第四十五話:奇跡の生産体制
市場の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえていた。
私の返答に勝利を確信したリアナの不敵な笑み。それを取り巻く人々の、好奇と期待が合わさった熱っぽい視線。その全てを背中に感じながら、私はフェンと共に人混みをかき分けるようにしてその場を後にした。
「わふん……」
私の隣を歩くフェンが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。その大きな黒い瞳が「主、大丈夫か?」と雄弁に物語っている。私はそんな彼の頭を優しくぽんと叩いた。もふもふとした温かい感触が、私の張り詰めていた気持ちを少しだけ和らげてくれる。
「大丈夫よ、フェン。ただ、少しだけうんざりしただけ」
本当に、ただそれだけだった。
怒りとか、憎しみとか、そういうマグマのようにどろりとした感情は、もはや私の心の中にはほとんど湧いてこない。ただ純粋に、面倒くさい。その一言に尽きる。
リアナの、あの粘着質なまでの執着心。自分の思い通りにならないと気が済まない、子供じみた独占欲。それらが、せっかく手に入れた私の穏やかな日常に、じわりじわりと不快な染みを作り出していく。まるで、新品の白いシャツに気づかないうちに小さな泥が跳ねているような、そんな不快感。
(……でも、まあ、いいか)
受けて立ってしまったものは仕方がない。
それに、あの元兵士たちの助けを求める切実な声。あれを聞いてしまった以上、見過ごすことなどできはしない。
何より、この面倒で、鬱陶しくて、そしてどこまでも粘着質なこの状況を、一気に、そして完全に終わらせるには、あの馬鹿げた挑戦を正面から受けて立ち、彼女の自信とプライドを木っ端微塵に粉砕してやるのが一番手っ取り早い。
「さあ、帰りましょうか、フェン。私たちの愛しの我が家へ。少しだけ忙しくなりそうよ」
「わんっ!」
私の声に、いつもの楽しげな調子が戻ったことに安心したのか、フェンもまた力強く一声鳴いた。
私たちの足取りは、いつの間にか市場で買い物をしていた時よりもずっと軽やかになっていた。
私の頭の中はもう、三日後に迫った『聖女対決』のための最高の準備に取り掛かることでいっぱいだったから。
さあ、始めましょうか。
私の、科学と魔法の知識を総動員した、奇跡の生産体制のお披露目会を。
◇
愛しの我が家の広大な庭。
その一角に私が造成したハーブ畑は、もはや小さな聖地と呼んでも差し支えないほどの雰囲気を放っていた。ざわざわと風にそよぐ薬草の葉が、まるで私たちの帰還を歓迎するファンファーレのように賑やかな音を立てている。
対決の準備。その第一歩は、もちろん最高の素材を確保することから始まる。
呪い。それは、ただの物理的な傷とは違う。負の魔力がじわじわと体を蝕んでいく、厄介な状態異常だ。それを完全に解き放つには、並大抵の薬草では力が足りない。もっと、清浄で力強い生命力に満ちた、特別な薬草が必要になる。
(……でも、この子たちがいれば問題ないわね)
私は、目の前に広がる薬草畑を眺めながら満足げに一つ頷いた。
青みがかった丸っこい葉は太陽の光をたっぷりと浴びて、つやつやと輝いている。その表面はベルベットのようになめらかで、生命力に満ち溢れていた。
私がしゃがみ込んでその瑞々しい葉を指でそっとつまむと、すうっとするような爽やかな香りが立ち上った。
「くんくん……わふん」
私の足元でフェンも、その清涼感のある香りが気に入ったのか、楽しそうに鼻を鳴らしている。
「この子たちがいれば、私たちの冒険はもっともっと安全なものになるはずだわ。そしてここからが本番よ」
私はすうと大きく息を吸い込んだ。
そして体の中に眠る、あの温かい力をゆっくりと呼び覚ます。
『森の加護』
『沈黙の樹海』の主から授かった、全ての命の成長を助けるという、とてつもない力。
私の体の中からふわりと柔らかな翠色の光の粒子が、オーラのように立ち上り始めた。その光はまるで春の陽光のように温かく、そしてどこまでも優しい。
「さあ、私の力、受け取ってちょうだい!」
私はその翠色の光を両方の手のひらから、目の前の薬草たちへと静かに注ぎ込んだ。
イメージするのは成長の促進。
この子たちが持つ生命力のポテンシャルを、最大限に引き出してあげる。
私の魔力とはまた少し種類の異なる、自然そのものから借り受けたような穏やかで力強いエネルギー。それが薬草の一枚一枚の葉に、茎に、そして根の隅々にまでじわりと染み込んでいくのが肌で感じられた。
するとどうだろう。
目の前で信じられない光景が繰り広げられた。
さわさわさわさわさわさわさわ……。
まるでビデオの早送りを見ているかのような、奇跡の光景。
翠色の光を浴びた薬草たちが、目に見えてぐんぐんとその背を伸ばし始めたのだ。
つぼみだったものがゆっくりと、しかし確実にその花弁を開いていく。
葉はさらに大きくそして厚みを増し、その表面にはまるで朝露が宝石になったかのようにきらきらと光る魔力の雫がいくつも浮かび上がってきた。
あたりには先ほどとは比べ物にならないくらい、濃密で甘く清らかな薬草の香りが満ち満ちていく。
ほんの数十秒の出来事。
だがその数十秒の間に私の目の前のハーブ畑は、ただの薬草畑から、もはや伝説級の秘薬が群生する聖地のような場所へとその姿を完全に変えていた。
「…………」
「わふぅぅぅ……」
私とフェンはしばらく、そのあまりにも幻想的で非現実的な光景に、呆然と口を開けて見つめていた。
「……す、すごい。すごいわ、これ……!」
やがて我に返った私が絞り出すような声でそう言うと、フェンもまた感嘆のため息を漏らした。
(これが『森の加護』の力……!とんでもないチートスキルを手に入れてしまったわ、私……!)
この薬草を使えば、どんな根深い呪いだって綺麗さっぱり洗い流せるに違いない。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
勝利への確信が、私の心の中にずしりと重い錨のように下ろされた瞬間だった。
「よし!フェン、収穫を手伝ってちょうだい!最高の素材を、最高の形で、最高の薬にしてあげる!」
「わんっ!」
私のただならぬ興奮が伝わったのか、フェンも一緒になって嬉しそうに一声鳴いた。
私たちは、その日の午後いっぱいをかけて、神々しいまでの光を放つ薬草を、必要な分だけ丁寧に、丁寧に摘み取っていった。
その一葉一葉が、これから始まる反撃の狼煙。
私の手の中には、ずっしりと重い希望の塊があった。
◇
ぴかぴかに磨き上げた、キッチンの作業台。
その上に、私は摘み取ってきたばかりの薬草と、いくつかの道具を並べた。
乳鉢と乳棒、清らかな水を入れたガラスの瓶、そして空の小さな小瓶がずらりと何十本も。
公爵令嬢だった頃、退屈な薬学の授業で何度もやらされた作業。あの頃は、ただの面倒な義務でしかなかったが、今は違う。
苦しんでいる人々を救うため、そしてあの鼻持ちならない妹の自信を木っ端微塵に打ち砕くための、重要な儀式だ。
「まずは、この葉を細かくすり潰して……と」
私は、薬草の葉を乳鉢に入れ、乳棒でゆっくりと丁寧にすり潰していく。
ごと、ごと、と。
心地よい音が、静かなキッチンに広がる。
『森の加護』をたっぷりと吸い込んだ薬草は、もはやただの植物ではなかった。すり潰していくうちに、その葉脈からまるで翠色の血のように、きらきらと光る液体があふれ出てくる。すうっとする爽やかな香りが、あたりにふわりと立ち込めた。
やがて、葉は鮮やかなエメラルドグリーンに輝く、滑らかなペースト状になった。
「次に、このペーストに清らかな水を少しずつ加えて……」
私は、ガラスの瓶からスポイトで数滴、水を垂らした。そして、ペーストと水が均一になるように、さらに乳棒で練り上げていく。
ここまでは、この世界のごく一般的な回復薬の作り方だ。
でも、ここからが私流。
(普通の作り方じゃ、効果はたかが知れてる。もっと効率よく、有効成分だけを抽出する方法……)
私の頭の中に、前世の知識が閃いた。
そう、確かにあったはずだ。
特定の物質だけを分離、抽出するための技術。
「……そうだわ!遠心分離機よ!」
ぽん、と。私は自分の手のひらを叩いた。
もちろん、この世界にそんな便利な機械はない。
でも、私には魔法がある。
「見てなさい、フェン!私流、魔法の科学実験よ!」
「わん?」
キッチンの入り口で、私の作業を興味深そうに眺めていたフェンが、不思議そうに小首を傾げた。
私は、にやりと笑うと、エメラルドグリーンのペーストが入った乳鉢にそっと手をかざした。
イメージするのは、高速回転。
洗濯機の脱水機能のように、乳鉢の中の液体を目にも留まらぬ速さでぐるぐると回転させるのだ。
『サイクロン・セパレート』
私が心の中でそう唱えると、乳鉢の中の液体がごおおおっと音を立てて渦を巻き始めた。
凄まじい遠心力によって、液体は二つの層へと分離していく。
外側には、不純物を含んだ濁った緑色の液体。
そして、その中心には、まるで最高級の宝石のように澄み切った翠色の液体だけが集まっていく。
「よし、かかった!」
私は、回転を止めると、中心に集まったその美しい翠色の液体だけを、スポイトで慎重に吸い上げ、空の小瓶へと移し替えた。
小瓶の中には、太陽の光を浴びてきらきらと輝く一滴の雫。
これこそが、薬草の有効成分だけを極限まで濃縮した、特製の回復薬の原液。
だが、魔物が放った呪いを解くにはこれだけではまだ足りない。
最後の仕上げが必要だ。
「ここからが、本当のお仕事よ」
私は、悪戯っぽくそう呟くと、黒檀の杖を静かに手に取った。
そして、その杖の先端を、翠色の液体で満たされた小瓶にそっと触れさせる。
イメージするのは、浄化の光。
アンデッドを安らかな砂へと還し、魔性の森を穏やかな楽園へと変えた、あの清浄な力。
その力を、この薬の中に直接注ぎ込むのだ。
『ポーション:ピュリフィケーション』
私が、またしても即席で考えた実にそれっぽい名前の魔法を唱えると、杖の先端からまばゆいほどの、それでいて目に優しい翠色の光がほとばしり出た。
その光が、小瓶の中の液体に触れた、その瞬間。
しゅわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわ。
まるで、炭酸水が弾けるような無数の心地よい音がした。
小瓶の中の翠色の液体が激しく泡立ち、その色をさらに深く、どこまでも澄み切ったサファイアのような美しい青色へと、その姿を変えていったのだ。
その液体からは、もはやただの薬草の香りではない。
もっと、神聖で清らかな、まるで雨上がりの森の奥深くで深呼吸をした時のような、そんな魂が洗われるかのような香りが立ち上っていた。
これこそが、どんな根深い呪いさえも一瞬にして消し去る、特製の解毒薬。
王都の宮廷薬師ですら逆立ちしても真似できない、魔法と科学、そして最高の相棒との連携が生み出す、圧倒的な奇跡の産物。
「……ふう。完成ね」
私は、満足げに一つ頷くと、その青く輝く小瓶を光に透かしてみた。
その美しさは、もはや薬というよりも一つの芸術品のようだった。
私たちは、その日の夕方まで夢中になって薬作りを続けた。
私が魔法で薬を調合し、フェンが最高の応援団長として私の足元でその一部始終を見守る。
その、あまりにも息の合った作業。
夕暮れ時、キッチンの作業台の上には、翠色と青色に輝く小さな小瓶が、まるで宝石店のショーケースのようにずらりと並んでいた。
その数は、それぞれ五十本を超えていただろう。
これだけあれば、あの兵士たち全員を完全に癒すことができるはずだ。
「さて、と」
私は、完成した薬が詰められた籠をよいしょと持ち上げた。
「リアナ。あなたの、その自信過剰な鼻っ柱、最高の形でへし折ってあげる」
私は、誰に言うでもなくそっと呟いた。




