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第一話: チュートリアルの断罪イベント(強制)

 豪華絢爛という言葉を、そのまま形にしたような空間だった。

 天井からは、数えきれないほどの宝石をちりばめたシャンデリアが下がり、床は大理石で磨き上げられ、そこに立つ人々の姿をぼんやりと映している。磨かれた床の上を、絹のドレスがさざ波のように流れていく。壁際には長いテーブルが設えられ、見たこともないような豪勢な料理や色とりどりの果物が、まるで絵画のようにうず高く盛られていた。甘ったるい花の香りと、高価そうな香水、そして食欲をそそる料理の匂いがふわりと鼻をかすめる。耳に届くのは、宮廷楽団が奏でる優雅で少し眠たいワルツと、着飾った貴族たちの楽しげな、しかし中身のない談笑。


 王立学園の卒業記念パーティー。

 この国における、若き貴族たちの最も華やかな社交の場。

 その中心に、私はいた。


 蜂蜜を溶かしたような、と評される金色の髪は、高価な宝石をあしらった髪飾りで丁寧に結い上げられている。翠玉色の瞳に合わせたドレスは、今をときめくデザイナーに作らせた一点物で、体の線を美しく見せるように計算され尽くしている。背筋をすっと伸ばし、口元には誰に対しても崩れることのない穏やかな微笑みを浮かべて。誰もが羨む公爵家の令嬢として、私は非の打ち所がない淑女を演じきっていた。


(ああ、退屈)


 心の内で、誰にも聞こえないため息をつく。

 私の人生は、物心ついた時から決められたレールの上を走るだけの、ひどく退屈なものだった。公爵令嬢としての作法、淑女としての振る舞い、王太子妃となるための帝王学。朝から晩まで息の詰まるような教育を施され、自由な時間などほとんどありはしなかった。このパーティーが終われば、私は正式に王太子アレクシオス様と結婚し、いずれは王妃となる。その未来に、何の希望も見いだせずにいた。まるで上質な箱に丁寧にしまわれた、綺麗なだけのお飾りのようだ。


「ごきげんよう、アリア様。今宵も一段とお美しいですな」


 にやにやとした笑みを浮かべた恰幅のいい侯爵子息が、話しかけてくる。確か、名前は……忘れた。興味もない。


「まあ、お上手ですね。あなた様こそ、その装飾はとても素敵です」


 口が勝手に、当たり障りのないお世辞を紡ぎ出す。心は一ミリも動いていないのに。

 そんな息苦しい毎日を、ただ受け入れることしかできずにいた私に、物語の筋書き通りであるかのように、唐突な転機が訪れた。



「お姉様っ……! ひどいですわ……! わたくし、お姉様のことをずっと慕っていたのに……!」


 パーティー会場に、鈴を転がすような、しかし悲痛に満ちた声が響き渡った。

 声の主は、私の腹違いの妹、リアナ。

 桜色の髪をふわりと揺らし、大きな瞳には今にもこぼれ落ちそうなほどの涙を溜めて、彼女は私の前に崩れ落ちた。そのあまりに可憐な姿に、周囲の貴族たちが一斉に注目する。心地よかったはずのワルツがぴたりと止み、さっきまでの喧噪が嘘のように、会場は水を打ったように静かになった。すべての視線が、舞台の役者に注がれる観客のように、私とリアナの二人だけに集まっている。


「リアナ、どうしたのですか。そのような場所で」


 何が起きているのか理解できず、私はただ困惑した。練習してきた淑女の微笑みが、顔の上で固まるのを感じる。

 リアナの独演会は、そんな私を置き去りにして続く。


「どうして……! どうしてアレクシオス様をそそのかして、わたくしを貶めようとなさるのですか!? わたくしが、王子と親しくしているのが、そんなにお気に召さなかったのですか!?」


 ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、リアナは震える指で私を指さす。白いドレスの裾が、床の上で痛々しく広がっている。その迫真の演技に、周囲の空気はじわじわと私への非難の色を帯びていく。あちらこちらから、「なんてことだ」「公爵令嬢ともあろう方が……」「リアナ様がお可哀想に……」という囁き声が、さざ波のように広がっていくのが分かった。


「待ってください、何かの間違いです。私は、そのようなことは……」


 私は必死に弁解しようとした。けれど、その声は一人の人物の登場によってかき消される。


「そこまでだ、リアナ!」


 人垣をかき分けるようにして現れたのは、この国の王太子、アレクシオス。絵に描いたような、輝く金髪と空色の瞳を持つ美青年。私の、婚約者。

 彼はリアナを優しく抱きとめると、氷のように冷たい視線を私に向けた。その青い瞳には、かつて私に向けられた優しさの色はどこにもなく、ただただ侮蔑と怒りだけが燃えていた。


「もうよいのだ。お前の優しい心は、この私が一番よく分かっている。これ以上、この悪魔のような女の言葉に心を痛める必要はない」


 悪魔のような女。

 その言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。冷たい鉄の杭を打ち込まれたみたいに、息が詰まった。

 アレクシオスは、私の反応など意にも介さず、朗々とした声で断罪の言葉を紡ぎ始める。その声は、魔法によって会場の隅々にまで届くように増幅されていた。まるで、私の罪を天下に知らしめるための公開処刑のようだった。


「公爵令嬢アリア! 貴様の悪行、もはや見過ごすことはできん!か弱き妹に嫉妬し、その純粋な心を傷つけ、あろうことか王太子である私をないがしろにした! その罪、万死に値する!」


 おお、と会場がどよめく。

 アレクシオスの腕の中では、リアナが「そんな……お姉様をそこまで……」と、さらに涙を流して見せている。違う、違うのに。私の声は、もう誰にも届かない。唇がかすかに動くけれど、音にはならなかった。


「本来であれば、即刻打ち首に処すべきところだが、長年国に尽くしてきた公爵家の功績に免じ、特別に寛大な措置をとってやる」


 アレクシオスは、まるで慈悲深い王であるかのように、もったいぶった言い方で言葉を続ける。その一言一句が、私の未来を少しずつ削り取っていく。


「聞け! この場をもって、貴様との婚約は正式に破棄する! そして、明日を以て、貴様を王都から追放! 辺境の地にて、その罪を償いながら生きることを命じる!」


 追放。

 その言葉が頭の中で反響した瞬間、世界から色が消えた。


(え……?)


 婚約破棄、そして追放。

 私の未来、私の人生、そのすべてが、今この瞬間に音を立てて砕け散った。

 頭の中が真っ白になる。違う、白ですらない、何も無い、完全な無。父様の顔も、母様の顔も、きらびやかなパーティー会場の光も、すべてが意味を失って遠ざかっていく。足元から力が抜け、かろうじて立っているのがやっとだった。


 心という器があるのなら、それは今、絶望という名の黒い液体でなみなみと満たされたのだろう。

 もう一滴も入る余地はない。

 悲しいとか、悔しいとか、そんなありふれた感情さえ浮かんでこない。

 ただ、空っぽで、冷たい何かがそこにあるだけ。


 ―――ああ、もう、どうでもいい。


 考えることすら放棄した、その瞬間だった。

 満杯だったはずの心の器から、何かがぽつり、とあふれた。


 それは、音だった。

 かちゃかちゃ、という、この場にはあまりに不釣り合いな、軽快で無機質な音。


 それは光だった。

 夜の闇を照らす、四角い窓のような、まばゆい光。


 なに、これ。

 私のじゃない。

 私の知らない記憶。

 私の知らない感情。

 熱くて、やかましくて、ひどく楽しい、何か。


 あふれ出した一滴は、堰を切ったように濁流となり、公爵令嬢アリアとしての私の意識を、あっという間に飲み込んでいった。


 私の頭の中に、奔流のような映像と情報がなだれ込んできたのだ。


 薄暗い部屋、ディスプレイだけが煌々と光を放つ光景。指先には、かちゃかちゃと小気味よい音を立てるキーボードの感触。ヘッドセットから聞こえる、緊迫したBGMと、気心の知れた仲間たちの声。

『右翼から来るぞ! タンク、ヘイト維持して!』

『ヒーラー、回復間に合うか!? MPポーション叩け!』

『あと少し……! ボスの詠唱、止めろぉっ!』

 寝る間も惜しんで、来る日も来る日も、ファンタジー世界での冒険に明け暮れた日々。難攻不落と謳われたダンジョンを攻略するために、膨大なデータを分析し、最適なスキル回しを考えた。会社でのストレスも、味気ない一人暮らしの寂しさも、すべてを忘れさせてくれる、唯一の場所。

 それは、ディスプレイの前に座り続けた、日本のどこにでもいる、少しばかりゲームが好きな会社員だった頃の記憶。


 あまりに膨大で、あまりに鮮明なその記憶の濁流に、公爵令嬢アリアとしての私の自我はあっという間に飲み込まれ、そして、新しい何かに生まれ変わった。



「……おい、どうした、聞こえているのかアリア」


 不審そうなアレクシオスの声で、私ははっと我に返った。

 目の前には、まだ心配そうに私を見つめる婚約者(だった男)と、その腕の中でほくそ笑んでいるのが透けて見える腹違いの妹がいる。周囲には、私を好奇と侮蔑の目で見る貴族たち。


 絶望的な状況。

 すべてを失った、悲劇のヒロイン。


(……いや、待てよ)


 私の頭は、先程までの混乱が嘘のように、クリアに冴えわたっていた。

 前世の記憶がもたらした膨大な情報が、目の前の状況を瞬時に分析し、最適解を叩き出す。


(これって、乙女ゲームでよくある断罪イベントじゃないか)


 ヒロインをいじめる悪役令嬢が、婚約者の王子様から婚約破棄と追放を言い渡される、お決まりのシーン。そして、悪役令嬢が追放された後、ヒロインと王子様は結ばれてハッピーエンド。なんて陳腐なシナリオ。


(でも、もし、私がその悪役令嬢だとしたら……?)


 追放。

 それは、貴族社会からの完全な解放を意味する。窮屈なドレスも、息の詰まる作法も、もう必要ない。しがらみからの離脱。


 目の前には、どこまでも続くフィールドが広がっている。

 未知の魔物が闊歩し、まだ誰も足を踏み入れたことのないダンジョンが、私を待っている。

 ゲームの世界で夢見たすべてが、本物として、すぐそこにある。


 その事実に気づいた瞬間、私の内側で、何かがぱちんと弾ける音がした。


(よっしゃああああああああああああああああああああああああっ!!!)


 脳内で絶叫し、両手の拳を天に突き上げる。

 やった、やったぞ。

 絶望の淵から、一気に最高のボーナスステージにワープした気分だ。

 悲劇? 冗談じゃない。

 これは最高のスタートダッシュだ。


 もちろん、そんな内なる興奮を、表情に出すわけにはいかない。

 周囲は、私がショックで呆然としているとでも思っているのだろう。それでいい、その勘違いが、後々面白くなるのだから。


 私はゆっくりと瞼を伏せ、それから静かに開いた。

 もう、そこにかつての弱々しい令嬢の面影はなかった。


「……アレクシオス様」


 か細く、しかしどこか楽しんでいるような響きを乗せて、私は口を開いた。


「殿下がそうお決めになったのであれば、謹んでお受けいたします」


 そう言って、淑女の礼法に則った、最も美しいお辞儀をしてみせた。その動きには、一片のよどみもなかった。

 その姿に、アレクシオスは一瞬、言葉を失ったようだった。おそらく、私が泣きわめいたり、弁解したりするとでも思っていたのだろう。彼のシナリオ通りに動かない私を見て、その整った顔がわずかに困惑の色を浮かべている。


(ざまあみろ、ってね。ま、あんたの盛大な勘違いは、これからもっともっと加速していくことになるんだけど)


 私は心の中でそっと舌を出す。

 アレクシオスの隣では、リアナが信じられないといった表情で私を見ていた。彼女もまた、私がもっと取り乱すと思っていたのだろう。ごめんね、期待に応えられなくて。でも、今の私には、あなたたちとの茶番に付き合っている時間はないのだ。


 やがて、我に返ったアレクシオスが、「衛兵! この者を連れて行け!」と叫んだ。

 パーティー会場の両脇から、鎧をまとった二人の兵士が進み出てきて、私の両腕を掴む。その手つきは、公爵令嬢に対するものとしては、ひどく乱暴だった。ごつごつした金属の手甲が、柔らかい腕の皮膚に食い込む。


 引きずられるようにして、私は会場を後にする。

 その背中に、同情、侮蔑、好奇、様々な感情の入り交じった視線が突き刺さる。父様と母様は、青ざめた顔で立ち尽くしていた。後で面倒なことになっていないといいけれど。まあ、もう私には関係のないことだ。


 ざわめきが遠ざかっていく。

 きらびやかなシャンデリアの光が、重い扉の向こうに閉ざされていく。


 私の『公爵令嬢アリア』としての人生は、今、この瞬間に終わりを告げた。

 そして。


(さあ、行こうか)


 これから始まる、誰のためでもない、私だけの冒険へ。


(まずは、初期装備と当面の資金の確保、かな。確か、ドレスに縫い付けておいた宝石と、自室に隠してある『へそくり』で、しばらくは余裕のはず。追放先は辺境の森だったっけ。なら、サバイバルの準備も必要だ。火起こしは生活魔法で余裕だし、水の確保も問題ない。問題は食料と、寝床の安全性だな……。ああ、そうだ、公爵令嬢としての教育で学んだ魔法理論、あれは使える。ゲーム知識と組み合わせれば、誰も考えつかないようなコンボが生まれるかもしれない)


 連行されながら、私の頭の中は、すでにファンタジー世界での冒険計画でいっぱいだった。

 悲しみ? 絶望? そんなものは、一ミリたりとも存在しない。


 あるのはただ、これから始まる新しい人生への、どうしようもないほどの高揚感だけ。

 だって、これは悲劇じゃない。


 最高の夢への扉が開かれた、始まりの合図なのだから。


 私は静かに、しかし力強く、新たな人生の第一歩を踏み出した。

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