた騎士の一人が私の前に立ちはだかると、侮蔑を隠さない声で言い放った。
「なんだ、貴様は。聖女様の神聖な儀式の後だぞ。その薄汚い籠を手に、なれなれしく壇上へ上がるでない!」
「まあ、落ち着きなさいな、騎士様。私もこの街の冒険者の一人。苦しんでいる仲間を助けたいと思うのは、当然のことでしょう?」
私が、悪戯っぽく笑いながらそう言うと、騎士は「ふん、冒険者風情が」と不快そうに顔をしかめた。
そのやり取りを、リアナが静かに、しかし鋭い視線で見つめている。
彼女は、私の登場を待っていたのだ。
自分の圧倒的な奇跡を見せつけた後で、私のそのみすぼらしい薬の効果を、衆人の面前で徹底的にこき下ろす。
それこそが、彼女の本当の狙いだったのだから。
「……いいでしょう。やらせてあげなさい」
リアナが、静かな、しかし絶対的な自信に満ちた声で騎士に命じた。
「お姉様が、どれほどの『奇跡』を見せてくださるのか。このリアナも、この街の皆さんと一緒にじっくりと拝見させていただきますわ」
その言葉には、もはや慈愛などどこにもない。
ただ、醜い優越感だけがにじみ出ているように見えた。
私は、そんな彼女の挑発をいつものように受け流すと、苦しんでいる兵士たちの前にそっとしゃがみ込んだ。
「皆さん、お待たせいたしました。特製の薬ができましたよ」
私は、柳の籠の中から青く美しく輝く小瓶を一本取り出した。
そして、その小瓶を、一番最初にリアナの治療を受けたあの青年の前にそっと差し出す。
「さあ、これを一気に飲み干してくださいな。少し、苦いかもしれませんけれど」
私の、あまりにも事務的な、そしてあっさりとした物言いに、青年は戸惑ったような顔で私とその小さな小瓶を交互に見比べた。
その様子を見ていたリアナが、たまらずといった様子で甲高い声で笑った。
「きゃははははははっ!まあ、お姉様!それ、本気でおっしゃって?そんな、得体の知れない色の水薬でこの方の呪いが解けるとでも?まるで、闇の魔女が使う怪しげな薬のようですわね!」
彼女の嘲笑に、取り巻きの騎士たちも観衆の一部も、同調するようにくすくすと笑い声を上げる。
広場の空気が、完全に私への不信と嘲笑の色に染め上げられていく。
けれど、私はそんな空気など意に介さない。
「信じるか、信じないかはあなた次第です。でも、もし本当にその苦しみから解放されたいと願うのなら、試してみる価値はあると思いますよ」
私は、青年の目をまっすぐに見つめてそう言った。
私の瞳の中に嘘や悪意がないことを、彼は感じ取ってくれたのだろう。
青年は、ごくりと一度大きく唾を飲み込むと、意を決したように私の手からその小瓶を受け取った。
そして、その中身を一気に飲み干した。
広場中の視線が、その一点に突き刺すように集中するのが分かる。
ごくり、と。
誰かが唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
青年が、小瓶を飲み干した、その瞬間だった。
◇
―――しゅわわわわわっ!
まるで、炭酸が弾けるような心地よい音が無数に聞こえる。
青年の体全体から、淡く、しかし清浄な青白い光がオーラのようにふわりと立ち上ったのだ。
そして、その光と共に。
彼の、呪いを受けていた腕。その皮膚の下でうっすらと見えていた、黒くもやのような禍々しい呪いの気配が。
まるで、朝霧が強い日差しで晴れるように跡形もなく消え去った。
「…………え?」
青年自身が、一番驚いていた。
彼は、信じられない、といった様子で自分の腕を何度も、何度も見返している。
曲げたり、伸ばしたり。
その動きには、もう何のぎこちなさもない。
さっきまで、彼の顔を曇らせていた青白い苦痛の色は、完全に消え去っていた。
代わりに、そこにあったのは健康的な血色と、長年の苦しみからようやく解放されたという純粋な喜びの輝きだった。
「……う、動く……!痛くない……!痺れも、ない……!治った……!俺の腕が、完全に治ったぞおおおおおおおおっ!」
彼の、魂からの歓喜の雄叫び。
それが、静まり返っていた広場にとどめを刺した。
リアナの、あの神々しい光の儀式よりも、ずっと地味で、事務的で、そしてあっけない結末。
けれど、その結果は誰の目にも明らかだった。
「皆さん、さあ、どうぞ。順番ですよ」
私は、その青年の驚きをよそに、柳の籠から次々と青い小瓶を取り出し、残りの兵士たちに手際よく配っていく。
彼らは、もう何の躊躇いもなかった。
我先にと、その青い液体を飲み干していく。
そして、その度に。
広場のあちこちで、同じような奇跡が次々と連鎖的に起こっていった。
しゅわわわわ……。
しゅわわわわ……。
清浄な青い光が、あちらこちらで点滅する。
その度に、一人の兵士が長年の呪いから完全に解放されていく。
リアナが、一人を不完全に治療するのに数分を要した。
私は、十数人全員を完全に、そして根本から癒すのに、たったの一分もかからなかった。
圧倒的な効果。
そして、圧倒的な効率性。
その、あまりにも信じがたい、しかし紛れもない事実を前にして。
広場は、水を打ったように静まり返る。
嘲笑も、不信も、もはやどこにもない。
ただ、純粋な驚愕だけがその場を覆っていた。
「…………」
リアナが、その桜色の唇をかすかに震わせた。
彼女の大きな瞳が、信じられないものを見るかのように、これ以上ないくらいに大きく見開かれた。
聖女の微笑みは完全に剥がれ落ち、そこにあるのは、ただ能面のような無表情だけ。
彼女のなけなしのプライドと、聖女としての自信。
その全てが、今この瞬間、目の前で音を立てて粉々に砕け散ったのだろう。
やがて、その静寂を破ったのは。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」
大地が揺れるほどの、すさまじい歓声が上がった。
それは、もはやただの賞賛ではない。
熱気。
フロンティアの住民たちが、その心の底から私という存在をこの街の真の救世主だと認めた、その瞬間だった。
「すげええええええええええええ!」
「一瞬で、全員の呪いを……!これこそ、本物の奇跡だ!」
「聖女様だと!?冗談じゃない!俺たちの街には、アリア様っていう本物の聖女様がいるんだ!」
割れんばかりの歓声と、拍手。
その、歓声の渦の中心で。
私は、ただやれやれと肩をすくめていた。
(……ふう。これで、ようやく静かになるかしらね)
私の視線の先。
完膚なきまでに打ちのめされたリアナが、人々の賞賛を一身に浴びる姉の姿を、悔しげに唇を噛み締めながらただ呆然と見つめている。
その背中は、聖女の威厳など微塵もなく、ただの負けを認めたくない少女のように小さく、そしてどこまでも哀れだった。




