第十九話:心霊現象(偽)
王都までは、思っていたよりもずっと長い道のりだった。
フロンティアの街を出てから、もう何日歩き続いただろうか。街道はよく整備されていて歩きやすいけれど、代わり映えのしない景色が続くと、さすがに少しだけ飽きてくる。のどかな田園風景が、どこまでもどこまでも続いている。
「わふーん……」
私の隣を歩いていたフェンが、退屈そうに大きなあくびを一つした。その気持ちは、よく分かる。私も、そろそろどこか街に立ち寄って、美味しいものでも食べて、ふかふかのベッドで休みたかった。
そんな私たちの願いが通じたのか、道の向こうに、小さな村の姿が見えてきた。煙突から立ち上る煙も見える。人の営みの匂いだ。
「フェン、見て! 村よ! きっと美味しいご飯にありつけるわ!」
「わんっ!」
私の言葉に、さっきまでだらけきっていたフェンの耳がぴんと立ち、その銀色の尻尾がぶんぶんと期待に満ちて揺れ始めた。単純で、実に可愛らしい。
私たちは逸る気持ちを抑えきれずに、少しだけ早足になってその村へと向かった。
けれど。
「……あら?」
村に近づくにつれて、私の心の中に、小さな違和感が芽生え始めていた。
活気がないのだ。
街道を歩いている時も、畑仕事をしている村人の姿をほとんど見かけなかった。村の入り口まで来たというのに、子供たちの遊ぶ声も、家畜の鳴き声も聞こえてこない。ただ、乾いた風が、ひゅう、と埃っぽい土を巻き上げていくだけ。
「くんくん……」
フェンも、何かを感じ取ったらしい。期待に揺れていた尻尾はいつの間にかしょんぼりと垂れ下がり、不安そうに鼻をひくつかせている。彼が楽しみにしていた、パンの焼ける香ばしい匂いや、シチューの煮える美味しそうな匂いが、この村からは全くしてこないのだ。
村の中は、まるで時間が止まってしまったかのように、静まり返っていた。
道端には、力なく座り込んでいる老人の姿がちらほらと見える。家々の扉は固く閉ざされ、窓も雨戸が下ろされているところが多い。道行く人々は皆、痩せて、土気色の顔をしていて、その目には生気がなかった。
「……これは、ひどいわね」
ぽつり、とそんな言葉が漏れた。
どうやら、この村は何か大きな問題を抱えているらしい。
私たちは、村に一軒だけある、小さな宿屋の扉を叩いた。中から出てきたのは、白髪頭の、皺だらけの顔をした宿屋の主人だった。彼もまた、他の村人たちと同じように、ひどく疲れ切った顔をしていた。
「旅の方かい? すまねえが、今、この村には、客人に食わせるようなもんは、何もねえだよ……」
彼は、申し訳なさそうにそう言うと、乾いた咳を一つした。
「何かあったのですか? この村は、ひどく静かですけれど」
私の問いに、主人は、諦めきったような、深いため息をついた。
「日照りさ。もう、何か月も、まともに雨が降ってねえ。畑はからからに干上がって、作物はみんな枯れちまった。井戸の水も、もう底をつきかけてる……」
なるほど、飢饉か。
それは、個人でどうこうできる問題ではない。
「王都に助けを求めたりはしなかったのですか?」
「したさ。何度もな。でも、お役人様が来てくれるのは、いつになることやら。それまで、わしらがもつかどうか……」
彼の言葉には、深い絶望の色が滲んでいた。
これでは、フェンが楽しみにしていた美味しい食事どころか、私たち自身の食料の補給もままならない。それは、非常に困る。
「……それだけでは、ないんでしょう?」
私がそう尋ねると、主人は、びくり、と肩を揺らした。そして、まるで何かを恐れるかのように、周囲をきょろきょろと見回してから、声をひそめた。
「……あんた、冒険者かい?」
「ええ、まあ。一応は」
「だったら、この先の峠には、近づかねえ方がいい。……あそこには、山賊が出る」
「山賊……」
ファンタジー世界における、お決まりの悪役の登場だ。
「ああ。それも、ただの追い剥ぎじゃねえ。何十人もいる、大規模なやつらだ。近隣の村々を襲っては、食料を根こそぎ奪っていく。あいつらが、峠の砦に立てこもってるせいで、わしらは街へ助けを求めに行くことも、食料を買い付けに行くこともできねえ。まさに、八方塞がりってわけさ」
日照りで食料が育たない。
やっと手に入れたわずかな食料も、山賊に奪われる。
助けを呼ぶ道も、塞がれている。
なるほど、これは確かに、絶望的な状況だ。
村人たちが、生きる気力さえ失ってしまうのも、無理はない。
◇
その夜。
私たちは、宿屋にある、埃っぽい一部屋を借りていた。
夕食として出されたのは、水で薄めた、味のしない豆のスープと、手のひらほどの大きさの石みたいに硬い黒パンだけ。
「わふぅ……」
私の足元で、フェンが悲しそうな声で、くんくんと鼻を鳴らしている。
私は、そんな彼のために、こっそりと持参していた特製の干し肉を数枚、お皿に出してあげた。もちろん、浄化魔法をかけて、少しだけ水分を含ませて、柔らかくしてから。
「わふっ! わふっ!」
フェンは、尻尾をちぎれんばかりに振りながら、夢中でその干し肉にかぶりついている。その幸せそうな顔を見ていると、少しだけ心が和む。
でも、このままではいけない。
私の保存食も、無限にあるわけではないのだから。
(……面倒なことになったわね)
ぱち、ぱち、と。部屋の隅にある暖炉で、残り少ない薪が、か細い音を立てて爆ぜている。その小さな炎の揺らめきをぼんやりと眺めながら、私はこれからのことを考えていた。
この村に長居はできない。
かといって、このまま王都へ向かうにしても、あの山賊団がいる峠道を通らなければならない。
下手に遭遇して、私たちの食料が狙われるなんてことになったら、それこそ最悪だ。戦闘になれば、勝てない相手ではないだろうけれど、無駄な戦闘は極力避けたい。疲れるし、何より、私の美学に反する。
正義感から、この村を救ってあげようだなんて、そんな殊勝な考えは、私の中には一ミリたりとも存在しない。
ただ、純粋に。
『美味しいご飯が食べられないのは、大問題』であり、『自分たちの食料が狙われるのも、ひどく面倒』。
私の動機は、常に、その二点だけだ。
(……でも、待てよ)
この、二つの問題を、一気に解決できる方法が、あるんじゃないかしら?
山賊を、峠の砦から追い出す。
そうすれば、街道の安全は確保されるし、彼らが溜め込んでいる食料も、手に入るかもしれない。
まさに、一石二鳥。
(よし、決めたわ)
私の頭の中に、一つの、実にくだらない、しかし効果的な作戦が、閃光のようにきらめいた。
前世で、夜な夜なやり込んだ、あのホラーゲームの知識。
あれを、応用する時が来たようだ。
「……ふふっ」
思わず、口元から、悪戯っぽい笑みがこぼれた。
「フェン、ちょっと、夜のお散歩に行きましょうか。面白いものが見られるかもしれないわよ」
「くぅん?」
干し肉を平らげ、満足げにしていたフェンが、不思議そうな顔で、私のことを見上げてきた。
◇
月明かりもない、漆黒の夜。
私は、フェンを村の宿屋に残し、単独で、例の峠道へと向かっていた。
ひんやりとした夜風が、頬を撫でていく。どこか遠くで、夜行性の獣が、寂しげな声で鳴いていた。
やがて、道の先に、巨大な影が見えてきた。
山賊たちが根城にしているという、古い砦だ。
見張り台には、松明の明かりがいくつか見え、時折、人影が動いているのが分かる。
私は、物陰に身を隠し、砦の様子をじっくりと観察した。
入り口の門は固く閉ざされ、その前では、屈強そうな見張りが二人、あくびをしながら立っている。
正面から突破するのは、愚の骨頂だ。
(さて、と。始めましょうか。オペレーション『幽霊屋敷』、スタートよ)
私は、にやりと笑うと、黒檀の杖を、そっと懐から取り出した。
私の目的は、戦闘じゃない。
彼らを、この砦から、綺麗さっぱり追い出すこと。
そのために、最高のホラー演出を用意してあげるのだ。
まずは、音響効果から。
私は、目を閉じ、意識を集中させる。
風魔法の応用。イメージするのは、砦全体を、一つの巨大な楽器と見立てること。壁の隙間を通り抜ける風の音をうまく活用するのだ。
ひゅううううううううう……。
すると、それまでただの風の音だったものが、まるで、誰かが悲しげに、低くうめいているかのような、不気味な音へと変わった。そのうめき声は、砦の石壁に反響し、どこからともなく聞こえてくるように、砦全体を包み込んでいく。
「……ん? なんだ、今の音……?」
「さあな……。風の音だろ……?」
門の前にいた見張りの一人も、その不気味な音に気づいたらしい。きょろきょろと、不安そうに辺りを見回している。
(ふふっ、いい反応ね。次は、視覚効果といきましょうか)
私は、今度は光の魔法を発動させる。
イメージするのは、青白い、ぼんやりとした光の玉。いわゆる、『人魂』というやつだ。
ぽん、ぽん、と。
私の指先から、豆粒ほどの大きさの光の玉が、いくつも生み出される。
そして、それらを、まるで生きているかのように、砦の城壁の上や、窓のない暗い部屋の奥で、ふらふらと、ゆっくりと漂わせる。
「お、おい! あれ、見ろよ! なんだ、あの光は……!」
「ひっ……!ひっ、ひっ……!?」
見張りたちの声が、明らかに動揺で上ずり始めた。
彼らが、砦の中にいる仲間を、大声で呼び始める。
わらわらと、屈強そうな山賊たちが、何事かと砦の中から姿を現した。その誰もが、怪訝そうな顔で、砦の周りで起こっている奇妙な現象を見つめている。
(よし、役者は揃ったわね。それでは、メインディッシュといきましょうか!)
私は、土魔法と水魔法を、同時に、そして精密にコントロールする。
イメージするのは、砦の石壁の、その内部。
石と石の隙間に、地下から吸い上げた水分と、鉄分を多く含んだ赤土を、混ぜ合わせる。そして、それを、じわじわと、壁の表面に、染み出させていくのだ。
じわ…………。
じわじわじわ…………。
砦の、古びた石の壁。
あちこちから。
まるで、壁そのものが、内側から血を流しているかのように、どろりとした、赤黒い液体が、ゆっくりと、ゆっくりと、染み出し始めた。
もちろん、それはただの泥水だ。
けれど、松明の頼りない明かりの下では。
それは、紛れもなく、本物の血のように見えただろう。
「な、な、な、なんだ、ありゃあああああああああああああっ!?」
「か、壁が……! 壁が、血を流してるぞおおおおおおおおっ!」
「ひいいいいいいいいいいいいっ! 呪いだ!この砦は、呪われてるんだ!」
その、あまりにもおぞましく、そして非現実的な光景は、山賊たちの、なけなしの理性を、完全に粉砕した。
彼らの間に、パニックという名の伝染病が、あっという間に広がっていく。
「だ、ダメだ! もう、こんなとこにいられるか!」
「逃げろ! 逃げろおおおおおおおっ!」
誰かがそう叫んだのを皮切りに、山賊たちは、蜘蛛の子を散らすように、我先にと逃げ出し始めた。
武器も、鎧も、そして、あれだけ大事に溜め込んでいた食料も、全て放り出して。
ただ、この呪われた砦から、一刻も早く逃げ出したい、その一心で。
砦の門が、内側から勢いよく開け放たれ、男たちの、絶叫と、泣き声と、悲鳴がごちゃ混ぜになった、情けない声の洪水が、夜の闇の中へと吐き出されていく。
私は、その一部始終を、物陰から、満足げに眺めていた。
(ふふん。どんな屈強な男でも、不条理な幽霊には勝てないものなのよ)
前世のホラーゲーム制作者に心から感謝した。
最高の攻略法を、ありがとう、と。
◇
山賊たちが、完全に姿を消したのを確認した後。
私は、まるで自分の家のように、堂々と、砦の門をくぐった。
中は、もぬけの殻だった。
床には、彼らが慌てて落としていったのであろう、剣や斧が、無造作に転がっている。
そして、砦の奥にある、貯蔵庫。
その扉を開けた瞬間、私は、思わず、ほう、と感嘆の声を漏らした。
そこには、まさしく、宝の山が眠っていた。
干し肉、塩漬けの魚、小麦粉の袋、チーズの塊、そして、葡萄酒の樽。
近隣の村々から奪ってきたのであろう、大量の食料が、天井までうず高く積まれていたのだ。
(これだけあれば、あの村の全員が、しばらくは食いっぱぐれることはないでしょうね)
私は、満足げに一つ頷くと、砦を後にした。
もちろん、食料には、指一本触れていない。
村へと戻る道すがら、私は、羊皮紙の切れ端に、羽ペンで、簡単な置き手紙を書いた。
『西の峠にある砦、幽霊が出るので無人になりました。ご自由にお使いください。食料もたくさん残っていますよ』
そして、砦の簡単な見取り図も添えておく。
村に戻ると、私は、その手紙を村長の家の古びた木の扉に、小さなナイフで突き刺しておいた。
これで、私の仕事はおしまいだ。
夜が明ける前に、私たちは、この村を立ち去る。
誰に感謝される必要もない。
ただ、快適な旅路が確保されれば、それで良かったからだ。




