夜明けと轍
私の曲である「夜明けと轍」をリメイクしてノベライズしてみました。
なので原曲の歌詞の内容とはあまり関係ないっす。
────海を見ていた。星辰と月球が濡らす渚は、白く泡立つ波の花露わにしてくれない。
私は海へ還ろうか迷って此処にいる。嫌気がさしたとか死にたいとかじゃない。ただ、ぼんやりと形容しがたい何かが私を此処に連れ去ったのです。
時刻はとうに過去から現在へ移り変わりました。水平線が白く滲む頃には、夜明けが私と海を光芒で塗り替えることでしょう。
そうなる前に、私はこの夜から旅立とうと決意した。
───「少女の遺稿」より
どうして、あの朝の冷たさを、いまでも忘れられないのだろう。人が生きていくうえで、もっと大事な記憶などいくらでもあるはずなのに、私という人間は、よりによって、あの色褪せた夜明けの匂いばかりを頑固に抱え込んで、離そうとしない。
破滅の前触れというものは、案外、静かなものだ。物語のように雷鳴が轟くわけでも、天使が警告を囁くわけでもない。ただ、あらゆる気配がやけに澄み切って、人の声さえ水底で響くように遠くなる。
あの日の私がそうだった。世界が薄っぺらな紙細工のように見え、何を触れても指先をすり抜けてしまう気がしていた。
私は、夜の名残りを引き摺ったまま、線路沿いの道を歩いていた。誰もいない。いや、人はいたのかもしれないが、私にとっては「誰もいない」のと同じことだった。視界の端をすり抜ける影のすべてが亡霊のように感じられ、声をかける勇気もなければ、かけられるほどの気概もない。
たしかに、あの頃の私は、生きることを少々、諦めていた。何もかもが煩わしく、朝が来ることさえ罰であるかのように思っていた。──けれど、そんな私にも、ひとつだけ、朝を迎える理由があったのだ。いや、正確に言えば、迎えなければならない理由と言ったほうが正しい。
凪に会うためだった。
凪は、私が大学の文芸部で出会った、妙に不器用で、妙に優しい青年だった。彼はいつも、手の甲にインクの汚れをつけていた。まともなペンの持ち方も知らず、それでも誇らしげに文章を書き散らしていた。そんな姿を見るたびに、私はなぜか胸の奥がざわついた。
私から見ても彼の文章は、決して上手とは言えなかった。むしろ、読み返すたびに首を傾げたくなるような、青臭く、整っていない、途方もない乱雑さに満ちていた。でも、どういうわけか、私は彼の雑な言葉から目を離すことができなかった。
──人が本当に書きたいことというのは、いつだって乱雑で、みっともないのだろう。
彼はそれを恐れていなかった。私には、それが眩しくさえ思えた。
その凪が、ある晩、ぽつりと言った。
「夜明けって、怖いよね」
私は返す言葉を失った。夜明けほど、美しい瞬間はないのではないかと思っていた。じっさい、私は何度も、朝日の射し込む瞬間を息を殺して眺めていた。世界がひとときだけ生まれ変わるような、神聖な静寂。それを怖いと言う凪の感性が、どうしても理解できなかった。
「どうして怖いの?」と、私は訊ねた。
彼は唇を噛みしめて、まるで誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「だって、昨日のままじゃいられないでしょ。夜は全部を隠してくれるのに、朝になったら、それが全部見えちゃう。自分がどれだけみっともないか、厭でも突きつけられる。そんなの、怖いに決まってるよ」
その言葉を聞いた瞬間、私はどうしようもなく胸が締めつけられた。
私もまた、ずっと同じ恐怖を抱えて生きてきたのだ。
ただ、それを言葉にしてくれる人がいなかっただけだった。
そんな凪から、突然、手紙が届いたのは春の終わりのことだ。
明日の夜明け、線路のところで待っている。君と話したいことがある。
手紙の文字は、心なしかいつもより震えていた。何があったのだろう。胸騒ぎがした。私の頭のどこかが、嫌な未来を予感していた。それでも私は、彼に会いに行くしかなかった。なぜなら、彼はいつも、誰の助けも求めずに沈んでいくような人間だったからだ。
翌朝の空気は、やけに澄み切っていた。季節がひとつ変わったかのように冷たかった。
私は、薄暗い線路沿いの道を歩きながら、自分の足跡が轍のように残されていくのを見ていた。砂利の上に刻まれた浅い溝。それはまるで、私がこの世界に存在した証のようだった。けれど、その証を誰が覚えていてくれるのだろう。誰が私の軌跡を辿ってくれるというのだろう。そんなことを考えていると、急に涙が込み上げそうになった。
凪は、線路脇の古い踏切の影で待っていた。痩せた背中が、少しだけ震えていた。
私も恐る恐る震え声をかけた。
「凪・・・」
彼はゆっくりとこちらを向いた。夜明け前でも分かる。彼の目の下に濃い影が落ちていた。まるで数日眠っていないようだった。
「来てくれたんだね」
「手紙を読んだから」
「そっか。・・・・・・うん、そうだよね」
彼の声は、やけに遠く感じられた。
その瞬間、私は確信したのだ。──ああ、これは終わりの予感なのだ、と。
「ねえ」と凪が言った。「きみは、生きていて、楽しい?」それは普段の彼からは想像できない、抽象的で、鉛のように重い言葉だった。
私は返事をすることができなかった。正直に言えば、楽しいわけがなかった。
だが、死にたいとも思っていなかった。ただ、どこにも居場所がなく、立ち止まることも前に進むこともできず、宙ぶらりんのまま、生きているふりをしていた。
そんな私に、凪は微笑んだ。優しいようで、どこか諦念を孕んだ薄い笑いだった。
「僕はね、どうしても、うまく生きられないんだ。書いても書いても、自分なんて空っぽで、誰の心にも触れられない。朝になるたび、自分の醜さが突き刺さってくる。こんな僕、もうどこにも必要ないよ」
「そんなこと──」
「あるんだよ」
彼は被せるように言った。声が震えていた。私は喉の奥が塞がれ、何も言えなかった。
凪は線路の方を向いた。東の空が、じわりと明るくなり始めていた。
「夜明けが来るね。僕、あれが怖いんだ。昨日と今日の境目が、どうしても越えられない」
私は必死で腕を伸ばした。
だが、凪は一歩だけ線路の方へ進んだ。
「君は、これからも生きるんだよ」
「待って。凪──」
私の声は、乾いた空気に吸い込まれた。
彼は振り向かなかった。ただ、微かに笑った気がした。
その瞬間、踏切が鳴り始めた。私は咄嗟に駆け出した。凪の肩を掴もうとした。
だが、彼は私の指先から、するりと抜けていった。
光が差した。朝日が、眩しく、残酷なまでに、あたりを照らした。
そして──世界が、音を失った。
人は、他人の不幸に対して異常なほど器用だ。
私の涙を見ながら、周囲の人々はみんな同じことを言った。
「あなたのせいじゃない」
──そんなわけがあるものか。
彼を救えなかったのは、どう考えても私の不誠実で、臆病で、どうしようもない弱さのせいだった。
私は、凪の残したノートを抱きしめて、毎晩のように泣いた。
ページには、彼の乱雑な文字が溢れていた。どれも、ぐしゃぐしゃで、読みづらくて、どうしようもなく優しかった。
ある夜、最後のページに書かれた文章を見つけた。
ぼくは、きみが好きだった。
でも、きみには言えなかった。
きみが笑うたび、ぼくは明日を信じたくなった。
ありがとう。
私はそこで、声を上げて泣いた。あのとき、私が彼に返すべき言葉は、もう決まっていたのだ。
私だって、彼を──しかし、どんな想いも、もう届けられない。
凪がいなくなってから、一年が経った。季節は巡り、あの日と同じ、冷たい夜明けがやってきた。
私は再び、あの時と同じ線路沿いを歩いていた。相変わらず、私は不器用で、臆病で、生きるのが下手なままだ。
けれど、ひとつだけ変わったことがある。
私は、凪のノートの続きを書き始めた。乱雑で、不恰好で、誰に見せられたものでもない。でも、書くたびに、胸の奥でかすかな温度が灯るような気がする。
それは、凪が残してくれた火種なのだ。
夜明けが来た。
私は、光に照らされた轍を見つめていた。
刻まれた軌跡は、もう消えかけていた。
人の足跡など、時間が経てばあっという間に跡形もなくなる。
けれど、それでいいのだ。
たとえ消えても、いま私が歩いている、この道のどこかに、凪のぬくもりは確かに残っている。
私は、それを抱えて生きていく。
夜明けが怖かった凪へ。
私は、きょうもなんとか生きている。
みっともなく、泣きながら、それでも歩いている。
──あなたが、そう望んだから。
私は、東の空へ向けて、そっと微笑んだ。
そして、幾分か強くなった足で歩き出した。新しい轍を刻みながら、消えるまで君が夜の向こうから見てくれているから。
どう読むかは貴方次第(関暁夫)




