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ディスマン短編集『語らずとも談る』  作者: ディスマン


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ありふれた天使

映画「天使と悪魔」を観ておこう

 天使は、公園で羽を休めていた。白い羽を畳んで、優しく大地を踏みしめていた。

 そこにいるのは天使だけではない。

 ジョギングする老夫婦、子供と芝の上を駆け回る家族、テイクアウトしたコーヒーを片手に経済新聞を読むスーツの男。ありふれた、または想像しやすい公園の風景だ。天使はその光景を、感情の読めない目で見ていた。表情も、心の内を避けさせないような、色のない顔だった。

 そんな天使を気に留める人物は誰もいない。皆、その天使に気づいていないのである。堂々と草の上や整備された歩道を歩いているのに、誰も天使を認識できていない。例え、教会に通う熱心な信者であっても、天使の姿を認識することは叶わないだろう。あるいは、西洋絵画史に造詣の深い人間なら気付けたかもしれない。

 人間の都合など露知らずな天使は、白い羽を閉じて小さい池のほとりを歩いていた。そよ風に水面が乱れ、不定形な波紋を作っている。しかし天使に変化はない。羽毛は揺れども、その白い髪が揺れることはなかった。もしかしたら、匂いすらも感じているか怪しい。ただ、感情や表情のないオートマタのように、そこに存在していた。


 無感情に、歩いてその場を立ち去ろうとした天使は、急に聞こえた子供の声に立ち止まった。

「ママ見て、天使だよ!」

 指をさして天使を見るのは、綺麗なブロンドの髪をした幼い少女だった。無垢な瞳は一直線に天使に向けられている。彼女の両親は見えていないようで「そうだねぇ。天使様がいるねぇ」と子供に対する生暖かい反応をしていた。天使の表情は変わらない。しかし、意外だというオーラを放っていた。自分は人間になど見向きもされていないと思っていたばかりに、一矢報わされた気分だ。こんなことはヤコブが主に勝った時以来だった。

 天使の背後の空で、雲に隠れていた太陽が隙間から顔を出した。天使にはしゃいでいた少女は数秒目が眩み、目が慣れた時には天使の姿は消えていた。少女がその一瞬で感じ取れたのは、羽ばたく小さな音だけだった。


 天使は空を泳いでいた。目的地など最初から無い。行きあてのない放浪者のように、空の海月と化していた。天使の影は地上の者が気に留めることなく、天空の雲と同じように、誰にも気づかれずに流れていく。

 天使は街中の街灯に降り立った。重さのない天使が降り立とうとも、街灯が曲がることも軋む音がすることもなかった。そこで天使は、あるポスターを見た。天使は文字が見える。しかし、読むことはできない。


"Congres Mondial des partisans de la Paix"


 そう書かれた文字に天使の絵。一番下には1949という数字が記されていた。通行人の反応から、高名な画家がデザインしたと分かる。だが興味がない天使は、それっきりポスターには目もくれず、街のどこかに降りては飛んでを、不定期に繰り返した。

 意味も目的もなくそうしている内に、太陽は赤みを増してきた。天使も少し眩しく感じられる光度が街を照らし、赤と黒に染めようとしていた。

 主の威光が地上と空から消える前に帰るとしよう。僅かに坂となっている十字路を飛んでいた時、昼に天使を見ることができた少女が、その十字路目掛けて走っていた。嬉しそうに、天使が見かけたポスターを抱えている。そこに、少女が来る方角から死角になるように車が走ってきた。最悪の未来を考えるまでもなく想像ができた。

 天使は何の気紛れか、初めて声を発した。口が開き喉の奥から波が放たれ、少女の耳を通して脳の奥まで響いた。驚いた少女は車道を渡ろうとした体を止めると、目の前を車が通り過ぎていった。危うく轢かれてしまうところだ。胸を撫で下ろした少女は、声を掛けてくれた人物をキョロキョロと辺りを見渡して探した。しかし、人は少なく、もっと言えば声が聞こえたと思った方向には人の影すらなかった。

 気まぐれを終えた天使は羽を羽ばたかせ再び空に舞い戻る。そのために天使は気付けなかった。ポスターを落とした少女が、そのポスターを横切った影に気付き空を見上げたことで、彼女は夕暮れの中を飛ぶ天使を目撃したのだ。少女は空に向かって「天使さまー!」と叫んだが、天使が地上を見下ろすことはなく、そのまま雲と赤の彼方へ消えていった。

 少女はポスターを拾って、皺ができることも厭わずに両手を結んだ。




 それ以来、天使を信じ続けた少女は女性に成長し、信心深いカトリック信者になった。しかし彼女は教会ではなく、初めて天使と出会った公園で祈りを捧げ、鳩に餌を撒いていた。餌を突く鳩を眺めていると、一陣の風と共に自分を覆う影があった。太陽の方を見上げた彼女は、涙を流して、されど声に出すことなく頭を下げた。

 天使は彼女に声を掛けないかわりに、両手にある物を握らせ、ふわりと優しく髪を撫でた。

 ハッとして顔を上げたが、天使の姿は消えていた。両手には、オリーブの枝が持たされていた。花も咲いていて、金木犀によく似た甘い香りがした。

 やがて少女は女性から老婆になったが、あれ以来天使と会うことはなかった。それでも彼女は、オリーブの花の香りと、優しく撫でてくれた天使の手の感触を忘れることはなかった。

 街は今日も白く照らされ、人も風も鳥も、この目に見える小さな世界の中を生きていた。

ヒント:創世記

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