第三十二話:導かれた先は?
フロンティアの街の喧騒がすっかりと背後の景色へと遠ざかった場所。
私たちは見慣れた街道を外れ、まだ誰も踏み固めていない緑豊かな獣道へと足を踏み入れていた。ざわざわと風にそよぐ木々の葉が、まるで私たちの新たな門出を祝福する紙吹雪のように、きらきらと日の光を反射している。
「さて、と。いよいよここからが本番ね、フェン」
私は冒険用の革袋のベルトをきゅっと締め直しながら、隣を歩く最高の相棒に声をかけた。彼の首にかけられた従魔としての認識票が、歩くたびにちりんと涼やかな音を立てる。
「わふん!」
フェンもまた準備は万端といった様子で力強く一声鳴いた。その大きな黒い瞳は、これから始まる新しい冒険への期待で朝露を弾く葉っぱみたいに輝いている。彼の自慢のもふもふとした銀色の尻尾は、もはや扇風機のように高速でぶんぶんと揺れていた。
あの、街を揺るがした魔物の大発生から、季節が一つ巡ったかのような穏やかな時間が流れた。英雄だの聖女だのと持ち上げられ、少しばかり気恥ずかしい日々を過ごしたけれど、それももう終わりだ。
私の本職は冒険者。
未知のダンジョンに挑み、誰も見たことのない景色を見つけ、そしてとんでもないお宝を手に入れる、自由気ままなトレジャーハンターなのだから。
「今回の目的地は『沈黙の樹海』。未踏破のダンジョン。そう、あのガーディアンから貰った『道標の石』が役に立つ時が来たのよ!」
「くぅん?」
私の言葉にフェンは不思議そうに小首を傾げた。彼の辞書には高難度のダンジョンに対する恐怖はないらしい。実に頼もしいことだ。
「ふふっ、まあ、行けば分かるわ。きっと腰を抜かすくらいすごい冒険が待っているはずよ。さあ、行きましょうか!」
「わんっ!」
私の高らかな宣言に、フェンも待ってましたとばかりに元気よく一声鳴いたのだった。
私たちはフロンティアの街を背に、北へと続く森の奥深くを目指して歩き始めた。目指すはまだ誰も走破したことがない未知のダンジョン。その響きだけで、私の期待に胸が躍った。
◇
旅は予想以上に順調に進んだ。
これまでの冒険で培ったサバイバルの知識と、フェンの優れた野生の勘。その二つがあれば多少険しい山道も深い川も、私たちにとってはちょっとしたアスレチックコースのようなものだった。
そして旅を始めてから五日が過ぎた、ある日の午後。
私たちはついに、その場所にたどり着いていた。
「……ここ、ね。間違いないわ」
ぽつりと私の口からそんな言葉が漏れた。
目の前に広がっていたのは、森という生易しい言葉では表現できないほどの、超巨大な木の壁だった。
一本一本が天を突くようにそびえ立つ、見たこともないような巨木。それらが隙間なくぎっしりと、どこまでもどこまでも連なっている。
まるで中と外の世界を隔てるかのような、緑色の城壁のようだった。
いや、何よりも普通でなかったのは、その静けさだった。
「…………」
音がない。
鳥のさえずりも虫の羽音も、風が木々の葉を揺らす音さえもここでは完全に存在を消している。
しんと、まるで箱の中にでも閉じ込められたかのような絶対的な静寂。
それが逆に得体の知れない圧迫感となって、私たちの体をじわりと押し寄せてくる。
「わふぅ……」
私の足元でフェンが少しだけ不安そうに喉を鳴らした。彼の全身の銀色の毛がわずかに逆立っているのが分かる。彼の優れた聴覚が、この異常なまでの静寂に本能的な警戒心を抱いているのだ。
「大丈夫よ、フェン。私がついてる」
私がその背中をぽんと軽く叩いてやると、彼はこくりと一つ頷いて私の足元に静かに寄り添った。
私は冒険用の革袋から、一つの石を取り出した。
『天空の塔』のガーディアンから譲り受けた、『道標の石』。
森の深い緑色をした美しい石。
私がその石を樹海の入り口らしき場所へと静かにかざした、その時だった。
それまでただの石ころのように沈黙を保っていた『道標の石』が、まるで眠りから覚めたかのようにふわりと温かい光を放ち始めたのだ。
その光は石の表面に浮かぶ木の年輪のような模様に沿って、ゆっくりと優しく明滅を繰り返している。
そしてその光に呼応するかのように。
私たちの目の前にあった巨大な木の壁。
その何でもないはずの空間が、まるで水面に投げ込まれた小石が作る波紋のようにゆらりと揺らめいた。
「……結界、ね」
目には見えない、しかし強力な魔力の壁。
それがこの樹海全体を外部の世界から隔離しているのだ。
『道標の石』を持たない者が無理にこの中へ入ろうとすれば、おそらくその魔力の壁に弾き飛ばされて跡形もなく消し飛んでしまうだろう。
やがて石が放つ光が一番強くなった、その瞬間。
目の前の揺らめいていた空間に、すうっと一本の道のような亀裂がゆっくりと開いていった。
「……道ができたわ」
それは私たち二人だけを中へと招き入れる、特別な入り口。
私はフェンと顔を見合わせると、こくりと一つ頷き合う。
そしてまだ見ぬ世界へと続く、第一歩を踏み出したのだった。
◇
結界の内側は外の世界とは、まるで時間の流れ方が違うかのような不思議な空間だった。
一歩足を踏み入れた途端、むわりと湿った濃密な空気が私たちの体をぬるりと包んだ。
そして視界が一瞬にして、真っ白な闇に塗りつぶされた。
「うわっ!?」
私は咄嗟に自分の目の前で手を振った。けれどその自分の手さえも、ぼんやりとした形状しか見ることができない。
「霧……? すごいわね、これ……。一寸先も見えないじゃない」
それはただの霧ではなかった。
方向感覚を根こそぎ奪い去っていくような、粘り気のある魔力を帯びた霧。
この中で下手に動き回れば、あっという間に自分のいる場所さえも分からなくなってしまうだろう。
「がるる……」
私の足元でフェンが不安そうな低い唸り声を上げる。
彼の優れた嗅覚もこの濃密な霧の中では、その効力を半減させられてしまっているようだった。
「大丈夫よ、フェン。こういう時のための魔法があるじゃない」
私はにやりと笑うと、黒檀の杖を静かに懐から取り出した。
風魔法の応用。
イメージするのはこの私たちの周りを覆う厄介な霧のカーテンを、まるで劇場の緞帳でも開けるかのように綺麗さっぱりに左右に開け放つこと。
ただ吹き飛ばすだけじゃない。
空気の流れそのものを、私の意のままに支配するのだ。
『エア・カーテンコール』
私が杖を軽く横に一閃する。
その動きに呼応して目には見えない風の刃が、私たちの目の前の霧をまるで鋭利なナイフで布を分断するかのように、すぱりと二つに分けた。
そしてその切り口から左右に穏やかで、しかし力強い風が吹き荒れ、私たちの進むべき道その一本だけをくっきりと浮かび上がらせたのだ。
「ふふん、どうかしら。これなら先に進めるでしょう?」
「わふん!」
私の実にスマートな魔法に、フェンも感心したように一声鳴いた。
私たちは風が切り開いてくれた霧のトンネルの中を、慎重な足取りで進んでいった。
霧の向こう側から時折、何か得体の知れないものが動く気配がする。
けれど私たちの進む道は、風の結界によって安全に守られていた。
◇
どれくらいの時間、歩き続けただろうか。
やがて私たちの周りを覆っていた濃霧が、すうっとまるで嘘のように晴れていった。
そしてその先に広がっていた光景に、私たちは再び足を止めた。
「……うわあ。今度は植物ですか」
目の前に広がっていたのは、これまでの薄暗い森とは明らかに様子の違う開けた空間だった。
けれどその空間はお世辞にも美しいとは言えなかった。
地面からはまるで巨大な蛇のように、不気味な蔦が無数にとぐろを巻いている。
あちらこちらに毒々しい紫色をした巨大なキノコがぼこぼこと生えており、その傘からは時折ぽふと緑色の胞子が煙のように吐き出されていた。
そしてその空間のちょうど真ん中。
ひときわ巨大な真っ赤な花が、まるで巨大な口を開けているかのようにぱっくりとその花弁を広げている。
食人植物。
ファンタジー世界におけるお決まりの厄介なモンスター。
「キシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
侵入者である私たちに気づいたらしい。
地面を這っていた無数の蔦が、まるで生きている鞭のようにしなり私たちめがけて襲いかかってきた。
紫色のキノコからは一斉に緑色の毒の胞子が噴出される。
そして中央の食人植物が、その巨大な顎をぎちぎちと不気味に鳴らし始めた。
「がるるるるるるるるる……!」
私の足元でフェンが全身の毛を逆立て、戦闘態勢に入る。
普通の冒険者なら絶望する場面だろう。
四方八方から同時に襲いかかってくる魔性の植物の群れ。
あまりにも不利な状況。
けれど。
「……面白くなってきたじゃない!」
私の気持ちは、この圧倒的な逆境を前にしてむしろ最高潮に燃え上がっていた。
戦闘はしない。
私の美学に反するから。
私のやることはただ一つ。
この邪悪な意思に満ちた植物たちを、綺麗さっぱり『お掃除』してあげるだけだ。
「フェン、あなたは私の周りを守っていてちょうだい!」
「わんっ!」
私は黒檀の杖を天にぴしりと突きつけた。
イメージするのは太陽のように力強く、そしてどこまでも優しい光。
『浄化の光』
杖の先端からまばゆいほどの、それでいて目に優しい清浄な光のシャワーがほとばしり出た。
その光は雨のように、この邪悪な植物園全体にまんべんなく降り注いでいった。
しゅわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわ。
私たちめがけて襲いかかってきていた巨大な蔦。
その攻撃的な動きがぴたりと止まった。
そしてまるで悪夢から覚めたかのように、するすると地面へその身を戻していった。
毒々しい紫色をしていた巨大なキノコ。
その色がすうっと抜け落ちていき、代わりに森の木陰にごく普通に生えているような茶色い美味しそうなキノコへとその姿を変えた。
そして中央で巨大な顎を鳴らしていた食人植物。
その真っ赤だった花弁が淡く優しい桃色へと変化していった。
そしてその花の中心から甘くかぐわしい花の蜜の香りが、あたりにふわりと漂い始めた。
邪悪な意思は洗い流された。
後に残されたのは穏やかで美しい植物たちの楽園だった。
「……ふう。お掃除完了、っと」
私はぱんと杖についた見えない埃でも払うかのように、軽く手を叩いた。
「わ、わふん……」
私の隣でフェンがぽかんとした顔で、様変わりした(というよりは元に戻った)植物園の光景を見つめている。
彼の戦闘本能が、「こんな攻略法、ありなのか……?」と静かに訴えかけてくるようだった。
「ふふっ、これも立派な戦術よ、フェン。力だけが全てじゃないってこと。さあ、道ができたわ。先を急ぎましょう」
私はフェンの頭をくしゃくしゃと掻き回すと、すっかり安全になった植物園の中を悠々と歩き始めた。
魔性の森の厄介なギミックは私の前では、まるで面白いパズルのように一つまた一つと解き明かされていった。
◇
その後も私たちの快進撃は続いた。
濃霧は風魔法で切り開き、邪悪な植物は浄化魔法で無害な森の仲間へと変えていった。
けれどこの樹海はあまりにも広大すぎた。
いくつもの似たような景色がどこまでも続いている。
まるで巨大な迷路。
このままやみくもに進んでいては、いつか同じ場所をぐるぐると回り続けることになってしまうだろう。
「うーん、さすがに少し骨が折れるわね……。何か目印になるようなものがあればいいのだけど……」
私が少しだけ途方に暮れてうんうんと唸っていた、その時だった。
それまで私の隣で静かに森の匂いを嗅いでいたフェンが、不意にある一点を見つめたまま、「わふん!」と短くしかし力強く一声鳴いたのだ。
「ん? どうしたの、フェン?」
彼の視線の先を追って私も森の奥を見つめる。
けれど私の目には他の場所と何の変哲もない、ただの木々の連なりしか見えない。
「くぅん!」
『こっちだ!』とでも言うようにフェンは私のズボンの裾を、ぐいと口で引っ張った。
彼のそのあまりにも自信に満ちた態度。
私ははっとある可能性に、思い至った。
「……もしかしてフェン。あなた分かるの? この森の正しい道筋が」
「わんっ!」
彼は『当たり前だろ!』とでも言うように力強く一声鳴いた。
そうだった。
忘れていた。
私にはどんな高価な魔道具よりもずっとずっと頼りになる、最高の探索ツールがすぐ隣にいたではないか。
彼の優れた嗅覚。
それはただの匂いを嗅ぎ分けるだけじゃない。
この森の中を川のように流れる微かな魔力の流れ。
その正しい道筋を、彼は正確に嗅ぎ分けているのだ。
「……さすが私の最高の相棒ね!」
私は彼の頭を力いっぱい掻き回した。
「よし、決まりね! ここからはあなたが隊長よ! あなたの鼻を信じてついていくわ!」
「わふん!」
私の言葉にフェンは誇らしげに一声鳴くと、そのしなやかな体をぐっと低く沈めた。
そして彼は駆けた。
私たちが進むべき正しい道筋を指し示すように。
その銀色の背中を私は絶対的な信頼と共に追いかけていった。
誰にも突破できなかった魔の森。
けれど今の私たちにとっては、それはもはや最高の相棒と一緒に駆け抜ける楽しい散歩道に過ぎなかった。
◇
フェンの驚異的なナビゲーション能力のおかげで、私たちの進軍速度は飛躍的に上がった。
彼はまるで熟練の森の案内人のように、迷うことなく正しい道を選び私たちを森のさらに奥深くへと導いていった。
時折道草を食って面白い形をしたキノコを観察したり、泉で喉を潤したり。
そんな寄り道さえも楽しむ余裕が私たちにはあった。
そしてついに。
私たちはひときわ巨大な古木の前にたどり着いた。
その木はこれまでに見てきたどの木よりも大きくそして古い。
幹は何人もの大人が手をつないでようやく一周できるかどうかという太さ。
その表面は長い年月を物語る深い皺と緑色の苔で覆われている。
そしてその木の根元。
ぽっかりと口を開けた巨大な洞のような空間から、圧倒的な清浄な魔力の気配が漏れ出てきていた。
「……ここ、ね」
ぽつりと私の口からそんな言葉が漏れた。
フェンも私の隣で、ごくりと唾を飲み込む音がした。
この先にいる。
『沈黙の樹海』の本当の主が。




