追放された隣国で、愛に生きていきます。
「……エメ様。いい加減、あなたには愛想がつきました。社交が苦手なだけならまだしも、使用人と関係まで持っているそうではないですか。これでは、結婚生活など到底望めません。……婚約を破棄しましょう」
婚約者のクロード様に別れを告げられたのは、カステル子爵家での茶会の最中でした。驚いてカップを取り落としそうになった私を、クロード様は冷ややかに見下ろしました。
子爵家ながら、事業に成功したカステル家の皆様はいささか気位が高いように感じます。言葉こそ丁寧ですが、格式高いだけの伯爵家の私を軽んじているのは明らかです。
「お待ちください!使用人と関係など、事実無根です……!」
私の言葉に、クロード様は目を細めました。その切れ長の瞳が、冷たい光を宿しています。
(ああ、この人のこの顔を見るたびに、気持ちが冷えていく……)
「あなたの弁明を聞く気はありません。……もう、伯爵閣下とも話はついています。お引き取りを」
その瞳はもはや、私の姿を写していませんでした。いえ、最初からずっと、そうだったのでしょう。私たちは政略の中でも特別冷えた関係でした。
* * *
「……まさか、エメ様が婚約破棄されるなんて」
自宅への帰り道、馬車に同乗していた侍女のモリーは泣きそうな顔をして私を見上げました。五つ上の彼女は、子供の頃から私に仕えてくれています。年上ながら、愛嬌があり可愛らしい娘です。
私は、ひとつため息をつきました。
「モリー、あなたが心配することではありません。いずれにせよ、クロード様と私では良い夫婦にはなれなかったでしょう」
モリーはもの言いたげなまなざしで私を見つめました。
「そうかもしれませんが……エメ様、やはり“研究”にのめり込みすぎたのではありませんか。婚約者様とデートもせず、古文書に向き合ってばかりでしたよね。挙げ句の果てには、侍女の私にもそんな言葉遣いを」
そう、私はこの五年ほど、古文書の研究に勤しんでいました。
きっかけは、隣国からの書物に紛れて、古文書が我が家に届いたこと。雅やかな装飾と、意味は分からずとも美しい文字の連なりに、思わず息を呑みました。家庭教師の助けを借りながら、何とか解読すると、そこには理想の世界があったのです。
古代王国では、身分の区別なく“礼の言葉”を用い、お互いを尊重する文化があったようなのです。今のこの国とは大違いです。古代文化に触発された私は、その日から、相手が誰であろうと敬語を使うことに決めました。
そこから、図書館に通い詰め、くる日もくる日も古文書の解読を続けました。おかげで、今ではこの国でも随一の知識を誇ると自負しています。
ですが、この研究を認めてくれるのは一部の学者だけ。お父様もお母様もクロード様も「そんなものはなんの役にも立たない」と馬鹿にしました。モリーだけは、研究を手伝ってくれていたのですが……。
馬車がゴトンと止まると、家の前にはお父様と、積まれたトランクが待っていました。
* * *
「エメ。お前は我が家の恥だ。出ていけ」
お父様がそう言うと、私はあっという間に馬車に戻されました。呆然としている間に、たくさんのトランクが運び込まれてきます。
「お待ちください!私の古文書は……!」
「全部、トランクに詰めてある。いいか、お前は我が領から追放する。この国にいても居場所などないだろう。隣国の……カルナック公国にでも行けばよい。二度と、帰ってくるな。……その方が、みんな幸せなのだ」
取り付く島もなく、そのまま馬車は出発しました。……一体、これからどうなるのでしょう。私は途方に暮れながら、馬車の揺れに身を任せていました。
「元々この家はレオンが継ぎ、お前は出て行く予定だった。醜聞を撒き散らしてなお、この国にとどまるよりは、いない方がマシだ。何の痛手もない」
お父様の声が脳裏に響きます。
(やっぱり私は、少しも愛されていなかった……)
* * *
「もう、モリーだけが頼りです。まさか、あなたが一緒に来てくれるだなんて思いませんでした」
「何を言うんですか、エメ様!昔、約束しましたでしょう。私はどこまでもお供します」
私は、その言葉に勇気付けられ、拳に力を込めました。
「何があっても、モリーの事は守りますからね!あなたは可愛いのだから、変な男性が寄ってこないか心配です」
モリーは私を見つめ、そのそばかすの散った顔を赤らめました。おさげが愛らしく揺れています。
「……何を仰るんですか。守るのは私の務めです。エメ様こそ、皆が振り返るほどお綺麗なのに」
「いえ、モリーの方が可愛いです」
「可愛いだなんて。大体、私の方が年上なのですよ!」
顔を真っ赤にして抗議する彼女を見て、私は思わず笑ってしまいました。こんな時にも笑えるのはひとえに彼女がいてくれるおかげでした。
エメ——『愛』と言う名を受けながら、私は誰にも愛されていませんでした。両親にも、婚約者にも。唯一、心を通わせられたのは、モリーだけだったのです。
この時私は、隣国で彼女と身を寄せ合って生きていくものだと思っていました。ですが、国境で私を待ち構えていたのは……隣国の公子・トリスタン殿下でした。
* * *
隣国、カルナック公国。
ソレイユ王国の北端に接し、自由諸国連合の一翼を担うこの国の——公子殿下の行動は驚くほどに素早いものでした。
豪華な馬車で出迎えられ、あっという間に公宮へ。湯浴みの後に煌びやかな服に着替えさせられると、殿下と謁見することになりました。
この国の公宮は、決して華美ではありませんが、細やかな紋様がいくつも刻まれた意匠が、その歴史を思わせます。
トリスタン殿下は私より頭一つ抜けた長身の美丈夫。艶やかな黒い髪を後ろに束ね、精悍な顔立ちをされています。
同じ殿下と言っても、祖国……ソレイユ王国のジュリアン殿下とはずいぶん印象が違います。中性的で優雅な男性がもてはやされる祖国とは違い、トリスタン殿下は男性的で力強い印象が新鮮でした。
「お初にお目にかかります。……エメと申します。この度は、過分なおもてなし、ありがとうございます」
私は、できるだけ丁寧に頭を下げました。
「……いや、初めてではない」
低く、柔らかな声が場を支配しました。
「私は……古文書の学会で、あなたを目にして……ずっと我が国に来てほしいと思っていたのだ。どうか、あなたの力を貸してほしい。顔を、あげてくれ」
驚き見上げると、殿下は嬉しそうにふんわりと微笑みました。
「実は、あなたには……古文書の解析を頼みたいのだ」
* * *
「エメ様!よかったですねえ。古文書解析のお仕事ができる上に、こんなに素敵な場所に住めるなんて。……トリスタン殿下、とっても素敵なお方でしたね!」
公宮の一角に住まいを与えられ、モリーははしゃいでいます。やけに殿下に見惚れていたのが気にかかりますが……。
「モリー。まさかとは思いますが、トリスタン殿下を好きになってはいけませんよ」
(だって、そうしたら私たちはライバルになってしまう)
モリーは顔を真っ赤にしました。
「エメ様、そんなことあるはずがないじゃありませんか!身分差があるのですよ」
「……モリーの魅力の前では、殿下も夢中になってしまうかもしれませんから」
「お戯れになるのはおやめください!」
可愛いモリーに癒されながらも、私は心の片隅に気がかりを抱えていました。確かに、公宮に招かれたことは嬉しい誤算でした。でも、何かうまくいき過ぎているような気がするのです。
(ただの、杞憂でありますように)
* * *
それからと言うもの、殿下は毎日のように私の部屋を訪ねてきました。
「エメ。何か困っていることはないかい?私にできることがあれば何でも言ってくれ」
棚を開けるたびに衣装が増えていき、「美味しい」と口を綻ばせれば、アップルケーキやプディング類がたびたび茶会に並ぶようになりました。どこで調べたのか、部屋の内装まで私好みに整えられています。
(カルナック公国に、これほどの財があるとは)
小国だからと、無意識のうちに侮っていたのかもしれません。しかし、このような贅沢は、今まで縁がないほどでした。
実家の伯爵家でも、婚約者の家でも、このように大事にされたことはありません。
でも、殿下が与えてくださった数多の贈り物の中で、私が何より嬉しかったのは——もちろん“古文書解析の仕事”でした。
自分では、手に入る限りの古文書に触れたと思っていました。ですが、この国の古文書は見たこともないものばかり。これまで私が触れてきたよりも、古い時代のものに見えます。一体どこで、こんな宝物の山を手に入れたのでしょう。
ページをめくるたびに、羊皮紙の毛面がざらつき、指先に古い塩のような感触が残ります。この配列は……以前、実家で見た古文書と似ている気がします。
私はトランクをひっくり返して、持ってきた古文書を漁りました。奇妙なことに、お父様が雑にまとめさせたのだと思っていた本たちは、よく整理されていて、ひとつの欠けもありませんでした。
(……最後の、情けだったのかな)
私は目的の一冊を手に取り、見比べます。法則が見えてきました。これは——奥の門。右に十歩……?
私が一心不乱に文字を解読し、書き写していると、ふと、こちらを見つめている殿下と目が合いました。とても優しげに微笑んでおられます。
「エメ。今日も精が出るね。だが、あまり根を詰めるのはよくない。よかったらお茶を飲んで休憩しよう」
促され、庭園に出ると立ち並ぶ楓は燃えるような朱に染まっていました。白亜の石畳の上に散るその彩りは、まるで見事な絨毯のよう。穏やかな日差しのもと、私は軽く伸びをし、強張った体を整えてから、円卓につきました。今日も、アップルケーキが並んでいます。
「そうだったのか。あの文章にはそんな意味が込められていたんだね。いや、私も多少は読めるつもりだったが、君には到底敵わないな」
「……もったいないお言葉です」
「たかが小国の公子である私に、そこまでかしこまらずともよい」
殿下と話す時間は、驚くほど楽しいものでした。一部の学者以外に、古文書の研究をこんなに認めていただいたのは初めてのことで。その内容まで語り合えることに胸が高鳴りました。
(追放された方が幸せだなんて……不思議なこともあるものだ)
* * *
モリーも、今までよりも笑顔を見せることが増えました。
「エメ様が一生懸命研究をなさっていたのをずっとお近くで見てきましたから。だから、殿下に認められたのが殊更嬉しいのです」
こちらを見つめる瞳は煌めくように輝いています。
「モリー、ありがとうございます。これまであなたが手伝ってくれたおかげです」
「いえ、私など大したことはしておりません!」
そういうモリーの侍女服も、気付けば質の良いものに変わっていました。私の視線に気づいたのか、モリーは顔を赤らめました。
「……ああ、こちらは殿下がご用意くださったのです。仕事の服だけではなく、私服やアクセサリーまで。本当に、気の利く方ですよね」
「……モリー?本当に、殿下を好きになっていませんよね?」
「この前も申し上げましたでしょう!……それに、殿下はエメ様しか見ておられませんよ。私はあなたの侍女だから、親切にされているだけです。だから、やきもちなど妬かないでください」
「……やきもちなんか妬いていません」
そう言いながらも、私は胸の奥に何か黒いものが渦巻くのを感じて、そっと息を吐きました。
* * *
殿下から、夜会に何度か誘われましたが、丁重にお断りしました。そんな時間があれば、解析をしていたかったからです。
「君は、本当に仕事熱心だなあ。だが、そういうところが……他の連中と違って信頼できるよ」
トリスタン殿下は、肩をすくめた後に、私の肩を叩いてそう言いました。
「だが、一度父には会ってもらえないか?君を紹介しておきたい」
「公爵閣下に……?」
「ああ、古文書解析は我が国にとって重要な仕事なのだ。父も一度、会いたいと言っていてね」
——そうしてお会いした公爵閣下は、トリスタン殿下によく似た、穏やかな方でした。
「……いつも息子から君の貢献は聞いている。よくぞ、我が国を助けてくれているな」
「いえ、お役に立てているのならば光栄です」
「少々……我の強いところのある息子だが……どうか、見放さないでやってくれ」
閣下のお言葉は、古文書解析のお礼と言うには、少々私的に響きました。
(我の強いところ?そんな様子はないように思えるけれど……)
「いえ、殿下には天職を与えていただき、毎日充実しております」
「ならば、良いのだが……」
私の回答に閣下は苦笑いしたように見えました。なんだか、一国の主にしてはとても腰の低い方でした。
* * *
冷たい雨が雪混じりに変わる頃、私に手渡されたものは新たな古文書ではなく、一つの蝋板でした。そこには、雑に刻まれた文字たちが踊っていました。おそらく、古代語を知らない者が、見様見真似で掘ったのでしょう。
「トリスタン殿下……これは?」
殿下は、顎に手を当てて、しばしの間思案しているようでした。
「……これは、君だから信頼して打ち明けるのだが、口外無用でお願いしたい。実は、我が国で遺跡が見つかってね。君の古文書解読のおかげで順調に探索が進んでいたのだが……扉にこの文字が刻まれていて、それ以上進めないのだ」
(遺跡……!?古文書の山は、そういうわけか)
古代の遺跡となれば、文化的価値のあるものが多く発掘されます。利権も絡んでくるため、よそ者の私が信頼できると確証を持つまでは明かせなかったのでしょう。
「もちろん、口外は致しません」
殿下をじっと見つめると、彼は満足したように頷き、私の耳元で囁きました。
「ありがとう。……父はこの国を維持するだけで満足しているが——私は、もっとこの国の価値を知らしめ、豊かな国にしたいのだ。君はもはや、私にとってなくてはならない人だ。期待しているよ……エメ」
殿下が部屋を出ていくと、私はほうっと息をつきました。
この国に、遺跡が見つかったちょうどその時、私が追放されてやってきた。これは神のお導きなのでしょうか?——それとも誰かの意志でしょうか?
いえ……余計なことを考えるのはやめましょう。今は、この蝋板の解読に集中しなければ。いずれにせよ、私には他の道は残されていないのですから。
* * *
その日、私はモリーに手伝ってもらい、身支度を整えていました。動きやすいように、膝丈の上衣に脚へぴたりと沿う布ズボンを合わせ、堅牢な革のブーツを履きます。いつも下ろしている髪は、邪魔にならないように後ろで括り、防寒にフード付きの外套を羽織れば完成です。
……私は、解読した手がかりを携えて、遺跡の探索に赴きたいと殿下にお願いしたのです。
これは私にとって、殿下の真意を確かめるための一つの“賭け”でもありました。
「エメ様……いつも屋敷にこもっておいでなのに、探索だなんて心配です」
「モリー、そんなに心配する必要はありませんよ。遺跡内には野生動物も確認されていないそうですし、護衛もつきます。何より、殿下と一緒ですから」
私は、安心させるようにモリーの頭を撫でました。
「もう、子供扱いしないでください!私の方が年上ですのに……!」
私は、モリーの顔をじっと覗き込みました。
「それよりもモリー。昔した約束はまだ有効ですか?」
「……え?」
「私が、両親に顧みられず寂しいと泣いていた子供の頃。モリーは『何が起きても、ずっとそばにいる』と。ずっと私の味方でいてくれると、約束したではありませんか。これからも、ずっと私と共にあってくれますか?」
「は、はい!もちろん私の気持ちは変わっておりません。ですが、なぜ今、そのようなことを……?」
「ふふ。それが聞けて覚悟が決まりました。……では、行ってきます」
「エ、エメ様……!?」
視界の端に映った彼女は、涙ぐんでいるように見えました。
(この“賭け”で、もし全てを失ったとしても。モリーがいてくれるなら、私は……)
こうして、期待と不安を胸に、私は殿下と共に遺跡へと向かうことになったのです。
* * *
コツ、コツ、コツ。
遺跡の中、私たちは暗がりを照らす灯火だけを頼りに、慎重に歩みを進めました。じめっと湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつきます。こもった埃とカビが合わさった匂いが鼻につき、私はハンカチで口元を押さえながら、トリスタン殿下の後ろを歩きました。
ちょっとした物音にも反応する私とは異なり、常に泰然自若といった風情の殿下。この遺跡にも何度も足を運んでいるようで、護衛の兵士たちよりも落ち着いているように見えました。
「足元に気をつけろ」
「冷えるが、大丈夫か?」
彼は、何くれとなく、こちらへ心を配ってくれました。おかげで、暗闇の中でもある程度は安心して歩みを進めることができたのです。
最奥の扉に辿り着くと、私は解読していた蝋板の文字を読み上げました。
「——“乾きし口に水を満たせ。その重みをもって扉は動く”」
打ち合わせしていた通り、傍にいた兵士が、水筒を取り出し、龍の彫像の口に水を注ぎ込みます。すると——
ズズズ……
内部の仕掛けが軋み、石の扉がゆっくりと開きました。そして、松明の光が届いた瞬間、暗闇は黄金の波で満たされたのです。
金貨の山は埃をものともせず静かにきらめき、宝石の赤や青が星のように散りばめられていました。そして、その頂には、なお威厳を保つ王冠が鎮座しています。
気づけば、目の前にいたはずの殿下は駆け出していました。
「……やった!やったぞ——これで、我が国はもっと大きくなる!これまで小国と侮られていた苦労が、多くの努力が、ついに報われる時が来た!」
その両手に金銀を掬い上げ、天を仰いで感謝する殿下は、こちらを振り向いて満面の笑みを浮かべました。
「エメ、本当に助かったぞ。君には、褒美を取らせよう!なんでも、望むものを言うがよい」
(ああ。やはり、あなたは——)
「……ありがとうございます。殿下。少しで構わないので、二人でお話をさせていただきたいのですが、よろしいですか?」
* * *
財宝の眠る部屋で、私と殿下はそのまま向き合いました。兵士たちは、部屋の外で控え、こちらの様子を伺っています。
殿下は、始めははち切れんばかりの笑みを浮かべていましたが、私の視線が冷えたことに気づいたのでしょう。その顔つきを強張らせました。もしかしたら私が、何を言うのか予想がついたのかもしれません。
「殿下……まさかとは思いますが、あなたは私の婚約破棄と、追放を画策したのですか?……古代語を解読できる私を取り込み、財宝を手に入れるために」
言葉を口にする直前、唇が乾きました。心臓の鼓動が、大きく耳に響きます。
あくまでも、単なる憶測に過ぎないことはわかっていました。証拠はありません。……ですが、殿下の行動が好意からだけとは、私にはどうしても思えなかったのです。
モリー以外には味方もなく、証拠を集める術を持たない私には、こうやってぶつかるより他になかったのでした。
……彼は何も言いませんでした。その様子が、私の疑念を確かなものにしました。
「おかしいと思ったのです。あまりにもタイミングが良すぎる。大方、婚約者だったクロード様に嘘を吹き込み、父と取引でもしたのでしょう。古文書に興味がないはずの彼が、あまりにも丁寧に資料をつけて私をこの国に送り込んだのですからね」
トリスタン殿下は、こちらを色のない瞳で見つめ、しばし沈黙したのち、低く笑いました。
「……だとしたら何だというのだ?君だって、古文書解読ができて喜んでいただろう。君の両親だって……そう考えて取引に乗ったのだからな」
(まさか、お父様とお母様が……?)
思えば、両親は私のことを「貴族らしくない」とは言ったものの、研究を止めたことは一度もありませんでした。必要な書物を取り寄せるお金も……与えてくれていたのです。
「むしろ、感謝して欲しいくらいだよ、エメ。小国の公子と侮られ続けた私と、古文書研究を貴族社会から馬鹿にされていた君。私たちが組むことで、財と立場を手に入れた。……お互いに利益のある取引だったじゃないか」
そこにいたのは、もはや柔和な貴公子ではなく——野心に燃える一人の為政者でした。
「ええ、皮肉なことに。追放されたことはショックでしたが、この国での方が私は幸せを得られそうなのですよ?ですから——必要とあらば、これからも殿下に協力して差し上げましょう」
「それはありがたいが——含みのある言い方だな?」
「ええ。ひとつだけ、私の条件を呑んでいただけませんか?」
「条件……だと?」
殿下は、こちらを見つめ、怪訝な顔をしました。私は心臓に手を当て、深呼吸しました。ここが、正念場です。どうしても、この条件を呑んでもらわなければなりません。
「はい。どうかこの国において——」
私は息を吐き、トリスタン殿下に正面から向き合いました。
「“私とモリーの婚姻”をお許しください」
ついに、言えました。ずっと望んでいた、願いを。
「……な、何だと?」
殿下の顔が驚愕に見開かれ、黄金の光を受けた瞳が戸惑いに揺らめきました。
私はお腹に力を込め、静かに続けました。
「祖国では、“貴族令息”と侍女の結婚など許されるはずもありませんでした。しかし、この国ならば——そして殿下に貢献した私ならば、“特例”が認められてもおかしくはないでしょう」
しばらく目を見開いたまま、私を見つめていたトリスタン殿下は、はじかれたように笑い出しました。
「……なるほど。利用されたのは、私の方だったのかもしれんな」
そのまま、こちらを軽く咎めるように見つめます。
「いいだろう。……だが全く、君はとんでもない“男”だな!それでは、私の流布した噂も、あながち嘘ではなかったのではないか」
そう、私はずっと、モリーのことを——。身分差から結ばれることはないと諦めていましたが、殿下のお力を借りて叶うのであれば、遠慮する必要もありませんからね。何せ、私を利用しようとした方、ですから。
* * *
「ええ!?エメ様と私が結婚!?」
「はい。モリーは言ってくれたでしょう。ずっと一緒にいるって」
「……あれってそういう意味だったんですか!?私、てっきり生涯お仕えするという意味かと」
「はい、生涯仕えてくださいね。……私の、可愛い妻として」
「も、もう!エメ様ったら……」
私は、真っ赤になったモリーを抱きしめました。遺跡から広がるこの国の未来が、私たちをどこへ導くのかはまだ分かりません。ただ、窓の外から差し込む朝の光が、私たちの新しい希望を静かに照らしていました。
最近、新たなお話を思いつくのはいつも夕食の買い物中です笑。
魔法やギフトの存在しない世界で、主人公の能力を考えていたら古文書を思いつき、ワクワクしながら描きました。
ラストは賛否両論かもしれませんが、どう感じられたでしょうか?
よかったら、感想や評価などいただけましたら、とても励みになります。
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▼どんでん返し系・異世界譚
「ソレイユ王国シリーズ」よりおすすめ作品
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【新連載・8/16完結】結婚できないのは、私のせいですか
婚活三連敗。優良物件のはずの若き公爵・ブノワが結婚できない理由とは、いったい……?
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