第十五話:強制スクロール面
魔法がほとんど効かないという冒険者泣かせの番人、ゴーレム。
その絶対的な守護者をまさかの物理法則で無力化してしまった私たちは、もはや無人と化した闘技場を悠々と後にした。ただの大きな石人形と化したゴーレムは私たちが去った後も、まだその場で意味もなくふらふらと腕を振り回していることだろう。ご愁傷様、と心の中でそっと手を合わせておく。
「わふん!」
私の少し前をフェンが弾むような足取りで駆けていく。その銀色のふさふさとした尻尾が、まるでメトロノームみたいに左右にぱたぱたと揺れている。強敵との(一方的な)戦いを終えたからか、彼の機嫌は最高潮のようだった。
「そんなに急がなくってもダンジョンは逃げないわよ、フェン」
「くぅん!」
彼は一度だけこちらを振り返ると、楽しげに一声鳴いた。その黒い瞳はらんらんと輝いている。
本当に頼もしい相棒だ。
ゴーレムが守っていた闘技場の奥。そこから先はこれまでとはまた少し通路の雰囲気が変わっていた。ごつごつとした岩肌がむき出しだった壁は次第に綺麗に切りそろえられた石材で舗装されるようになり、天井も頑丈な石のアーチで補強されている。床には錆びついてはいるものの、まだ現役で使えそうなトロッコのレールが二本どこまでも続いている。
(ふむふむ。これはダンジョンの構造が採掘場から、鉱石を運び出すための輸送路へと変化しているサインね。ゲームならいよいよダンジョンの中盤から終盤に差し掛かったっていうお決まりのパターンよ)
私のゲーマー脳が目の前の光景を高速で分析し、お決まりの展開を予測する。
壁には等間隔で松明が設置されていたのであろう、黒く煤けた燭台が並んでいる。そのどれもが今はもう火が灯されることなく、ただ静かに壁の染みとなっている。この通路をかつてはドワーフたちが、採掘した鉱石を満載にしたトロッコを押しながら活気のある掛け声と共に往復していたのだろう。そんな遠い昔の幻が目の前に浮かんでくるようだった。
黄金色の光球を先導させながら私たちはその薄暗い通路を、慎重にしかし確かな足取りで進んでいく。アンデッドの気配はもうない。ゴーレムがこの先の領域への侵入者を完璧に防いでいたのだろう。
そして数分ほど歩いたところで道は不意に開けた。
「……あら?」
目の前に現れたのは小さな広間と、二つの分かれ道だった。
右へと続く通路はこれまでと同じように石材で綺麗に舗装され、レールもまっすぐに奥へと伸びている。どう見てもこちらが正規ルートだ。
そして左へと続く通路。
そちらはまるで「ここから先は危険ですよ」とでも言いたげな、荒れ果てた様子だった。
壁は崩れ落ち天井の梁も何本か折れて、床には瓦礫が散乱している。そしてそこに敷かれたレールは明らかに急な下り坂になっており、その先はまるで奈落にでも続いているかのように深い闇に閉ざされていて何も見えない。
「がるる……」
私の隣でフェンが左の通路を睨みつけながら低い唸り声を上げる。彼の優れた野生の勘が、あちらの道は危険だとけたたましく警鐘を鳴らしているのだ。
「ええ、そうよね。普通に考えたら絶対に選んじゃいけない道だわ」
私もフェンの意見に全面的に同意する。
あまりにも分かりやすすぎる。
左の道はどう見ても罠だ。あの急な下り坂は一度足を踏み入れたら、もう二度と戻ってこれないことを示唆している。
そしてそのいかにも怪しいレールの、ちょうど坂が始まる手前の位置に。
一台だけ、ぽつんと。
古びて赤茶けた錆の浮いた小さなトロッコが、打ち捨てられたように置かれていた。
車輪は歪み荷台の木は腐りかけている。そのトロッコの後輪は今にも切れそうな、細く茶色く変色した一本のロープだけでかろうじて線路上の杭に繋ぎ止められていた。
そしてトロッコのすぐ手前の地面には、一枚だけ周りの石とは明らかに色の違う不自然な石板が埋め込まれている。
あれはおそらく圧力式のスイッチ。
あの板を踏んだ瞬間ロープが切れて、トロッコは奈落へと続く急な坂道を猛スピードで滑り落ちていく。
そういう仕掛けに違いなかった。
(……なんという古典的で分かりやすい罠)
新人冒険者をふるいにかけるための初見殺しのトラップ。
あまりの稚拙さに思わず笑みがこぼれそうになる。
普通の冒険者なら、あるいはこの世界の常識に縛られている人間なら、誰一人としてこの左の道を選ぶ者はいないだろう。
危険を冒すだけ馬鹿を見る。それが賢明な判断だ。
けれど。
私の前世の記憶に汚染された、ひねくれたゲーマー脳は。
全く別の結論を瞬時に弾き出していた。
(……いや、待てよ)
私の頭の中で何かがぱちんと弾ける音がした。
灰色だった視界が一瞬にして鮮やかな虹色の光に染まる。
罠? 危険?
違う、違う。それは最高の褒め言葉じゃないか。
(これってゲームでよくある、隠しエリアへの強制移動イベントじゃない……!)
正規ルートを外れた場所にわざとらしく設置された、一見すると危険なだけのギミック。
それに敢えて引っかかった者だけがたどり着ける特別な場所。
そこには誰も知らない絶景が広がっていたり、あるいはとんでもないレアアイテムが眠っていたりする。
それこそが探索型ゲームの醍醐味というものだ。
私のユニークな魔法を試すまでもない。これは製作者(きっと、このダンジョンを作ったドワーフたち)が用意した、ここへ訪れた者たちへの挑戦状なのだ。
「……ふふっ」
思わず口元から笑みがこぼれた。
私の様子に隣のフェンが「くぅん?」と不思議そうな顔で、こちらを見上げている。
「決めたわ、フェン」
私は右の安全で退屈そうな正規ルートにちらりと一瞥だけくれると、きっぱりと言い放った。
「私たち、こっちに行きましょう」
私が指さしたのはもちろん左の、危険な匂いしかしない荒れ果てた通路だった。
◇
「ぐるるるるるるっ!」
フェンが私のズボンの裾をぐいと口で引っ張った。
その大きな黒い瞳が必死に私に何かを訴えかけている。
『やめろ! 主! そっちは危ない! 絶対に行っちゃダメだ!』
彼の悲痛な心の声が痛いほど伝わってくるようだった。
私はそんな忠実な相棒の前にそっとしゃがみ込んだ。
「大丈夫よフェン。あなたの言いたいことはよく分かっているわ。確かにあの道は普通に考えれば危険でしょうね」
「わんっ!」
『そうだろ!』とでも言うようにフェンは力強く一声鳴いた。
「でもねフェン。冒険っていうのは時々、普通じゃない道を選ばないと見られない景色があるものなのよ」
私は諭すように優しく語りかける。
「あれは罠じゃないわ。きっとこのダンジョンを作った人が、私たちみたいな好奇心旺盛な冒険者のために用意してくれた特別なアトラクションなのよ。未知のエリアへ連れて行ってくれる特急券、みたいなもの」
「くぅん……?」
私のあまりにも突拍子もない説明にフェンは、まだ納得がいかないといった顔で小首を傾げている。その仕草がたまらなく愛おしい。
「信じてフェン。私のこのゲーマーとしての勘を。絶対に面白いことになるわ。もし本当に危険だと思ったら、その時は私が魔法で何とかしてみせるから」
私が彼の目をまっすぐに見つめてそう言うとフェンは、しばらくじっと私の顔を見つめ返していた。
私の瞳の中に嘘や無謀なだけの自信がないことを、確かめているようだった。
やがて彼はふぅと一つ、小さなため息をついた。
それは呆れとそして深い信頼の色が、複雑に混じり合ったようなため息だった。
彼は私のズボンの裾を咥えていた口をそっと離すと、こくりと一つ小さく頷いてみせた。
『……分かったよ主。主がそう言うなら僕は信じる』
そんな彼の声が聞こえた気がした。
「ありがとうフェン。さすが私の最高の相棒ね!」
私は彼の頭を力いっぱい撫で回してやった。
よし、と。
交渉は成立だ。
私たちは顔を見合わせると意を決して、そのいかにも怪しいトロッコへと歩みを進めた。
近づいてみるとトロッコは思った以上に老朽化が進んでいた。
ぎし、と。
私が先に荷台へと足をかけると、床板が不安な音を立てて軋んだ。
「わふん……」
フェンもおそるおそるといった様子で、私の後からぴょんと荷台に飛び乗る。
荷台は大人一人と大型犬が一匹乗るのがやっとの広さだった。
私たちは身を寄せ合うようにして、その狭い空間に収まった。
ひんやりとした鉄錆の匂いが鼻をつく。
さあ、いよいよ出発の時だ。
「しっかり捕まっててね、フェン!」
「わん……!」
フェンは私の足元にぎゅっと体を丸めるようにして、衝撃に備えている。
私はにやりと笑うと立ち上がったまま、例の不自然な石板の上に片足をそっと乗せた。
―――かちり。
と、足の裏に何かがわずかに沈み込む確かな感触があった。
その次の瞬間。
ぱんっ!
乾いた破裂音。
私たちのトロッコを繋ぎ止めていた最後の一本のロープが、まるで生き物のように勢いよく弾け飛んだ。
そして。
「…………!」
一瞬の浮遊感。
次の瞬間には私たちの体は、シートベルトのないジェットコースターに乗せられたみたいに、凄まじい勢いで前へと放り出されていた。
◇
ごごごごごごごごごごごごごごごっ!
耳をつんざくような轟音。
車輪とレールが火花を散らしながら、けたたましく擦れ合う音。
私たちの乗ったトロッコはもはや暴走と呼ぶにふさわしい猛スピードで、暗闇の坂道をどこまでもどこまでも転がり落ちていく。
びゅうと前から吹き付けてくる風が、頬をナイフのように切りつけて息ができない。
景色が凄まじい速さで後ろへと飛んでいく。
いや景色など、もはや存在しない。あるのはただどこまでも続く漆黒の闇だけ。
「くぅぅぅぅぅぅんっ!」
私の足元でフェンが悲鳴のような情けない声を上げている。そのもふもふの体は恐怖で小刻みにぶるぶると震えていた。
私はそんな相棒を片腕でぎゅっと力強く抱きしめた。
「大丈夫よフェン! 私がついてる!」
私自身はどうだったかというと。
恐怖など一ミリも感じていなかった。
むしろ。
(きゃっほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!)
脳内で私は両手を挙げて、盛大な雄叫びを上げていた。
すごい、すごい、すごい!
なんだこのスリルは!
前世で遊園地で乗ったどんな絶叫マシンよりも、ずっとずっとエキサイティングだ!
闇の中を猛スピードで駆け抜けていくこの疾走感。
次に何が起こるか全く分からないこの予測不可能な展開。
これこそが冒険だ!
がたん、ごとん! がたん、ごとん!
トロッコは時折大きく揺れながらカーブを曲がり、さらに速度を上げていく。
その遠心力に体が外側へとぐっと押し付けられる。
その度に私の口からは我慢しきれない歓喜の声が漏れた。
「最高……! 最高じゃない、これ!」
闇の中、壁際で時折何かがきらりと光るのが見えた。
おそらく岩盤に埋まっている希少な鉱石だろう。
普通の冒険者なら見つけることすら叶わない隠された宝。
やっぱり私の勘は正しかったのだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。
永遠にも思えるような数分間。
ごごごごごと唸りを上げていた車輪の音が、次第にその勢いを失い始めた。
あれだけ猛烈だったスピードがゆっくりと緩やかになっていく。
そして代わりに別の音が耳に届き始めた。
―――ちゃぷん、ちゃぷん……。
穏やかな水音。
それと同時にこれまで私たちを包んでいた完全な闇の先に、ぼんやりとした青白い光が見え始めた。
トロッコはまるで役目を終えたことを悟ったかのように、最後の力を振り絞ってその光の中へとゆっくりと進んでいく。
そして。
ことん。
と、実に穏やかな音を立てて私たちの乗ったトロッコは、小さな木のホームのような場所にぴたりと停止した。
あれだけけたたましかった轟音は完全に消え去っている。
後に残されたのはしんと静まり返った空気と、先程から聞こえていた優しい水音だけ。
「……着いたみたいね」
私はまだ私の腕の中でぶるぶると震えているフェンの背中を、ぽんと優しく叩いた。
「もう大丈夫よフェン。ほら、顔を上げてごらんなさい」
「くぅん……」
フェンはおそるおそるといった様子で、ゆっくりと顔を上げた。
そして目の前に広がっていた光景に、彼の大きな黒い瞳が信じられないものを見るかのように、まん丸に見開かれた。
私自身もまた。
言葉を完全に失っていた。
◇
「…………うわぁ…………」
思わず感嘆の声が吐息と共に漏れた。
目の前に広がっていたのはこれまで二つの人生で見てきた、どんな景色よりも圧倒的に美しく、そして幻想的な光景だった。
そこは巨大な、巨大な地下の空洞だった。
あまりに広大すぎて天井がどこにあるのか全く見えない。
そしてその空洞の壁という壁、天井という天井が。
まるで夜空から満点の星をそのままごっそりと剥がしてきて貼り付けたかのように、無数の光る鉱石でびっしりと埋め尽くされていたのだ。
青白い光を放つ鉱石、黄金色に輝く鉱石、新緑の色をした鉱石、燃えるような赤色の鉱石。
色も大きさも様々な無数の光の点が、まるで生きて呼吸をしているかのようにゆっくりと、そして優しくまたたいている。
それはまさしく地底に再現された満点の星空だった。
そしてその星空の下には。
どこまでもどこまでも静かな湖が広がっていた。
地下湖。
その水面はまるで完璧に磨き上げられた一枚の黒曜石のように滑らかで、波一つない。
そしてその鏡のような水面には、壁や天井で輝く無数の鉱石の光が寸分の狂いもなく映り込んでいる。
上を見上げれば満点の星空。
下を見下ろしても満点の星空。
まるで天と地の区別がなくなったかのような不思議な浮遊感。
私たちは今、星と星のちょうど真ん中に立っている。
そんな錯覚に陥ってしまうほど。
その光景はあまりにも美しすぎた。
「わふぅぅ…………」
私の隣でフェンがほうと感嘆のため息をついている。
彼の大きな黒い瞳にも満点の星空が、きらきらと映り込んでいた。
さっきまでの恐怖はどこかへ消え去ってしまったらしい。
私たちはしばらく言葉もなく、ただその声も出ないほどの絶景に心を奪われて立ち尽くしていた。
ひんやりとした、それでいてどこか清浄な空気が肺を満たす。
聞こえるのは湖の水が岸辺をちゃぷんと優しく洗う音だけ。
(……ああ、なんてこと)
これだ。
これこそが私が求めていたもの。
お金でも名声でもない。
誰も知らない誰も見たことのない、こんな心臓が止まりそうなほどの美しい景色。
それに出会うこの一瞬のために、私は冒険をしているのだ。
あの暴走トロッコに乗るという無謀な選択をしなかったら。
私たちは決してこの景色に出会うことはできなかっただろう。
「……ねえ、フェン」
私は隣でまだうっとりと湖面を眺めている相棒の、もふもふの頭を優しく撫でた。
「私の言った通りでしょう? 面白いことになったって」
「くぅん」
フェンは私の言葉を理解したようにこくりと一つ頷くと、私の手にそっとその顔をすり寄せてきた。
私たちはもう一度、顔を見合わせて一緒に笑った。




