第三十話:フロンティア防衛戦
じりじりと、地平線の向こうに見えていた黒い線が、少しずつその太さを増していく。
やがてそれはもはや線ではなく、巨大な黒い『塊』となって大地を覆い尽くしながら、こちらへと押し寄せてきていた。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!
遠雷のような地響き。
空気を揺らす無数の足音。
それはもはや進軍というよりも、巨大な津波が押し寄せてくる光景に近かった。
「……ひっ」
私の後ろで、誰かが息を詰める音がした。
無理もない。
その光景は、まさしく絶望そのものだった。
先頭を走るのは、緑色の肌をした小柄で素早いゴブリンの集団。その数はもはや千や二千ではきかないだろう。彼らが波の飛沫のように黒い塊の最前線を形成している。
その後ろには、豚のような顔をした巨大なオークの戦士たちが、巨大な棍棒を振り回しながら大地を揺るがして突進してくる。
さらに、犬のような頭を持つコボルトの群れや、八本の足で不気味に疾走するジャイアントスパイダーの一団も見える。
様々な種族の魔物が何の統率もなく、ただ目の前にある街を踏みにじるという純粋な破壊衝動だけを原動力にして、一つの巨大な流れと化していた。
「……マスター、街の魔法使いたちへの連絡は?」
私は後ろに控えるギルドマスターに、冷静な声で尋ねた。
「は、はい! いつでも合図を送れるように、準備は万端ですじゃ!」
彼の声は緊張で少しだけ上ずっている。
「よろしい。冒険者の皆さん、第二陣の準備はよろしいですか?」
「「「おうっ!」」」
柵の上にずらりと並んだ冒険者たちが、腹の底から絞り出すような力強い声で応えた。彼らの手元には昨夜私たちが一夜漬けで作り上げた、大小様々な黒い粉が詰められた樽や袋が、いつでも投下できるように準備されている。
「よし、と。あとはタイミングだけね」
私はぐっと黒檀の杖を握りしめた。
冷たい滑らかな感触が、高揚感を静かに落ち着かせてくれる。
魔物の大群が、どんどん近づいてくる。
先頭を走るゴブリンたちの甲高い奇声や、ぎらぎらと光る目がはっきりと見える距離まで迫ってきていた。
彼らの足元。
そこには昨夜までただの中途半端な溝でしかなかった、あの未完成の堀がある。
けれどその溝の中には今、私たちの希望がびっしりと仕掛けられているのだ。
(まだ……まだよ……。もう少し、引き付けて……)
私の頭の中では、前世でやり込んだタワーディフェンスゲームの記憶が鮮やかに蘇っていた。
敵をキルゾーンへと確実に誘い込む。
そして最も効果的なタイミングで、最大火力を叩き込む。
それが鉄則だ。
先頭のゴブリンの群れが、ついにあの溝のすぐ手前まで到達した。
彼らはその程度の溝など障害にすらならないと判断したのだろう。何の躊躇いもなく、その中へと次々と飛び込んでいく。
今だ。
「―――マスター、合図を!」
私の凛とした声が、戦場の喧騒を打ち破った。
その声にギルドマスターがはっと我に返る。
彼は懐から取り出した魔力で信号を送るための小さな魔道具を、かすかに震える手で、しかし力強く握りしめた。
「全員、魔力充填、開始いいいいいいいっ!」
彼の魂の号令。
それが全ての始まりだった。
◇
街のあちこち。
屋根の上や、見張り台の上。
待機していた二十人ほどの魔法使いたちが、一斉に地面に仕掛けられた導火線代わりの魔力伝達線に自分の魔力を注ぎ込んだ。
目には見えない魔力の奔流が、大地の下を網の目のように走る回路を通って、あの未完成の堀へと殺到した。
そして。
堀の中に飛び込んだゴブリンの群れが、何か異変に気づいたかのようにきょろきょろと辺りを見回した、その瞬間。
―――世界から音が消えた。
一瞬の完全な静寂。
そして、次の瞬間。
ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!
空気を殴りつける。
そうとしか表現のしようがなかった。
大地そのものが巨大な獣のように、叫びを上げたのだ。
堀に沿って一直線に巨大な火柱が、まるで赤い竜が天に昇るかのように吹き上がった。
凄まじい連鎖爆発。
私たちの足元がまるで地震に見舞われたかのように、びりりと激しく揺れる。木の柵がみしみしと悲鳴に近い音を立てていた。
「「「うわあああああああああっ!?」」」
柵の上にいた冒険者たちがそのあまりの衝撃に、次々と体勢を崩していく。私も咄嗟に柵にしがみついていなければ吹き飛ばされていたかもしれない。
轟音が鼓膜を破らんばかりに鳴り響き、熱風が衝撃波となって私たちの体をぐらりと揺らす。
やがて耳鳴りのような残響を残して爆発音がゆっくりと消えていく。
もうもうと立ち上っていた土煙が晴れたその先にあった光景に、その場にいた誰もが言葉を失った。
大地が裂けていた。
さっきまでただの浅い溝でしかなかったはずの場所にぽっかりと、幅は荷馬車が五台は並んで走れそうな、深さはオークの身長をゆうに超えるであろう巨大な断崖絶壁が口を開けていたのだ。
私たちの一夜漬けの土木工事。
それは成功した。
成功しすぎたと言ってもいいくらいに。
「キシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
先陣を切って堀に飛び込んでいた何百、いや何千というゴブリンの群れは、そのほとんどが爆発に巻き込まれ、吹き飛ばされた土砂の津波にいとも簡単に飲み込まれていった。
運良く生き残った者たちも、突如として目の前に出現した巨大な崖を前に、ただ呆然と立ち尽くしている。
後続のオークやコボルトたちも急には止まれない。
次々と前の仲間の背中を押し、将棋倒しのように新しい堀の中へと転がり落ちていく。
魔物の大群のあの凄まじかった突撃の勢いは完全に止まった。
それどころか敵の陣形は、完全に混乱とパニックの状態に陥っている。
「……す、すごい……」
私の隣で受付嬢さんが呆然とした声で呟いた。
「本当に……本当に堀ができてしまった……。一夜で……」
彼女だけではない。
柵の上の冒険者たちも衛兵たちも、そしてギルドマスターでさえも、目の前で起こったあまりにも非現実的な光景をまだ信じきれずにいるようだった。
けれど感心している暇はない。
ここからが本当の戦いの始まりなのだから。
「皆さん、呆けている暇はありませんよ!」
私はまだ呆然としている男たちに号令をかけた。
「最高の戦場は整いました! ここからが私たちの反撃の始まりです! 第二陣、投下開始!」
私のその力強い号令が彼らを再び現実へと引き戻した。
彼らの顔に先ほどまでの絶望はどこにもない。
そこにあったのは驚愕と、そして確かな勝利への希望だった。
「「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」
地響きのような雄叫び。
それはもはや諦めの声ではない。
希望と闘志に満ちた、戦士たちの戦いの雄叫びだった。
◇
作戦は第二段階へと移行する。
冒険者たちが柵の上から次々と、攻撃用の爆薬が詰められた樽や麻袋を眼下に広がる魔物の大群めがけて放り投げていく。
ひゅんひゅんと風を切り、黒い塊が放物線を描きながら敵陣のちょうど真ん中あたりへと吸い込まれるように落ちていった。
混乱の極みにあった魔物たちは、空から降ってくるその黒い塊の意味をまだ理解できていないようだった。
「……さて、と。ここからは私の独壇場ね」
私はにやりと笑うと、黒檀の杖の先端をぴしりとその黒い塊へと向けた。
最後の仕上げはこれ。
生活魔法、『発火』。
指先からぽんと、ごくごく小さな豆粒ほどの火の玉が夜明け前の薄闇を貫いて、魔物の群れの中心に着弾した一つの樽へとまっすぐに飛んでいった。
火種が樽に触れた、その瞬間。
―――ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!
第一の爆発がオークの群れの、ちょうど真ん中で炸裂した。
凄まじい轟音とオレンジ色の閃光。
衝撃波が同心円状に広がり、周囲にいた魔物たちをまるで紙切れのように吹き飛ばした。
けれどそれはまだ序曲に過ぎなかった。
最初の爆発が誘爆の引き金となったのだ。
近くに落ちていた他の樽や麻袋が、次々と連鎖的に爆発を開始する。
ドッ! ドゴオオオンッ! ドドドドドドドドドドドドドドッ!
もはやそれは一つの巨大な爆発の塊だった。
魔物の大群のど真ん中にぽっかりと地獄の釜が開いたかのように、巨大な炎の華が咲き乱れた。
爆心地にいた魔物たちは一瞬にしてその姿を消し、周囲にいた者たちも灼熱の爆風に焼かれ吹き飛ばされていく。
敵の陣形は完全に内部から破壊されていた。
「す……げえ……」
誰かが呆然とそう呟いた。
その声にはもはや驚きを通り越して、畏怖の念がこもっていた。
私の、この世界の常識からすればあまりにも常識外れの作戦。
それが今、目の前で圧倒的なまでの戦果を上げていた。
「皆さん、何をぼさっとしているのですか! まだまだ樽は残っていますでしょう! どんどん投下してください!」
「お、おうっ!」
私の声に冒険者たちがはっと我に返る。
彼らは先ほどまでの絶望が嘘のように活気に満ちた表情で、次々と爆薬の樽を眼下の敵陣へと放り込んだ。
そしてその度に私が杖の一振りでそれを起爆させる。
まるで巨大な花火大会のようだった。
一発、また一発と美しい炎の華が魔物の群れの中で咲き誇った。
その度に敵の数が面白いように減っていった。
「わふん!」
私の隣でフェンが興奮したように一声鳴いた。
彼の目にもこの圧倒的な光景は、どこか祭り囃子のように映っているのかもしれない。
やがてあれだけ大地を黒く埋め尽くしていた魔物の大群は、その数を半分以下にまで減らしていた。
生き残った者たちも度重なる爆発の恐怖と混乱で、もはやまともな戦闘ができる状態ではない。
あちこちで仲間割れを起こしたり、来た道を我先にと逃げ出そうとしたりしている。
勝機は見えた。
いや、もはや勝利は確定したと言ってもいい。
「―――全員、聞けい!」
その絶好のタイミングでギルドマスターが、腹の底から絞り出すような大号令をかけた。
「これより我々は反撃に転じる! 新しくできたこの堀を我らの城壁とせよ! 残った魔物どもを一匹残らず叩き潰すんじゃあ!」
その力強い魂の号令。
それが絶望の淵にいた冒険者たちの心に、最後の、そして最大の闘志を燃え上がらせた。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」
地響きのような雄叫び。
冒険者たちが衛兵たちが我先にと柵を乗り越え、新しくできた堀のこちら側の縁へと駆け下りていった。
彼らの顔にもう恐怖はなかった。
ただ純粋な闘志と、この街を守り抜くという確固たる決意だけが燃え上がっていた。
堀の向こう岸でまだうろたえている魔物の残党たちが、こちら側の崖の上から弓や魔法で次々と狩られていった。
「さあ、フェン!私たちも最後の仕上げと行きましょうか!」
「わんっ!」
私も柵の上から軽やかに飛び降りた。
そして堀の縁に立ち、眼下に広がる凄惨な光景を見下ろす。
逃げ惑うゴブリン。
怯えるオーク。
私には彼らがもはや、ただの経験値の塊にしか見えなかった。
「―――まとめてお掃除してあげるわ」
私は黒檀の杖を天にぴしりと突きつけた。
イメージするのは嵐。
この戦場全体を洗い流す浄化の嵐。
私の杖の先端に翠色の小さな、しかし圧倒的なまでの魔力の光が収束していった。
夜明け前の薄闇の中で。
その光はまるで新しい時代の到来を告げる一番星のように、美しく輝いていた。
◇
戦いは呆気ないほどすぐに終わった。
私の放った広範囲殲滅魔法(と呼ぶにはあまりにも生活魔法の応用すぎたが)が、魔物の残党のなけなしの戦意を打ち砕いたのだ。
生き残った魔物たちは蜘蛛の子を散らすように、我先にと南の平原へと逃げ帰っていった。
その背中を冒険者たちがどこまでも追いかけていった。
やがて最後の魔物の一匹が地平線の向こうへとその姿を消した時。
戦場に静寂が戻った。
しんと静まり返った大地。
後に残されたのは煙の立ち上る無数のクレーターと、ぽっかりと口を開けた巨大な堀。
そして朝日を浴びてきらきらと輝く、新しい時代の始まり。
誰かがぽつりと呟いた。
「……勝った」
そのか細い声が引き金だった。
「……勝ったぞ……」
「俺たち、勝ったんだ……!」
一人、また一人とその言葉が伝染していく。
そして次の瞬間。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」
大地を揺るがす勝利の歓声。
冒険者も衛兵も、そして街からおそるおそる様子を見に出てきた住民たちも、皆抱き合って泣いて笑って、この奇跡的な勝利を分かち合っていた。
絶望的な状況からの大逆転劇だった。
「……アリア殿」
不意に後ろから名前を呼ばれた。
振り返るとそこに立っていたのはギルドマスターだった。
彼の顔は土煙で汚れ、その目には涙が浮かんでいた。
「……ありがとう。本当にありがとう。君がいなければこの街は今頃……」
「礼には及びませんわ、マスター。私も私の愛する家を守りたかった。ただそれだけです」
私はいつものように優雅に微笑んでみせた。
「それにしても……見事なものでしたな。あの爆薬とやらは……。一体どういう仕組みなんじゃ……?」
「さあ? 企業秘密、というものです」
私は悪戯っぽく人差し指を口元に当ててみせる。
私のそのお決まりの台詞にギルドマスターは呆れたように、しかし心の底から楽しそうに、がははと豪快に笑った。
私のこの世界では誰も知らない知識と、誰もが軽んじていた生活魔法。
それがこのフロンティアの街を救った。
最高のイベントを最高の形でクリアした。
(さて、と。後片付けも大変そうだし、しばらくはまたのんびりした休日と行きましょうか)
私は歓声に沸く街を背に、隣に立つ最高の相棒の頭を優しくぽんと叩いた。
「帰りましょうか、フェン。私たちの愛しの我が家へ」
「ふぁん!」
さも当然かのように、フェンが答えた。




