第四十三話:ダンジョン帰りの私と、あの人。
『灼熱の火山』から帰還し、長期遠征を終えたアリアとフェンは、愛しの我が家で穏やかな休息を満喫していた。気分転換と厄介事からの逃避を兼ねた冒険は、最高の形で締めくくられたはずだった。
(ああ、やっぱり我が家が一番だわ……。このふかふかのベッド!最高ね!)
そんな自堕落な考えが、温かい羽毛布団の中でむくむくと頭をもたげる。だが、そうもいかないのが冒険者の性というものだろう。それに、我が家の食料庫も少しだけ寂しくなってきた。
「フェン、起きなさい!今日は久しぶりに街へお買い物に行くわよ!」
「わんっ!?」
私の突然の宣言に、寝ぼけ眼だったフェンがぴょこんと顔を上げた。その大きな黒い瞳が「お、買い物だって!?」とでも言いたげに、ぱちくりと瞬いている。
「ええ、そうよ!あなたの大好きな骨付き肉も、たくさん買ってあげましょう!」
私の言葉に、フェンの眠気は完全に吹き飛んだようだった。彼はベッドから軽やかに飛び降りると、その場で一度だけぶるぶると体を震わせ、完全に出撃準備完了といった様子を見せた。
「わふん!」
(現金な子ねえ、本当に)
彼の愛らしい反応に私は微笑む。さあ、行こうか。久しぶりの街の空気は、きっと美味しいものに満ちているはずだ。
◇
フロンティアの市場は、今日も変わらず生命力に満ちた熱気に満ちていた。スタンピードの爪痕など、もはやこの街のどこを探しても見当たらない。あの未曾有の危機を街全体で乗り越えたという自信が、人々の顔つきを以前よりもずっと力強く、そして明るくさせているのが、肌で感じられた。
道行く人々が、私たちに気づくと親しげに手を振ってくれる。その気安く温かい声の一つ一つに、私はにこやかに手を振りながら応える。
だが。
「あら、ごきげんよう、お姉様」
(げ、出たわね。一番会いたくないやつ)
その砂糖菓子のように甘く、しかしねっとりとした声が耳に届いた瞬間、私の穏やかな心に波紋が広がった。振り返ると、案の定、そこには純白のドレスに身を包んだ私の腹違いの妹、リアナが立っていた。その大きな瞳に慈愛に満ちた聖女の微笑みを浮かべて。だがその瞳の奥底に、私にしか分からない鋭く冷たい光が見えた。
「……おはよう、リアナ」
私は内心のうんざりした気持ちを押し殺して、いちおう淑女の微笑みを返した。
ああ、そうだ。忘れていた。私が火山へと逃避行している間も、彼女はずっとこの街に居座り続けていたのだった。その存在が、この街の空気を少しだけ、しかし確実にぎすぎすとしたものに変えてしまっていることに、私は改めて気づかされた。
「ええ、私は聖女として、か弱き人々を救います」
ちくり、と彼女の言葉には蜂蜜の中に隠された小さな棘がある。
私はそんな彼女の挑発を意に介さず、用事があるからと適当な理由をつけてその場を早々に立ち去った。これ以上関わっても、面倒なだけだ。
肉屋でフェンが待ち望んでいた骨付き肉をたっぷりと買い込み、私たちは家路についた。
その途中、ふと、冒険者ギルドの建物が目に入った。
(あ、そうだ。報告し忘れてたダンジョンが三つもあるんだった。まとめて報告するのも面倒だし、今のうちに済ませておくか)
「フェン、少しだけ寄り道しましょうか。すぐに終わる用事だから」
「わふん?」
私の言葉に、フェンは肉の入った袋をじっと見つめながら、不思議そうに小首を傾げた。
◇
ぎぃ、と久しぶりに聞くその音を立てて冒険者ギルドの重い扉を押し開ける。
「あら、アリアさん!いらっしゃい!」
カウンターの向こうから、いつもの快活な声が飛んできた。受付嬢さんが満面の笑みでぱたぱたとこちらに手を振っている。
「こんにちは。しばらくご無沙汰しておりました」
「ええ、本当に!最近は、いかがでしたか?」
「まあ、いろいろと……」
私が悪戯っぽくそう言うと、彼女は「まあ!」と楽しそうに笑った。
私たちの和やかな会話を聞きつけたのか、ギルドの奥の執務室から、ギルドマスターがのっそりとその巨体を現した。
「おお、アリア殿!無事に戻っておられたか!近頃はとんと顔を見せんかったが、どこぞのダンジョンにでも潜っておったのかのう?」
彼は心配そうな、それでいて好奇心に満ちた顔で、ずんずんとカウンターへと近づいてくる。
私はそんな彼の問いに、にっこりと優雅に微笑んでみせた。
「ええ、まあ。少しばかり手こずりましたけれど、そのような感じです。それから、そうでした。すっかり報告しそびれていたことがいくつかありました」
「報告しそびれていたこと?」
彼は再び心配と好奇がうかがえる顔で、問い返した。
私はそんな彼の問いに、にっこりと優雅に微笑んでみせた。
「ええ。まずは、『天空の塔』ですけれど」
「……『天空の塔』?おお、あの誰も頂上までたどり着いたことがないという伝説の……」
「ええ、それですわ。あそこの最上階には、ガーディアンと名乗る美しい自動人形がいましてね。彼が塔の修復素材がなくて困っているというので、私がその辺の石ころからちょちょいと錬金して差し上げたら、ひどく感謝されまして。そのお礼に、次のダンジョンへの鍵となる『道標の石』というものを頂きました」
「…………は?」
ギルドマスターの口から、間の抜けた声が漏れた。私のあまりにも突拍子もない報告に、彼の思考が全く追いついていないのが分かった。
だが、私はお構いなしに続けた。
「それで、その『道標の石』を使って、次に向かったのが『沈黙の樹海』です。あそこは森全体が『穢れ』に蝕まれていて、主さんがひどくお嘆きでしたので、私がちょちょいと浄化魔法をかけてあげると、これまたひどく感謝されましてね。そのお礼に、植物の成長を促進させる『森の加護』というものを、授かってしまいました」
「…………」
ギルドマスターが、完全に言葉を失った。その大きな目が、まるで金魚のようにぱくぱくと、意味もなく開閉を繰り返している。
私は、そんな彼の反応を面白がりながら、さらに言葉を重ねる。
「そして、今回、『灼熱の火山』ですけれど。あそこの主さんは、それはそれは立派な古龍様でしてね。火山の暴走を鎮めてほしいという試練を課されましたので、私がちょちょいと治水工事をしましたら、これまたひどく感謝されまして。そのお礼に、街一つを焼き尽くせるという『龍炎石』と、炎を自在に操れるようになる『炎の加護』というものを授かって戻ってきたところです」
そこまで、一気に。
事もなげに語り終えた、その時だった。
ぐらり、と。
それまで、仁王立ちで私の報告を聞いていたギルドマスターの恰幅のいい巨体が、まるで切り倒された大木のように、ゆっくりと傾いたのだ。
「ま、マスター!?」
隣にいた受付嬢さんが、悲鳴に近い声を上げて、慌てて彼の体を支えようとする。
だが、時すでに遅し。
ギルドマスターは、その場にどさりと、実に締まらない音を立てて崩れ落ちてしまった。
その顔は血の気を失い、白目を剥いて、口から魂のようなものが、ふわりと抜け出しているのが見えた。
「……気絶してる」
誰かが、ぽつりとそう呟いた。
どうやら、私の規格外すぎる報告の連続は、歴戦の猛者である彼の許容量を超えてしまったらしい。
(あらあら、まあ。少し、やりすぎたかしら)
私は内心でそっと舌を出しながら、床に大の字になって伸びているギルドマスターを、少しだけ不憫な気持ちで見下ろした。
ギルド内は、一瞬にして蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「おいおい、マスターが倒れたぞ!」
「当たり前だろ!三大未踏破ダンジョンを、散歩の報告みたいにまとめて報告されたら、誰だって気絶するわ!」
「っていうか、この姐さん、一体どこまで行っちまうんだ……もう、人間じゃねえ……」
そんな、畏怖の念と呆れが感じられる声が、あちこちから聞こえてくる。
私は、そんな混乱の中心で、一人、やれやれと肩をすくめていた。
◇
数分後。
屈強な冒険者数人がかりで執務室のソファへと運ばれたギルドマスターは、受付嬢さんの懸命な介抱の末、ようやく「うう……」とか細い呻き声を上げて、意識を取り戻した。
「……ここは、どこじゃ……?わしは、とんでもない怪物の夢を見ておったような……」
どこか現実逃避気味な彼の言葉に、私はくすりと笑った。
「残念ながら、マスター。夢ではありませんわよ」
「……ひっ!?」
私の声に、彼はびくりと肩を揺らすと、まるで恐ろしいものでも見るかのような目で、私のことを見つめてきた。その瞳には、もはや驚愕を通り越し、純粋な恐怖さえ感じているようだった。
(……なんだか、少しだけ、可哀想になってきたわね)
私は、そんな彼の心労を少しでも和らげてあげようと、話題を変えることにした。
「それよりも、マスター。少し、気になったことがあるのですけれど」
「……な、なんじゃ」
「私が火山へと旅立っている間に、この街の雰囲気が、少しだけ変わってしまったように感じますの。以前はもっと、こう、カラッとしていたように思うのですけれど。今はなんだか、じっとりと湿っているというか……」
私のその問いに、ギルドマスターと受付嬢さんは、はっとしたように顔を見合わせた。
そして、ギルドマスターが、重々しく口を開いた。
「……さすがはアリア殿。よく、お気づきになられた」
彼の顔から、先ほどまでの愉快な表情は消え、この街の長としての険しい顔つきに戻っている。
「アリア殿が冒険へ出かけておられる間に、リアナ聖女様がこの町で慈善活動を本格的に行い始めて、じゃな……」
受付嬢さんが、その言葉を引き継ぐように、説明を始めた。
なんでも、リアナは、私が街を留守にしているのをいいことに、王都からさらに多くの資金と物資を取り寄せ、街の広場で、毎日のように炊き出しを行ったり、孤児院に新しい服やおもちゃを寄付したりと、その『聖女』としての活動を、これでもかと見せつけていたらしい。
その、あからさまな善意の押し付け。
純粋で、素朴なフロンティアの街の人々の中には、その行為を、手放しで賞賛する者たちも、少なくなかった。
「その結果、じゃ」
ギルドマスターが、苦虫を噛み潰したような表情で続けた。
「街の空気が、二つに割れてしもうたんじゃ。『聖女リアナ様は、なんてお優しい方なんじゃろう』と、彼女を称える声。そして、『いやいや、我々の街を救ってくれたのは、英雄アリア様だ』と、アリア殿を慕う声。その二つの声が、あちこちでぶつかり合うようになってしもうてな……」
「……なるほど。派閥争い、というわけですか。実に、くだらないですわね」
私は、心の底から、うんざりとした声で、そう吐き捨てた。
スタンピードという未曾有の危機を、街の皆が一丸となって乗り越えた。その自信と絆が、このフロンティアという街を、さらに強く、たくましくさせたはずだった。
その、せっかく生まれた一体感を、リアナという、たった一人の存在が、そのくだらない自己顕示欲のために、台無しにしようとしている。
平穏な冒険者ライフを望む私にとって、その状況は、自らの意思とは無関係に、厄介事の中心に引き寄せられていくことを意味していた。
(……面倒くさいこと、この上ないわ)
私は、今日何度目かになる、深いため息を、誰にも気づかれないように、そっと吐き出した。
「分かりましたわ、マスター。状況は、理解いたしました」
私は、ソファから、すっくと立ち上がった。
「ですが、私は、そのくだらない派閥争いに、付き合う気は、毛頭ありませんので。あとは、よしなにお願いいたしますわ」
私の、あまりにも素っ気ない、他人事のような言い分に、ギルドマスターと受付嬢さんは、呆気にとられた顔で、私のことを見つめていた。
だが、私はもう、彼らに構っている余裕はなかった。
「さあ、フェン。帰りましょうか。私たちの愛しの我が家へ。最高のステーキが、私たちを待っているわ」
「わふん!」
私は、これ以上、この面倒な雰囲気に付き合わされるのはごめんだとばかりに、執務室を後にした。
背後で、ギルドマスターが、「あ、アリア殿!お待ちくだされ!」と、叫んでいたような気もするが、聞こえないふりをした。