文学談義
寒すぎ~~~^^
六月の雨は、どうしてこうも頼りない降り方をするのだろう。湿り気を帯びたままの昼過ぎ、私は大学近くの喫茶店に逃げ込むようにして入っていった。閉めた扉の向こうで、雨はちょうど息をつくように弱まり、地面に張りついた薄い水膜の上で、風がそっと遊んでいた。
この喫茶店には、もうずいぶん長く通っている。店主が気まぐれに煎れる珈琲は日によって味が違い、時には酸っぱすぎたり、酷く薄かったりする。それでも私は、ここが街の中で一番落ち着ける場所だと思っていた。窓際の席に腰を下ろすと、雨の匂いがまだ残る外気がどこからか侵入して、残り香のように静かに頬に触れた感覚を擦り付けていた。
先に二人分の珈琲を注文すると、ほどなくしてドアの煤被りした鈴が鳴り、友人の北川がやってきた。彼はいつもながらの薄い外套を着ていて、濡れた肩を軽く払いながら席についた。顔色が冴えないのは、昨日も徹夜で何かを書いていたからだろう。彼もまた、私と同様に我が道で文学を書き連ねる小説家であった。
「悪い、待たせたか」
「いや。雨がちょうど弱くなって助かったよ」
そう言って、北川は返事をせず窓の外をしばらく眺めていた。外には濡れた路地と音も無く泣いている空だけだ。何を見ているのか分からなかったが、彼がこうして黙り込むのは別に珍しいことではなかった。大抵、何か言いたいことを抱えているに違いない。
「・・・それで、原稿はどうなんだ」
私が柔らかく訊ねると、北川は少しだけ肩を竦めた。
「書いてはいる。・・・・・・書いてはいるんだが、どうにも文章が浮ついてしまう。まるで自分の手が、自分の言葉を信用していないみたいなんだ」
その言い方に、どこかひやりとした気配があった。机の上に置かれた彼の指先は、雨上がりの町のように冷たく見えた。
「おまえは、どうだ?」
突然話題を戻され、私は曖昧に笑った。
「俺か? まあ、ぼちぼち書いてはいるよ。ただ、なんだか、最近は書くたびに心が乾くというか」
「乾く?」
「あぁ。前は、書くことで心のどこかが潤うような気がしてたんだ。だけど最近は、書くたびに何かが抜けていく感じがする。言葉を渡すたび、代わりに自分の中から大事なものが少しずつ削れていくような・・・・・・」
北川は頷いた。私の、小説家とは思えない抽象的でヘリウムのように軽い口語表現に理解を示してくれた。
「分かる。おまえの言っていることはよく分かるよ。書くというのは、本当はずいぶん残酷な行為だ」
私は少し驚いた。彼がそんな弱音じみた言い方をするのは珍しかった。
「何か、あったのか?」
北川は答えず、代わりに椅子に凭れた。店内に流れる古いジャズの旋律が、少し歪んで聞こえた。それは多分、レコードプレイヤーでなく雨の湿気のせいかもしれない。
「昨日、教授に会ったんだ」
「文学科の?」
「ああ。原稿を見せたら、君の文章はどこか冷たいと言われた。――私自身、そんなことは少しも思っていなかったのに」
「冷たい、か・・・」
冷たい文章とは、妙な感性だと思った。例えば北国の話を書いたならば、寒風や雪の描写、囲炉裏の火が弾ける表現を以って寒さを表す。小説から感じる寒さとか温かさなんてものは、所詮己がそう感じただけに過ぎないのに、文学に携わる人々はその感性・・・・・・いわゆるセンスとやらを指標にしてしまっている。私ならば、相手がどう感じるかなど考えないだろう。どう感じようが、私が書いたものが何なのかは変わらないのだ。
「自分で読むと、むしろ熱に浮かされているように思うんだがな。それでも教授には冷たいと言われた。言葉が熱を持ちすぎると、逆に冷たく見えるのかもしれない。火傷した皮膚みたいにさ」
なるほど。北川の喩えは、彼らしい妙な鋭さを持っていた。しかし私はそれを口にして咎める気になれず、ただひっそりと珈琲に口をつけた。やや酸味の強い味が舌を刺した。今日は外れの日だった。
「それで、教授は何か言っていたのか」
「うん。文学は血の通った嘘であるべきだ、とさ。嘘であることに気付かれず、でも嘘でなければ書けない痛みを宿しているもの。それが文学だと言った」
「難しい言い方だな」
「そう言ってしまえばそうだな。でも、言われた瞬間、妙に納得してしまった。俺は――おまえは、どうだ? そんな“嘘”を書いてる自覚はあるか?」
私はしばし沈黙した。
”嘘”。
その言葉を聞くと、胸の奥に何かがじんわり疼くような感覚があった。自覚していない何かをはじめて言葉として撃ち込まれた感覚に似ている。
「どうだろうな。俺はどちらかというと、嘘をついている感覚より、何かをごまかしているという感覚の方が強いよ。書くたびに、自分の本音の半分を隠し、残りの半分だけ差し出しているような」
「半分?」
「ああ。全部を差し出してしまったら、何も残らなくなる気がするんだ」
北川は小さく笑った。しかしその笑いは、どこか哀しみを含んでいた。
「それは、分かるよ。だが、全部を書かなければならない瞬間が、いつか来るのかもしれない。・・・・・・そう思うと、怖い」
陰鬱な静けさに、店の奥で、店主が豆を挽く音がした。ガリガリと乾いた音が、北川の言葉の隙間へ入りこんできた。
「おまえ、最近痩せたんじゃないか」
「そうかな。自分では分からないな」
「いや、頬が少しこけてる。無理してないか」
北川は、また窓の外をぼんやりと見た。雨はすっかり止んでいて、道のあちこちに残った水たまりが疲れて背中を丸めた空を映していた。
「もしかしたら、俺は文学に向いていないのかもしれないな」
「何を言うんだ」
「いや、本気でそう思ったりするんだ。俺は、書こうとすればするほど自分が空っぽだと気付かされる。文章は書ける。だが、書けば書くほど、俺という人間の輪郭が薄くなっていくようなんだ」
「そんなことはないさ。おまえの文章はむしろ、輪郭がはっきりしているよ」
「そう言ってくれるなよ。嘘でも慰めになる」
「慰めじゃなくて、本音だ」
北川は弱々しい笑みを浮かべた。その顔が、どこか透明になったように見えて、私は妙に落ち着かなかった。風でなく、雨が落ちる風圧だけで消えてしまいそうな、弱々しい影法師がそこにいるようだった。
「・・・・・・なあ」
不意に北川が声を潜めた。
「おまえは、いつか自分の書いたもののせいで人生が変わってしまうような気がしたことはないか」
「人生が?」
「そうだ。いい方にも悪い方にも、だ。自分の言葉が、自分の人生を裏切るように働くことがあるんじゃないかって。あるいは、自分がまだ知らない自分自身を、文章が勝手に暴き出してしまうことが」
私は言葉に詰まった。
――それは、確かに、ないとは言えない。
書くという行為には、何か自分の影を切り取って世界に投げ出すような側面がある。自分の知らないうちに、自分より先に歩き出してしまう影。その影が、いつか自分を追い詰める――そんな錯覚を覚えることもあった。
「おまえこそ、疲れてるんじゃないか」
そう言うと、北川はふっと息を吐いた。
「疲れているのかもしれないな。昨夜、書いている途中で変な感覚に襲われたんだ。机に向かっていると、自分の書いている文字が、まるで誰か他人のもののように思えてきてな。俺が書いているんじゃなくて、言葉が勝手に紙の上を這っていく。そんな感じだった」
「怖くなったか?」
「少しな。でも同時に、その感覚に惹かれている自分もいた。怖いのに、美しいんだ。どうしようもなく」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥が微かに震えるのを感じた。ああ、こいつは、もうずいぶん危ういところに立っている――そう思った。
そのとき、店主が珈琲を持ってきた。二人分の湯気が、湿った空気に淡く溶けていく。苦く芳ばしい豆の香りが鼻の前を横切り、口元の珈琲の湯気が溜め息でくらりと揺れた。
「なあ」と北川が言った。
「もし俺が、このまま書けなくなったらどうする?」
「どうするって・・・・・・」
「そうだな。もし俺が、文学を捨てたら、どう思う?」
私は少し目を伏せた。
「捨てることはできないだろう。おまえはもう、書くという行為から逃げられない体になってる。たとえ書かない日が続いても、書かないことで苦しむはずだ」
「・・・・・・そうかもしれない」
「それに、おまえが書くのをやめたら、俺は困るよ」
「困る?」
「おまえの文章は、俺の中にある何かを照らす。自分では触れられない場所を、そっと照らしてくれるんだ。そんな書き手は、そうそういるものじゃない」
北川は、しばらく黙っていた。
そして、不意に小さく笑った。
「おまえにそう言われると、少し救われるな」
窓の外では、雲の切れ間から幽かに光が差していた。水溜まりがその光を反射し、まるで地面のあちこちに小さな空が落ちているようだった。
「なあ、今日は少し歩かないか」
北川が突然言った。私は少し不思議そうに眉を顰めた。
「歩く? 雨は止んだが、道はぐちゃぐちゃだぞ」
「それでもいい。……なんだか、じっとしていると変な考えが頭に渦巻いてしまう。歩きながら話した方が、うまく呼吸できる気がする」
私は頷いた。何か勘のようなものが働いていた。
――今、北川と一緒に歩かなければいけない。そんな、第六感とか、スピリチュアルじみた不可視の存在が私に無音のお告げをしたみたいだった。
店を出ると、空気はまだ冷たかったが、雨上がりの匂いがやけに澄んでいた。道の端には濁った水たまりが残り、そこを避けながら私たちはゆっくりと歩き始めた。
「どこまで行く?」
「別に決めてはいない。ただ、歩きたいだけだ」
北川はそう言って、少し速足になった。彼の背中が、妙に小さく見えた。
しばらく歩いていると、大学裏の、小さな公園にたどり着いた。雨のせいで人影はなく、濡れたベンチが静かに並んでいた。
北川はそのひとつに気にせず腰を下ろし、深く息を吐いた。
「・・・・・・なあ」
「なんだ」
「さっきの続きだがな。もし俺が書けなくなったら――おまえは、それでも友達でいてくれるか?」
「馬鹿なことを言うなよ」
「馬鹿なことじゃないんだ。俺は、書くこと以外に何も持っていない。文学がなければ、俺はただの影だ。誰にも見えない、光の当たらない影のままだ」
「そんなことはない」
「いや、あるんだよ。・・・・・・俺自身、そう思っているんだ」
私は少しだけ息を呑んだ。彼の声には、深い疲労が滲んでいた。何か言葉をかけないと、と思って声帯と舌を動かしたが、実に文学的ではない言葉が飛び出しただけだった。
「おまえは、影なんかじゃない」
「そう思ってくれるのは、おまえだけだ」
北川は笑ったが、その笑みは弱々しく揺れていた。せっかく晴れた空に暗雲を呼び込みそうな、不気味な重力がその顔にはあった。
「なあ、文学ってなんなんだろうな」
「急に難しいことを言うなよ」
「いや、ずっと考えてるんだ。文学は嘘だと言われる。血の通った嘘だと。だけど、嘘である以上、結局は影の仕事なんじゃないか? 光の下では存在しないものを、無理やり形にしているだけなんじゃないか?」
私は、答えを持っていなかった。
だから、ゆっくりと彼の隣に腰を下ろした。
「嘘じゃないかもしれない」
「え?」
「嘘かどうかを決めるのは読者じゃない。書き手自身でもない。書かれた言葉そのものだよ。おまえの言葉は、生きてる。嘘であっても、嘘のふりをした真実でも、おまえが書けばそれが現実になる」
「・・・・・・そんなこと、あるのかな」
「あるさ。だからおまえは書けなくなったりしないよ」
北川は、しばらく黙った。
やがて、彼はゆっくりと息を吸い込んだ。
「ありがとう」
「礼なんていらない」
「いや、言っておきたい気分なんだ。おまえと話していると、救われる。少しだけ、呼吸が楽になる」
私は何も返さなかった。代わりに、頭上の雲の切れ間を見上げた。
雲の端が僅かに開き、淡い陽光が細い帯となって公園のベンチに降り注いだ。その光は、北川の横顔に触れ、湿気で濡れた地面をほのかに照らした。
「・・・・・・帰るか」
北川が立ち上がった。コートの尻部分が少し濡れている。
「そうだな」
私もゆっくり立ち上がる。
歩き出すと、背後のベンチに落ちていた光が、まるでふたりを送り出すように揺らめいた。
「なあ」
帰り道の途中で、また北川がぽつりと言った。
「俺、もう一度書いてみるよ。教授に何と言われようが、俺は俺の言葉で書きたい」
「その方がいい」
「そうだな。たぶん、それしかできないんだよな、俺は」
その背中は、さっきより少しだけしっかりしていた。雨上がりの道を歩く靴音が、静かな夕暮れに溶けていく。
私はふと、北川の後ろ姿を見つめた。彼の影は、薄い陽光の中で、意外なほど力強い輪郭を描いていた。
――影じゃない。
こいつは、自分で考えているよりずっと、生きている。私はそう思った。そして胸の奥で、小さな安堵の火がゆっくり灯るのを感じた。
文学とは何か。――その答えは、まだ分からない。
だが、少なくとも今日だけは、言葉を交わすことで救われる瞬間があるのだと、私は確かに信じていた。
何でワンピース最新刊読んでたらこんな話が書けるんだろうか。
※多分ワンピース関係ない。




