第二十一話:悪夢の再会、そして伝説は続く
王都のB級グルメ探訪は、控えめに言っても最高だった。
香ばしい串焼きの肉汁、蜂蜜がとろりとかかった甘い焼き菓子、そして市場の活気。そのどれもが、凝り固まっていた私の心を、じわりと解きほぐしてくれた。すっかり満ち足りた気分で城に戻ると、案の定、私たちの失踪に気づいた兵士たちが、血相を変えて右往左往していた。
「あ、アリア殿! どちらへ行かれていたのですか!」
私とフェンの姿を見つけた若い兵士が、涙目になって駆け寄ってくる。
私はそんな彼に、公爵令嬢時代に叩き込まれた、一点の曇りもない淑女の微笑みを向けてみせた。
「まあ、ごめんなさいな。少しだけ、外の空気が吸いたくなってしまって。辺境の暮らしが長かったものですから、どうにも、じっとしているのが苦手になってしまったようですわ」
私のあまりにもしれっとした言い分に、兵士はぽかんと口を開けていたけれど、Aランク冒険者という肩書と、私の妙な威圧感の前に、それ以上何も言えなくなってしまったようだった。
私たちは、半ば強引に控えの間へと連れ戻され、侍女たちが大慌てで用意した、謁見用の豪奢なドレスへと着替えさせられた。体にぴったりと沿う絹の生地、胸元を飾る過剰なレース、そして動きを著しく制限する窮屈なコルセット。革鎧に慣れ親しんだ今の私にとって、それはもはや戦闘服というよりは、拘束具に近い。
(ああ、面倒くさい……。早くギルド本部に行って、新しいダンジョンの情報が見たいのに……)
私の心は、すでにここにはなかった。
けれど、これも目的のため。そう自分に言い聞かせ、私は完璧な淑女の仮面を、再び顔に貼り付けたのだった。
◇
謁見の間。
その場所は、私が記憶していたよりも、ずっと冷たくて、広々としていた。
磨き上げられた大理石の床は、そこに立つ人々の姿をぼんやりと映し出し、遥か高い天井からは、巨大なシャンデリアが、無機質な光を降り注いでいる。ずらりと並んだ貴族たちの顔、顔、顔。そのどれもが、私にとっては見覚えのある、そして同時に、二度と関わりたくもない人々だった。
部屋の奥、一段と高くなった場所に設えられた玉座には、この国の頂点に立つ国王陛下が、退屈そうな顔で座っている。
そして、その玉座のすぐ脇。
一番の上座に近い場所に、見るからにやつれた顔で、一人の青年が座っていた。
(……あら)
私の感覚が、ほんの少しだけ、ちりりと反応した。
別に、懐かしさとか、そういう温かい感情ではない。
ただ、純粋に、目の前の光景に対する驚き。
かつての婚約者、アレクシオス王太子。
輝くばかりだった金色の髪は艶を失い、空色だったはずの瞳は、どんよりと濁っている。目の下には、隈が色濃く浮かび上がり、その頬は痛々しいほどにこけていた。まるで、高難易度のクエストに三日三晩不眠不休で挑み続けて、精神をすり減らしたプレイヤーのような、そんな悲壮感に満ちた姿。
彼は、落ち着かない様子で、謁見の間の入り口を、しきりに気にしている。これから現れるという、謎の英雄『アリア』の登場を、固唾を飲んで待ち構えているのだろう。
(……うわあ。本当に、噂通りなのね)
私は、内心で、少しだけ同情してしまった。
自分の盛大な勘違いで、勝手にここまで追い詰められてしまうなんて。ある意味、すごい才能だ。
やがて、謁見の間の巨大な扉が、ゆっくりと開かれた。
そして、甲高い声で、使者が私の名を告げる。
「辺境の英雄、Aランク冒険者、アリア殿の入場ー!」
その声と共に、私は、フェンを連れて、静かに広間へと足を踏み入れた。
全ての視線が、私一人に、針で刺すように集中するのが分かる。
好奇、侮蔑、そして、畏怖。
様々な感情がごちゃ混ぜになった視線の奔流を、私は、まるで心地よいそよ風でも浴びるかのように、優雅に受け流す。
そして、玉座の前まで進み出ると、体に染みついた、最も美しい淑女の礼法に則って、深く、深く、頭を下げた。
顔を上げた、その瞬間。
ついに、私と、アレクシオスの視線が、真正面からぶつかった。
◇
「………………」
時が、止まった。
いや、正確に言えば、アレクシオス王太子殿下だけが、時間が止まった世界に取り残された。
彼の青い瞳が、信じられないものを見るかのように、これ以上ないくらいに、まん丸に見開かれる。
半開きになった口からは、何の音も発せられない。
血の気が、さあっと、引いていくのが、遠目からでもはっきりと分かった。その顔は、もはや青白いを通り越して、上質な陶器のように、真っ白になっている。
辺境に現れた、謎の英雄。
自分の王位すらも脅かす、恐るべき革命家。
その正体が、まさか、自分が無一文で追放した、か弱いはずの元婚約者だったなどとは。
彼の容量の少ない頭脳では、到底、処理しきれない情報量だったのだろう。
彼の動きは、完全に停止した。
まるで、高位の石化魔法でも食らったみたいに、ピクリとも動かない。
そのあまりに異様な姿に、周りの貴族たちも、国王陛下でさえも、「どうしたのだ?」と、怪訝そうな顔で、彼と私を交互に見比べている。
(ああ、面白い。面白すぎるわ、この状況!)
内心では、腹を抱えて笑い転げたいのを、必死でこらえていた。
そんな、カオスな状況の中心で。
私は、にっこりと、花の咲くような微笑みを浮かべてみせた。
そして、私は、石像のようになった彼に、追い打ちをかけるように、優雅に、どこまでも無邪気に声をかけたのだ。
「あら、お久しぶりですわね、アレクシオス殿下。お元気そうで、何よりです」
その、淑女然とした、しかし、今の彼にとっては悪魔の囁きにも等しいであろう言葉が、静まり返った謁見の間に、ことさら、よく響き渡った。
アレクシオスが、その言葉に、何か意味のある反応を返せるはずもなかった。
◇
結局、謁見が終わるまで、アレクシオス王太子が、再び動き出すことはなかった。
彼は、ただの一度も瞬きをすることなく、魂の抜け殻のように、虚空を見つめたまま、玉座の脇に座り続けていた。
国王陛下から、私の功績を称える、長くて退屈な祝辞が述べられ、大袈裟な勲章が授与された。私はその全てを、「身に余る光栄です」という、便利な言葉一つで、そつなくこなしていく。
私の頭の中は、もう、この後のギルド本部での情報収集のことで、いっぱいいっぱいだったのだから。
謁見の間では、貴族たちが、ひそひそと囁き合っているのが聞こえる。
「おい、見たか? 王子殿下の、あのご様子を……」
「ああ……。あのアリアという冒険者が現れた途端、まるで、金縛りにでもあったかのようだったな……」
「まさか、あれが、噂に聞く英雄の『覇気』というやつなのか……?」
どうやら、私の知らないところで、また一つ、新たな伝説が生まれようとしているらしい。
面倒くさいこと、この上ない。
謁見が終わると、私は、その後に行われるという、退屈な祝賀会を、適当な理由をつけて丁重に辞退した。授与された勲章も、「このような高価なもの、私には不相応です」と、近くにいた侍従に、半ば押し付けるようにして預けてしまう。
そんなものより、私には、もっともっと大切なものがあるのだ。
◇
「ごめんくださいな」
王城を抜け出した私とフェンが、その足で向かったのは、王都の中央広場に、ひときわ高くそびえ立つ、壮麗な建物だった。
王都冒険者ギルド本部。
この国中の全てのギルド支部を統括する、情報の中枢。
フロンティアの、あの木の温もりがあるギルドとは、何もかもが違う。大理石で作られた床、磨き上げられたマホガニーのカウンター、そして、行き交う冒険者たちの、誰もが、歴戦の猛者といった雰囲気を漂わせている。
「いらっしゃいませ。ご用件は?」
カウンターの向こうで、眼鏡をかけた、いかにも仕事ができそうな受付の女性が、事務的な口調で尋ねてくる。
私は、黙って、懐から取り出した、真新しいプラチナのギルドカードを、カウンターの上に置いた。
そこに刻まれた、『ランクA』の文字。
それを見た瞬間、受付の女性の、鉄壁のポーカーフェイスが、わずかに揺らいだのが分かった。
「……失礼いたしました。Aランク冒険者様でしたか。して、ご用件は?」
彼女の口調が、明らかに、先程よりも丁寧なものになっている。
分かりやすくて、大変よろしい。
「情報開示を、お願いしたいのです。この国に存在する、高難易度に指定されている、未踏破のダンジョン。それら全ての情報を」
私の、単刀直入な要求に、受付の女性は、一瞬だけ、言葉を失ったようだった。
けれど、すぐに我に返ると、「……分かりました。こちらへどうぞ」と、私を奥の特別な一室へと案内してくれた。
通されたのは、書庫、と呼ぶにふさわしい部屋だった。
壁一面の本棚には、古今東西のダンジョンに関する資料が、これでもかというくらい、ぎっしりと詰め込まれている。
その光景は、私にとって、どんな宝石やドレスよりも、ずっとずっと、魅力的に見えた。
(……すごい。すごいわ、これ……!)
私の心は、新しいゲームの攻略本を、山のように買い込んでもらった子供みたいに、わくわくが止まらなかった。
私は、受付の女性が淹れてくれたお茶もそこそこに、夢中になって、資料の山を読み漁り始めた。
『天空の塔』、『沈黙の樹海』、『灼熱の火山』……。
どれもこれも、その名前を聞くだけで、冒険心をくすぐられるような、最高の舞台ばかりだ。
(……やったわ。大当たりよ、これ!)
私は、その中でも、特に興味を引かれた、いくつかのダンジョンの地図と資料を、羊皮紙に書き写させてもらった。
これで、向こう一年は、冒険のネタに困ることはないだろう。
◇
王都での、全ての目的を果たした私は、その日の夕方には、もう、帰路についていた。
一分一秒でも早く、この息の詰まる街から、抜け出したかったのだ。
王都の西門をくぐり、辺境へと続く街道を歩きながら、私は、道行く商人たちの噂話を、それとなく耳にした。
「おい、聞いたか? 今日、城で行われた謁見のこと」
「ああ、聞いた聞いた。なんでも、あの謎の英雄殿の、あまりの覇気に当てられて、王子殿下が、その場で気を失っちまったんだってな」
「ひええ……。一体、どんなお方なんだろうな、その英雄殿ってのは……」
どうやら、私の新たな伝説は、すでに、こんなところまで広まっているらしい。
私は、くすり、と。
誰にも気づかれないように、小さく笑った。
(せいぜい、一生もののトラウマを、大事になさいませ、王子様)
そんな、少しだけ意地悪なことを、心の中で呟きながら。
私の頭の中は、もう、次に攻略するダンジョンのことで、いっぱいいっぱいだった。
叙勲も、貴族社会も、過去の因縁も。
今の私にとっては、もう、どうでもいいこと。
大切なのは、これから始まる、新しい冒険、ただ一つ。
「さあ、帰りましょうか、フェン。私たちの、愛しの我が家へ!」
「わふん!」
私の元気な声に、フェンも待ってましたとばかりに、高らかに一声吠えた。
私たちは、夕日に染まる街道を、意気揚々と歩き始めた。




