第二十七話:英雄の休息と暴走する、それら
最初に私の鼓膜を優しく揺らしたのは、懐かしい小鳥たちの楽しげなさえずりだった。
薄く開けた瞼の隙間から、見慣れた我が家の寝室の、木の天井がぼんやりと映る。窓のリネンのカーテン越しに差し込む朝の光は、蜂蜜をたっぷりと溶かしたみたいに甘く、そして温かい。
私の肺をゆっくりと満たしていくのは、どこまでも澄み切った新鮮な空気。
「ん……おはよう、フェン」
私が隣で眠る、温かくて、もふもふした銀色の塊にそっと声をかけると、彼はまだ夢の中にいるのか、「くぅん……」と甘えたような声を漏らして、私の腕の中にさらに深く顔をうずめてきた。その、私の腕に顔をうずめてくる様子がたまらなく愛おしくて、私はもうしばらく、この至福の時間を味わうことにした。
伝説のダンジョン、『天空の塔』。
その攻略を終えてフロンティアの我が家へと帰還してから、もうどれくらいの時間が経っただろうか。
あの塔での冒険は、間違いなくこれまでで最も過酷で、そして最もエキサイティングなものだった。常に吹き荒れる風のギミック、空中を舞う金属の鷲、そして塔の最上階で出会った、あの健気なガーディアン。思い出すだけで、今も胸が高鳴る。
けれど、そんな刺激的な冒険の日々も、この我が家の、穏やかで満ち足りた日常の前では、まるで遠い昔の夢物語のように色褪せてしまう。
そう、私たちは今、久しぶりに大きな冒険を終えたご褒美として、休日を満喫しているのだ。
◇
そうして始まった私たちの休日は、いつものように、フェンに付き合うことから始まる。庭を散歩したり、いっしょにお昼寝をしたり。そして、時には、キッチンで腕を振るい、フロンティアの市場で仕入れた新鮮な食材で、少しだけ凝った料理に挑戦してみたりもした。夜は、自慢の広々としたお風呂で一日の汗を流し、暖炉の前に陣取ってぱちぱちと爆ぜる炎を眺めながら、二人で優雅な時間を満喫する。
誰にも邪魔されない、誰の目も気にしなくていい。
私たちだけの穏やかで満ち足りた時間。
私は机の上に、あの『天空の塔』のガーディアンから譲り受けた『道標の石』を飾っていた。
森の深い緑色をした美しい石。その表面には、木の年輪のような模様が、まるで呼吸をするように、ゆっくりと、そして優しく、明滅を繰り返している。
(『沈黙の樹海』……。この石が、私たちを、新しい冒険へと導いてくれるのね)
「さて、と。フェン! 今日は未来のための投資よ! 私たちの宝物、ちゃんと育っているか確認しに行きましょう!」
私は、フェンを連れて、先日造成したばかりの、我が家のハーブ畑へと向かった。
ひと口に畑と言っても、私が魔法で作ったそれは、もはや小さな植物園と言っても差し支えないほどの規模だ。森との境にあり、日当たりも風通しもよい。土壌は、私が生活魔法で栄養バランスを最適化した、ふかふかの黒土。周囲は、森の動物たちから大切な薬草を守るため、これまた私が魔法で生成した、木の柵で囲まれている。
まさに、至れり尽くせりの環境。
その甲斐あってか、先日植え付けたばかりの薬草たちは、驚くほどのスピードで成長していた。
「まあ、すごい! もう、こんなに大きくなったのね!」
青みがかった丸っこい葉は、太陽の光をたっぷりと浴びて、つやつやと輝いている。
その表面はベルベットのようになめらかで、生命力に満ち溢れていた。
「よし、決めたわ! 今日は、この子たちを使って、回復薬の試作品を作ってみましょう!」
私は、高らかにそう宣言すると、一番元気の良さそうな株から、葉を数枚、丁寧に摘み取った。
葉にそっと触れると、ひんやりとした柔らかな感触。指先で軽くこすると、すうっとするような、爽やかな香りが立ち上った。
「くんくん……わふん」
私の足元で、フェンも、その清涼感のある香りが気に入ったのか、楽しそうに鼻を鳴らしている。
私は、摘み取った薬草を、小さな籠に入れると、いそいそと、家のキッチンへと戻った。
さあ、私流、お手軽錬金術の始まりよ。
◇
ぴかぴかに磨き上げた、キッチンの作業台。
その上に、私は、摘み取ってきたばかりの薬草と、いくつかの道具を並べた。
乳鉢と乳棒、清らかな水を入れたガラスの瓶、そして、空の小さな小瓶。
公爵令嬢だった頃、退屈な薬学の授業で、何度もやらされた作業。あの頃は、ただの面倒な義務でしかなかったけれど、今は違う。
私たちの命を守るために、とても重要な作業。
「まずは、この葉を細かくすり潰して……と」
私は、薬草の葉を乳鉢に入れ、乳棒で、ゆっくりと、丁寧に、すり潰していく。
ごと、ごと、と。
心地よい音が、静かなキッチンに広がる。
やがて、葉は、鮮やかな緑色のペースト状になった。すうっとする爽やかな香りが、あたりにふわりと立ち込める。
「次に、このペーストに、清らかな水を少しずつ加えて……」
私は、ガラスの瓶から、スポイトで数滴、水を垂らした。そして、ペーストと水が、均一に混ざり合うように、さらに乳棒で練り上げていく。
ここまでは、この世界の、ごく一般的な回復薬の作り方だ。
でも、ここからが、私流。
(普通の作り方じゃ、効果はたかが知れてる。もっと、効率よく、有効成分だけを抽出する方法……)
私の頭の中に、前世の知識が閃いた。
そう、確かにあったはずだ。
特定の物質だけを、分離、抽出するための技術。
「……そうだわ! 遠心分離機よ!」
ぽん、と。私は自分の手のひらを叩いた。
もちろん、この世界に、そんな便利な機械はない。
でも、私には、魔法がある。
「見てなさい、フェン! 私流、魔法の科学実験よ!」
「わん?」
キッチンの入り口で、私の作業を興味深そうに眺めていたフェンが、不思議そうに小首を傾げた。
私は、にやりと笑うと、緑色のペーストが入った乳鉢に、そっと手をかざした。
イメージするのは、高速回転。
洗濯機の脱水機能みたいに、乳鉢の中の液体を、目にも留まらぬ速さで、ぐるぐると回転させるのだ。
『サイクロン・セパレート』
私が心の中でそう唱えると、乳鉢の中の液体が、ごおおおっ、と音を立てて、渦を巻き始めた。
凄まじい遠心力によって、液体は、二つの層へと、分離していく。
外側には、不純物を含んだ、濁った緑色の液体。
そして、その中心には、まるで、最高級のエメラルドのように、澄み切った、翠色の液体だけが、集まっていく。
「よし、かかった!」
私は、回転を止めると、中心に集まった、その美しい翠色の液体だけを、スポイトで慎重に吸い上げ、空の小瓶へと移し替えた。
小瓶の中には、太陽の光を浴びて、きらきらと輝く、一滴の雫。
これこそが、薬草の有効成分だけを、極限まで濃縮した、特製の回復薬。
「ふう、完成ね!」
私は、満足げに一つ頷くと、その小瓶を、光に透かしてみた。
その美しさは、まるで宝石のようだ。
「さて、と。問題は、その効果だけど……」
私が、どうやって試したものか、と考えていた、その時だった。
ちょうど、薬草を摘む時に、小枝で指先を、ほんの少しだけ、かすってしまったことを思い出した。
ぷくりと、血が滲んだ、小さな切り傷。
「……よし、これで試してみましょうか」
私は、小瓶の蓋を開けると、その翠色の液体を、一滴だけ、指先の傷にぽとりと垂らしてみた。
ひんやりとした、心地よい感触。
そして、次の瞬間。
「…………え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
信じられない光景が、目の前で起こっていた。
翠色の液体が、傷口に触れた瞬間、しゅわわわわ、と。
まるで、炭酸水が弾けるような、淡い光を発したのだ。
そして、その光が収まった時。
さっきまで、確かにそこにあったはずの、小さな切り傷が。
跡形もなく、綺麗さっぱり、消え去っていたのだ。
まるで、最初から、何もなかったかのように。
「……う、嘘でしょう……?」
私は、自分の指先を、何度も、何度も、見返した。
でも、やっぱり、傷はない。
痛みも、ない。
ただ、すべすべとした、元の綺麗な皮膚があるだけ。
「わ、わふん……」
隣で、一部始終を見ていたフェンも、ぽかんとした顔で、私の指先を、くんくんと嗅いでいる。
(……や、やりすぎた……)
思わず、乾いた笑いがこぼれる。
これは、すごい。
すごい、を通り越して、少しだけ、引いてしまうくらいの性能だ。
街の薬屋で売っている、かなり高価なポーションよりにも引けを取らないだろう。
これがあれば、今後、冒険の安全性が格段に高まる。
「……ふふっ。ふふふふふっ」
笑いが、こらえきれずに口からあふれ出てくる。
「やったわ、フェン! 私たち、とんでもないものを手に入れちゃったわ!」
「わんっ!」
私の、ただならぬ興奮が伝わったのか、フェンも、一緒になって、嬉しそうに一声鳴いた。
私たちは、顔を見合わせると、どちらからともなく、一緒に笑った。
◇
未来への投資作業を終えた私たちは、その後、心ゆくまで休日を満喫した。
穏やかな休日は、まるで夢のように、あっという間に過ぎていく。
日が沈み、空がオレンジ色から深い藍色へと表情を変え始める頃。
外はすっかり暗くなっている。
私はフェンと一緒に、リビングの暖炉でぱちぱちと音を立てて燃える火を眺めながら、夕食後のお茶を楽しんでいた。
休日。
心も体も、すっかりリフレッシュできた。
けれど、そんな穏やかな時間の中でさえ、私の頭の片隅では、次なる冒険への期待がムクムクと湧き出てくる。
(……そろそろ、計画を立て始めないとね)
私が、お茶の入ったカップを、そっとテーブルの上に置くと、自分の部屋へと向かった。
『沈黙の樹海』
一度足を踏み入れれば、二度と出られないと噂される、魔の森。
そして、その攻略の鍵となるのが、これ。
私は、机の上に飾っておいた、あの『道標の石』を、そっと手に取った。
森の深い緑色をした、美しい石。
その表面には、木の年輪のような模様が、まるで呼吸をするように、ゆっくりと、そして優しく明滅を繰り返している。
(この石が、私たちを新しい冒険へと、導いてくれるのね)
私が、その石が放つ、温かい魔力の鼓動に、うっとりと心を奪われていた、その時だった。
―――どんどんどんどんどんっ!
突然、家の玄関の扉が、今にも壊れそうな勢いで、激しく叩かれた。
「な、何事!?」
私は、びくりと肩を揺らした。
こんな夜更けに、一体、誰が。
「がるるるるるるるるる……!」
私の足元で、うたた寝をしていたフェンが、低い唸り声を上げ、臨戦態勢に入る。
扉を叩く音は、一向に止む気配がない。
それどころか、どんどん、その激しさを増していく。
「アリア殿! アリア殿! いらっしゃいますかな!?」
その、切羽詰まった、聞き覚えのある声。
「……ギルドマスター?」
私は、フェンを片手で制しながら、急いで玄関へと向かった。
そして、重い木の扉にあるかんぬきを外す。
ぎぃ、と。
扉を開けた先に立っていた人物の姿を見て、私は、思わず、目を見開いた。
そこにいたのは、やはり、フロンティアのギルドを取り仕切る、ギルドマスターその人だった。
けれど、その姿は、私が知っている、いつもの威厳に満ちた彼とは、まるで別人だった。
自慢の髭は乱れ、その額には、玉のような汗がびっしりと浮かんでいる。肩で、ぜえぜえと、苦しそうな息を繰り返し、その顔は、血の気が引いて、真っ青になっていた。
「マスター? どうかなさいましたか? そんな、血相を変えて……」
「ど、どうしたもこうしたも、ありませんぞ……!」
彼は、私の問いに答える余裕もない、といった様子で、ぜえはあ、と息を整えると、絞り出すような声で、こう叫んだ。
「一大事じゃ、一大事! 街の近くで、大規模な魔物の大発生の前兆が、観測されたんじゃ……!」
「……大発生?」
その不吉な響きを持つ言葉を、私は、静かに繰り返した。
魔物の大発生。
「このままでは……!このままでは、フロンティアの街が魔物に飲まれてしまう!アリア殿、ぜひ、話を聞いてほしいのじゃ!」
ギルドマスターの悲痛な声が、夜の闇に吸い込まれていく。
私の家。
私とフェンが、ようやく手に入れた、かけがえのない宝物。
それが、魔物の大群に蹂躙されてしまう。




