第二十二話:HPの回復は重要です
愛しの我が家が見えてきた。
そう、私たちはついにフロンティアの我が家へと帰ってきた。
私は肺に残っていた都会の空気を、ふう、と大きいため息と共にすべて吐き出した。代わりに吸い込んだのは、庭の芝生の匂いと家の周りを囲む森の木々が運んでくる、どこまでも澄み切った新鮮な空気だ。
ああ、これだ。
これこそが、私の世界。
帰ってきた。心の底からそう思えた。
「ただいま、我が家!」
私が家の門を開け放ち、高らかにそう宣言すると、私の足元をすり抜けるようにして銀色の弾丸が飛び出していった。
「わふぅぅぅんっ!」
その銀色の弾丸――フェンは、久しぶりの我が家の庭の感触を確かめるように芝生の上をどこまでも駆け抜けていく。その姿は、まるで長い旅から解放された喜びを全身で爆発させているかのようだった。
「よし、決めた! 今日からしばらく私たちは休暇よ。本格的な冒険はお休み!」
私がそう宣言すると、庭で走り疲れたのか、家の入り口でぜえぜえと舌を出していたフェンがぴょこんと顔を上げた。その大きな黒い瞳が、「本当か!?」とでも言いたげにまたたいている。
「ええ、本当よ。王都での疲れをまずはじっくり癒さないとね。最高の休日を満喫しましょう!」
「わんっ!」
私の言葉に、フェンは今日一番の元気な声で応えたのだった。
◇
そうして始まった私たちの休日は、控えめに言っても最高だった。
朝は鳥のさえずりで目を覚まし、昼は広大な庭でフェンが飽きるまでボール遊びに付き合う。お腹が空けばぴかぴかのキッチンで腕を振るい、夜は暖炉の前に陣取ってぱちぱちと爆ぜる炎を眺めながらうたた寝をする。誰にも邪魔されない、誰の目も気にしなくていい。ただ、私たちだけの穏やかで満ち足りた時間。その一つ一つが、王都でささくれ立っていた私の心をじわりと癒していくようだった。
そんな、夢のような休日が何日か過ぎた頃だろうか。リビングのソファでフェンを抱き枕代わりに昼寝から目覚めた私は、ぼんやりとした頭でふとそんなことを考えていた。
(……それにしても、平和だわ)
次に挑むべきダンジョンのことは、今すべて頭の隅に追いやっている。けれど、冒険者である限り危険は常に隣り合わせだ。アンデッドの群れも、魔法の効かないゴーレムも、これまでの冒険でどうにか切り抜けてこられたのは運が良かった部分も大きい。
そして、ゲーマーとしての私の勘が警鐘を鳴らしていた。
これから挑むことになるであろう、Aランク冒険者向けのダンジョン。それは、これまでのようないわゆる『チュートリアル』とは訳が違う。敵は格段に強くなり、受けるダメージもきっと比較にならないほど大きくなるだろう。
そうなった時、一番重要になるものは何か。
(……HPや状態異常の回復手段よね)
高難易度のボスに挑む前に準備していたこと。レベル上げ、最強装備の入手……いや、それらももちろん重要だったけれど、回復アイテムの大量確保もその一つだった。
HPが尽きれば、どんな屈強な勇者だってただの動かないキャラクターになってしまうのだから。
それに状態異常は、死に直結する。
それを解決するには私には『浄化』の魔法があるけれど。
手段は複数あるに越したことはない。
この世界で言えば、それは回復薬、ポーションや薬草ということになる。
もちろん街の薬屋で買うこともできる。でも質の良いものは驚くほど高価だし、何よりいざという時に「在庫切れでした」なんてことになったら目も当てられない。
(……だったら、どうするか)
答えは、もう私の頭の中にはっきりと浮かんでいた。
「そうだわ。作ればいいのよ。自給自足よ!」
私はソファから勢いよく起き上がった。私の突然の行動に、隣で気持ちよさそうに寝ていたフェンがびくりと体を揺らして目を覚ます。
「ごめんごめん、フェン。いいことを思いついたの。ちょっと庭を散歩しましょうか。未来のための宝探しにね」
「わん?」
私の言葉に、フェンは不思議そうに小首を傾げた。
私はそんな相棒を促し、今後の私たちの冒険の生命線を確保すべく、広大な自宅の庭へと意気揚々と足を踏み出したのだった。
◇
「さて、と。まずは宝の地図ならぬ、宝のありかを探しましょうか」
私はフェンを連れて広大な庭の散策を始めた。
ひと口に庭と言っても、我が家の敷地はもはや小さな森と言っても差し支えない広さだ。私が魔法で整備した芝生のエリアは全体のほんの一部で、残りはまだ手つかずの自然が広がっている。
私たちは、家の裏手、その森とのちょうど境目あたりを目的地に定めた。こういう薬草の類は、人の手が加わった場所よりも自然な環境に自生していそうだと思ったからだ。
「くんくん……わふん」
私の少し前を歩くフェンが、楽しそうに鼻を鳴らしながら土の匂いを嗅ぎ回っている。彼にとっては、この宝探しも楽しい遊びの一環なのだろう。その銀色の尻尾が期待に満ちて左右にぱたぱたと揺れている。
背の高い雑草をかき分け、見たこともないような花を踏まないように気をつけながら私たちはゆっくりと進んでいく。
公爵令嬢時代に叩き込まれた薬草学の知識と、冒険者として得た経験。それらを総動員し、私は薬草として使えそうな植物を探し始めた。
葉の形、茎の色、土の匂い。
回復効果を持つ植物には特有の兆候があるはずだ。微かな魔力の気配や、虫除けの効果を持つ独特の香り。そういったものを五感を研ぎ澄ませて探していく。
けれど、現実はそう甘くはなかった。
「うーん……。ただの雑草ばかりね……」
これじゃない、あれでもない。
似たような葉を持つ植物はいくつか見つかる。けれど、薬草と呼べるほどの確信が持てるものにはなかなか出会えない。
私が少し諦めかけて額の汗を手の甲で拭った、その時だった。
それまで私の周りをうろうろしていたフェンが、不意にぴたりと足を止め、一点を凝視したままくんくんと熱心に鼻を鳴らし始めた。
「ん? どうしたの、フェン。何か見つけた?」
「わふん!」
彼は「こっちだ!」とでも言うように一度だけ短く鳴くと、とある大きな樫の木の根元にある茂みの中へと、もふもふの体を潜り込ませていった。
私も、彼の後を追ってその茂みを覗き込んでみる。
そこにひっそりと、しかし力強く生えていたものを見て、私は思わずはっとした。
「……これって……」
そこにあったのは、少し青みがかった丸っこい葉。その表面はベルベットのようになめらかで、朝露を弾いてきらきらと輝いている。
公爵令嬢時代の薬草学の知識が、囁いていた。
私はその葉にそっと触れてみた。
ひんやりとした柔らかな感触。指先で軽くこすると、すうっとするような爽やかな香りが立ち上った。
ああ、間違いない。この香りと葉に含まれる微かな魔力の気配。
これは薬草だ。
(……すごい。大当たりじゃない……!)
これこそが、私が探し求めていた基本的な素材。
けれど、これは今の私にとって最高の宝物だ。
「やったわ、フェン……! あなたのお手柄よ! すごいものを見つけちゃったわ!」
「くぅん?」
私のただならぬ興奮が伝わったのか、フェンは不思議そうな顔で私のこととその雑草を交互に見比べている。
ごめんね、フェン。あなたにはこれがただの草にしか見えないでしょうけれど。
私にとっては、ずっと価値のあるものなのよ。
「よし! この子たちをもっともっと、増やしてあげる!」
私は高らかにそう宣言すると、その場で早速、畑作りを開始することにした。
業者を呼ぶ? 鍬を振るう?
いいえ、そんなものは必要ない。
私には、どんな熟練の農夫よりも頼りになる最高の技術があるのだから。
「さあ見てなさい、フェン! 私流、DIYよ!」
私はにやりと笑うと、地面に両手をかざした。
まずは土魔法。イメージするのはこの一帯の地面を深く深く耕していくこと。邪魔な雑草の根もごろごろとした石ころも、全部土の奥深くへと埋めてしまい、表面をふかふかの柔らかな土だけにする。生活魔法の応用で、土壌に含まれる栄養素を最適なバランスに調整することも忘れない。
ごごごごと大地が生き物のようにうねりを上げ、みるみるうちに理想的な畑の土壌へと姿を変えていく。
「次は水魔法よ!」
私は近くの井戸から清らかな水を魔力で操作して引き寄せる。そしてそれを霧雨のように、畑全体へ優しくまんべんなく降らせた。
土がごくごくと美味しそうに水を吸い込んでいくのが分かる。
「仕上げはこれね!」
私は土魔法をもう一度発動させる。
今度のイメージは畑の周りを囲む頑丈な柵。森の動物たちに、この大切な聖地を荒らされないように。
地面からにょきにょきと木の杭と頑丈な板が生きているかのように生え出し、あっという間に立派な柵が完成した。
ほんの数十分の出来事。
あれだけ荒れ放題だった雑草地は見る影もなく、誰が見ても手入れの行き届いた、非の打ちどころがない畑へと姿を変えていた。
「……ふう。こんなものかしらね」
「わふぅ……」
一部始終をぽかんとした顔で見守っていたフェンが、感心したようにほう、とため息をついた。
「さあ、一番大事な作業が残っているわよ」
私は先ほど見つけた『薬草』の群生地へとそっと近づいた。
そして繊細な根を決して傷つけないように、土魔法で周囲の土ごと優しくふわりと持ち上げる。
そしてそれを、新しく作った畑の一番日当たりの良い特等席にそっと植え付けた。
「よし。これで一安心ね。これで今後、薬草を安定して入手できるわ!」
「くぅん!」
私の言葉に、フェンは嬉しそうに一声鳴いて私の足にすりと体を寄せてきた。
◇
未来への最高の投資を終えた私たちは、その後心ゆくまで休日を満喫した。
お腹が空けば、キッチンで腕を振るう。そして、眠たくなればリビングのソファでフェンを抱きしめてうたた寝をする。
もちろん、広大な庭でのボール遊びも忘れてはいない。
「さあ、フェン! 今度こそ思う存分遊びましょうか!」
私が革で作ったボールを高く放り投げると、フェンは銀色の弾丸となってそのボールを追いかけた。
走る、跳ぶ、そして見事に空中でボールをキャッチする。
その流れるような動きは、もはや芸術の域に達しているとさえ思う。
私たちは日が少しだけ西に傾き始めるまで夢中になって遊び続けた。
追いかけっこをしたり、私が土魔法で作った即席の障害物コースで彼の驚異的な身体能力を試したりした。
フェンの心の底から楽しそうな、喜びに満ちた鳴き声が広い庭にいつまでも広がっていた。
穏やかな休日は、まるで夢のようにあっという間に過ぎていく。
日が沈み、空がオレンジ色から深い藍色へと表情を変え始める頃。
私たちはリビングの暖炉でぱちぱちと音を立てて燃える火を眺めながら、食後のお茶を楽しんでいた。
最高の休日。
心も体もすっかりリフレッシュできた。
けれど、そんな穏やかな時間の中でさえ私の頭の片隅では、次なる冒険への期待が小さな炎のように燃え始めていた。
(……そろそろ計画を立て始めないとね)
私はお茶の入ったカップをそっとテーブルの上に置くと、自分の部屋へと向かった。
そしてまだ真新しい木の机の上に、一枚の大きな羊皮紙を広げた。
それは王都のギルド本部で私が書き写してきた、この国に存在する未踏破のダンジョンに関する極秘の資料だった。
羊皮紙の上には、貴族令嬢時代に培った私の流れるような美しい筆跡で、いくつかのダンジョンの名前とその特徴がびっしりと書き込まれている。
『沈黙の樹海』――一度足を踏み入れれば二度と出られないと噂される魔の森。
『灼熱の火山』――灼熱の溶岩が川のように流れ、炎の魔物が闊歩する地獄のダンジョン。
どれもこれも、その名前を聞くだけで冒険心をこれでもかとくすぐられる最高の名前だ。
けれどその中でも、ひときわ私の心を強く惹きつけてやまない名前があった。
「……『天空の塔』」
ぽつりと、私はその名前を声に出して呟いていた。
資料によれば、その塔は空に浮かぶ島に存在し、その頂は常に分厚い雲の中に隠されているという。
そして何よりも、私のゲーマー魂を燃え上がらせたのはその次の一文だった。
『塔の内部は、下から上へと常に凄まじい風が吹き荒れており、これまで数多の冒険者が挑戦したものの、誰一人として頂上にたどり着いた者はいない』
未踏破。
その三文字が持つ甘美な魅力。
誰もクリアしたことがない。
誰もその頂からの景色を見たことがない。
凄まじい風という厄介な環境ギミック。
それはもはや、私に対して「挑戦してみろ」と挑発しているようにしか思えなかった。
(……面白くなってきたじゃない)
私の口元に自然と好戦的な笑みが浮かんだ。
穏やかな休日はもちろん最高だ。
でも、やっぱり私は根っからの冒険者なのだ。
未知への挑戦、困難の克服。
それこそが、私の魂を一番輝かせる。
「わふん?」
いつの間にか私の足元に来ていたフェンが、私のただならぬ気配を感じ取ったのか心配そうに顔を上げてきた。
「大丈夫よ、フェン。ただ次の冒険がとんでもなく面白そうだと思っただけ」
私は彼の頭をくしゃくしゃと掻き回しながら言った。
私は立ち上がると、窓の外に広がる月明かりに照らされた私たちの庭を眺めた。
その一角で、私が今日植えたばかりの薬草たちが静かに夜風に揺れている。
最高の休日は終わった。
次なる冒険への最高の準備運動は済んだんだ。
私は誰に言うでもなく、そっと呟いた。
「さあ、始めましょうか。次の冒険の準備を」




