第十七話:Aランクの一人と一匹
ひんやりとした鉱山の空気から、むわりと生暖かい外の世界へ。
主が作ってくれた即席のトンネルを抜けた瞬間、肺いっぱいに吸い込んだ太陽の匂いがする空気は、驚くほど新鮮で甘く感じられた。土と草の匂い、そしてどこか遠くで鳴く鳥の声。当たり前のはずの世界が、今はひどく愛おしい。
振り返っても、そこにごつごつとした岩肌があるだけ。今しがた自分たちが出てきたはずのトンネルの入り口は、まるで最初から存在しなかったかのように、その痕跡を綺麗さっぱり消していた。
(本当に、狐につままれたみたいね。でも……)
私は、自分の腕の中に抱えた、ずしりと重い木箱をぎゅっと抱きしめ直した。
指先に伝わる、硬くて、少しだけ湿った木の感触。この中には、あの巨大な土竜の主から譲り受けた、未知のお宝が眠っている。夢じゃない。これは、紛れもない現実だ。
「わふん!」
私の隣で、フェンが体をぶるぶると大きく震わせた。鉱山の中で少しだけ汚れてしまった銀色の毛皮から、細かい土埃がぱらぱらと飛び散る。そして、まるで全身で喜びを表現するかのように、その場でぴょん、と一度だけ高く跳ねた。
「ふふっ、お疲れ様、フェン。今回も、あなたのおかげで最高の冒険になりましたね。本当に、ありがとう」
「くぅん!」
私がその頭をわしゃわしゃと撫でてやると、フェンは気持ちよさそうに目を細め、私の手にぐりぐりと頭を押し付けてくる。その温かさが、たまらなく愛おしい。
空を見上げれば、山岳地帯特有の、どこまでも澄み切った青空が広がっていた。まるで、私たちの冒険の成功を祝福してくれているみたいだ。
「さあ、帰りましょうか!愛しの我が家へ!」
「わんっ!」
私の元気な声に、フェンも待ってましたとばかりに、高らかに一声吠えた。
足取りは、来た時とは比べ物にならないくらい軽い。
心の中では、すでに、腕に抱えた宝箱の中身について、ありとあらゆる妄想が始まっていた。
中身は金銀財宝かしら? それとも、伝説級の魔道具? あるいは、ドワーフの技術が記された設計図、なんていうのもロマンがあっていいわよね……!
そんな、薔薇色ならぬ虹色の未来予想図を脳内に描きながら、私たちは意気揚々と、フロンティアの街へと続く道を歩き始めたのだった。
◇
ぎぃ、と。
三日ぶりに聞くその音を立てて、冒険者ギルドの重い扉を押し開ける。
その瞬間、昼下がりの活気で満ちていたギルドホールが、水を打ったようにしんと静まり返った。酒を飲んでいた冒険者も、仲間と談笑していた魔術師も、依頼書を眺めていた剣士も、まるで申し合わせたかのように、一斉にこちらへと視線を向ける。
「お、おい、見ろよ……」
「『ソロコンビ』の姐御と、もふもふの旦那のお帰りだぜ」
「げっ、マジかよ。あいつら、あの『忘れられた鉱山』に行ってたんじゃなかったのか? もう帰ってきたのかよ……」
「嘘だろ……。俺の知り合いのCランクパーティーは、ゴーレムに半殺しにされて、命からがら逃げ帰ってきたってのに……」
あちらこちらのテーブルから、ひそひそとした囁き声が聞こえてくる。
その声には、もはや単なる好奇心だけでなく、畏怖と、そしてほんの少しの呆れがまじっているように感じられた。どうやら、私たちの『規格外』っぷりは、このギルドではすっかりお馴染みの光景として定着してしまったらしい。
まあ、悪くない。むしろ、この凱旋パレードのような出迎えは、少しだけ気分がいい。
(ふふん。君たちの驚きは、まだ始まったばかりよ。今日の私は、とっておきの報告を用意しているんだから)
私はそんな周囲の視線を、まるで心地よい舞台照明でも浴びるかのように優雅に受け流し、にこやかな微笑みを浮かべたまま、まっすぐカウンターへと向かった。
カウンターの向こうでは、見慣れた栗色の髪の受付嬢さんが、ちょうど別の冒険者の応対を終えたところだった。私たちの存在に気づくと、彼女はぱっと顔を上げ、その大きな瞳を、信じられないものを見るかのように、まん丸に見開いた。
「あ、アリアさんっ!? フェンも! お、おかえりなさい!」
彼女は、椅子から転げ落ちんばかりの勢いで立ち上がると、カウンターからぐっと身を乗り出すようにして、私たちの無事を隅々まで確かめていた。その声は、安堵と驚きで、少しだけ上ずっている。
「ただいま戻りました。ええ、ご覧の通り、怪我一つありませんよ」
「よかった……! 本当によかった……! あれから、やっぱり心配になって、ギルドの資料をもう一度調べ直したんですけど、やっぱり『忘れられた鉱山』は危険だって報告ばかりで……! もし、何かあったらどうしようかと……!」
彼女は、心底ほっとしたように、自分の胸をなでおろしている。
本当に、親切で、心の優しい人だ。その気遣いが、じんわりと心に温かい。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。でも、大丈夫。今回も、とても、とても楽しい冒険でしたよ」
「た、楽しい……ですか……。あの、アンデッドとゴーレムが出る鉱山が……?」
私の言葉に、彼女は『この人、一体何を言っているんだろう』とでも言いたげな、不思議そうな顔で小首を傾げた。その反応も、無理はない。
「ええ。さて、早速ですが、依頼の報告をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「は、はい! もちろんです! ええと、依頼は『忘れられた鉱山の調査』、目的は『アンデッドの浄化と魔力源の特定』、でしたね。アンデッドは……」
彼女は手元の羊皮紙にペンを走らせながら、事務的な口調で尋ねてくる。
私は、にっこりと、公爵令嬢時代に身につけた、一点の曇りもない笑顔を彼女に向けた。
「はい。鉱山内のアンデッドは、一匹残らず、綺麗にお掃除させていただきました」
「そ、そうですか! それで、討伐記録は……って、また同じことを聞いても仕方ありませんわね……。では、ゴーレムはどうされたんですか?」
彼女も少しずつ、私の常識外れな報告スタイルに慣れてきてくれたらしい。話が早くて助かる。
「ええ。彼とも、きちんと対話をしてまいりました。物理法則について、少しばかり」
「ぶ、物理……?」
「それから、鉱山の最深部にいらっしゃった、もう一体の主さんとも、すっかり、お友達になりました」
「…………はい?」
受付嬢さんの動きが、ぴたり、と固まった。
彼女だけではない。
私の言葉は、静かな爆弾のように、ギルドホール全体に響き渡った。
それまで、がやがやと騒がしかった酒場の喧騒が、まるで誰かが指揮棒でも振ったかのように、ぴたりと止んだのだ。
水を打ったような静寂。
その静寂を破ったのは、近くのテーブルでエールを飲んでいた、ドワーフの戦士の、素っ頓狂な声だった。
「はぁ!? お、友達ぃ!? しかも、もう一体だとぉ!? あの鉱山の主は、ゴーレム一体じゃなかったのかよぉ!?」
その声を皮切りに、ギルド内は、一瞬にして蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「おいおい、冗談だろ……?」
「主が二体って、どういうことだよ……。しかも、二体とも友達になったってのか……?」
「馬鹿言え! ダンジョンの主が、そんなぽんぽん人間に懐くわけねえだろうが!」
「じゃあ、一体どうやったんだよ……! っていうか、この姐さん、一体何者なんだよ……!」
どよめきと、困惑と、疑念。
様々な感情がごちゃ混ぜになった声が、ホールの中を飛び交う。
カウンターの向こうで、受付嬢さんは、まだぽかんとした顔のまま、完全に思考が停止してしまっているようだった。
「あ、あの……アリアさん……?」
「ええ。主さんには、素敵なプレゼントを差し上げたら、とても喜んで貰って。そのお礼に、帰り道まで作ってくれたんですよ」
「ぷ、プレゼント……?」
ふふっ、面白い。人の常識が、目の前で音を立てて崩れていく様を観察するのは、実に愉快だ。
(さて、と。前座は、このくらいにしておきましょうか)
私は、わざとらしく、こほん、と一つ咳払いをした。
「それから、主さんから、素敵なお土産まで頂きました」
「お、お土産……ですか……?」
受付嬢さんの声が、ひっくり返っている。
「ええ。もしよろしければ、ギルドで鑑定していただけると嬉しいのですけれど」
私はそう言うと、満を持して、腕に抱えていた古びた木箱を、どすん、とカウンターの上に置いた。
ギルド中の視線が、その木箱に、針で刺すように集中するのが分かる。
ごくり、と。誰かが唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
それは、ただの古びた箱ではない。
金具の部分には、ドワーフの職人技が光る精巧な蔦の模様が彫り込まれ、木材そのものからは、長い年月を経てきたものだけが持つ、独特の風格が漂っている。
一目で、ただのガラクタではないことが、誰の目にも明らかだった。
「……こ、これは……」
受付嬢さんが、恐る恐る、といった様子でその箱に指先を伸ばそうとした、その時だった。
ギルドの奥、普段は職員しか出入りしない扉が、勢いよく開かれた。
そこから姿を現したのは、白髪混じりの髭をたくわえた、恰幅のいい初老の男性だった。その威厳のある佇まいは、彼がただの職員ではないことを示している。
このフロンティアの冒険者ギルドを取り仕切っている、ギルドマスターその人だ。
「……また、お前さんか」
彼は、やれやれ、とでも言いたげな、深い深いため息をつきながら、ずん、ずんとカウンターへと近づいてくる。
その視線は、私の顔ではなく、カウンターの上に置かれた、古びた宝箱に、釘付けになっていた。
「今度は、一体、何を持ち帰ってきたんじゃ……」
その声が、わずかに疲労の色を帯びていることに、私は気づいていた。
私は、言われるまでもなく、その宝箱の蓋を、ゆっくりと持ち上げた。
ぎぃ、と。
古びた蝶番が、心地よい音を立てる。
そして、その中身が明らかになった瞬間。
ギルドマスターの、そして、その周りに集まってきた冒険者たちの、息をのむ音が、はっきりと聞こえた。
宝箱の中身は、金銀財宝ではなかった。
そこにあったのは、ただ一つ。
静かに、しかし圧倒的な存在感を放つ、一冊の、古びた本だった。
表紙は、硬質な黒い革で装丁され、中央には、金色のインクで、槌と金床を組み合わせたドワーフの紋章が描かれている。
ページは、羊皮紙だろうか。長い年月を経て、飴色に変色している。
けれど、その本が、ただの古い本ではないことは、誰の目にも明らかだった。
本そのものから、淡く、しかし力強い魔力の光が、ゆらゆらと立ち上っているのだから。
「マスター、こいつは一体……?」
誰かがごくりと喉を鳴らして尋ねる。だが、ギルドマスターはその問いには答えず、ただ震える指で古びた表紙をなぞると、絞り出すような声で、そこに書かれたタイトルを読み上げた。
「……『ミスリル銀の鍛造法』……じゃと……?」
その言葉の意味を、すぐには誰も理解できなかった。
だが、ギルドマスターは信じられないものを見る目で、私たちに向かって続けた。
「ミスリル銀じゃ……! 鋼よりも軽く、ダイヤモンドよりも硬いと言われる、あの伝説の金属! その精錬方法は、この鉱山を築いた、伝説のドワーフの一族と共に途絶えたとされていた……幻の技術じゃ!」
ギルドマスターの絶叫にも似た説明が、ギルドホールにとどめを刺した。
私も、その言葉の意味を理解した瞬間、心臓が大きく跳ねた。『ミスリル銀』。前世のゲームでは、最高ランクの装備に使われる、誰もが憧れた金属。その、製造法……。
「嬢ちゃん……!」
我に返ったギルドマスターは、興奮で顔を真っ赤に染めながら、震える手でカウンターの上の宝箱を指さした。
「こ、これを、本当に、主から……譲り受けたというのか……?」
「ええ、もちろんです。私が差し上げた、きらきら光る綺麗な石ころと、物々交換していただいたんです」
私は、あくまでも冷静に、優雅に、そう答えてみせる。
内心では、『やった! 大当たりじゃない! これ、国宝級のお宝よ!』と、歓喜の嵐が吹き荒れているのだが、そんな素振りは微塵も見せない。
公爵令嬢として培ってきたポーカーフェイスが、今、最大限にその効果を発揮していた。
「き、石ころじゃと……!? こんな、国一つが買えるほどの価値があるものを、石ころと交換したというのか……!?」
ギルドマスターは、ごくり、と一度、大きく唾を飲み込むと、私の肩をがしりと掴んだ。
「……アリア嬢。いや、アリア殿」
いつの間にか、呼び方が『嬢ちゃん』から『殿』へと二段階もランクアップしている。分かりやすい。
「君が、この辺境の街にもたらしたものは、もはや金銭で測れるものではない。これは、歴史を動かす発見じゃ……!」
彼は、私のギルドカードをひったくるように手に取ると、そこに刻まれた『ランクC』の文字を、まるで汚物でも見るかのように忌々しげに睨みつけた。
「こんな歴史的快挙を成し遂げた冒険者が、Cランクなぞであっていいはずがない!」
ギルドマスターは、そう叫ぶと、カウンターの上のベルを、がんがん!と力任せに叩き鳴らした。
「おい、お前ら!今すぐ新しいギルドカードを用意せい!最高級のプラチナで作られた、Aランクのカードじゃ!」
その、あまりにも唐突で、あまりにも熱のこもった宣言に、ギルドホールは、一瞬の静寂の後、わあああああああああああああああっ! という、大地が揺れるほどの凄まじい歓声に包まれた。
「すげえええええええええええ!」
「一気にAランクまで飛び級かよ! 聞いたことねえぞ、そんなの!」
「やっぱり、ソロコンビのお嬢は、とんでもねえ奴だったんだな……!」
圧倒的な功績。
それだけが、全ての常識を、これまでの規則を、ぶち壊してしまったのだ。
これぞ、実力主義。これぞ、冒険者。
少しだけ、くすぐったいような、嬉しいような気持ちになった。
「は、はい、アリアさん! これが、新しいあなたのギルドカードです!」
奥から飛んできた職員から真新しいカードを受け取った受付嬢さんが、興奮で頬を上気させながら、一枚の金属カードを、私に手渡してくれた。
受け取ったカードは、これまでの銅や銀でできたものとは、明らかに材質が違う。
プラチナだろうか。
ひんやりとした、それでいてどこか温かみのある重さ。
そこには、私の名前と共に、『ランクA』という文字が、誇らしげに刻まれている。
Aランク。
この国でも、ほんの一握りの実力者だけが持つことを許される、一流の冒険者の証。
私は、新しいギルドカードを握りしめた。
周囲は、まるでパレードでも開かれているのかのような、華やかな雰囲気。
けれど、そんな周囲の喧騒も、今の私にとっては、どこか遠い世界の出来事のようだった。
私の頭の中は、別のことで、いっぱいいっぱいだったのだから。
そう、それは、次のダンジョン攻略だ!
私は、隣にいる最高の相棒と、こっそりと目を見合わせた。
「わふぅ!」
私の足元で、フェンは、私の思いが伝わったかのように、嬉しそうに一声鳴いた。




