麦の風
見て、聞いて、読めば、どんな閑静な街中でも小説の種は見つかります。
この話みたいに。
また変わり気のない一日がループのように始まった。四季によって肺へと吸い込まれる空気が冷たかろうが温かろうが、家を出て、仕事に向かい、帰る。この業の深い輪廻から逸脱できている人間は、日本だけでも少数だろう。今はまだ冷たい風も、ボケッと生きているうちに桜と緑の色に染まった温い風になる。それは結構なことなのだが、変わるのはそれくらいで、私自身に何か好機をもたらしてくれるわけではない。その毎年必ずやってくる無常な現実が、私に微小な絶望を燻らせてくるのだ。表裏どちらから進もうが始点に帰着するメビウスの輪を、雲ひとつない晴天に幻視した。
駅前は酷く風が強かった。乗り換えのために移動する人は濁流の如く乱れた列を作り、私が降りてきた駅へとなだれ込んでくる。改札のダムが彼らを幾らか堰き止めてくれることを祈ろう。ここの駅前は少し嫌いだ。ストリートミュージシャンが夕方に演奏しているからでも、よく分からない募金や民間演説をしているからでもない。怪しさしかないアンケート調査が横行しているのである。それに声をかけられている人を見たこともあるし、私も三度ほど被害に遭っている。その度に私は、偽名と偽の電話番号を伝え、非通知のスクリーンショットを見せて逆に騙している。ランダムでたまたま私を選んだのならまだいいが、仕事関連の荷物を運んで駅前を通る際に、どう見ても仕事中の私をわざわざ呼び止めるその様は、悪辣としか言いようがない。駅一つでこの不快感を抱かされるから、私はこの駅が嫌いなのだ。
しかし、悪いことだけではない。良い点もある。私がロータリーから出る際に、必ずベーカリーの横を通り過ぎることだ。早朝にも関わらず、開店前の店からはシンプルなバターと焼けた小麦の匂いが漏れ出ていて、無性に購買意欲を唆った。今日はわざわざ、休日であるにも関わらず定期券でこの店にやってきて、普段なら絶対やらないであろうベーカリーでのパンの購入をしてみたくなった。普段は着ない白のワイシャツ、ロングパーカー、黒のジーンズ。パンを買うだけなのに正装してきたような、田舎の垢が抜けていない若人をその身で体現していた。パンなんてスーパーの中にある小さい附属の店とかでしか買ったことはない。故に、こうして店舗として存在しているベーカリーへ立ち入ること自体が、私にとって今更はじめてのことだった。
時刻は朝の7時過ぎだというのに、中は薄い橙色の照明が灯り、緑の店名看板と絶妙な対色を成していた。配分としては緑は少ないのだが、それが緑を強調し、林の中の開けた場所で営む木造のベーカリーを想像させる。こんなベーカリーが、ヘンゼルとグレーテルに登場するお菓子の家の代わりならどれだけ良かっただろうか。そんな自分でも何故こんな思いを抱いてしまったのか理解できない感傷が、心臓の内側から突き出るのではなく、破ってくるような心情的な違和感が生まれた。
狭い自動ドアが開けば、より濃厚な麦の風が香りと共に私の前から後ろへと吹き抜けていった。ショーウインドウのように並ぶパンと、中央には焼きたてのパンとは違い、サンドウィッチなどの少し違う形態のものが置かれていた。気持ちのいい店員の声を横から受け止め、私はトングとトレイを手に取った。給料日が近いからといって、欲に任せてはいけない。
まずはオーソドックスに攻めてみよう。塩バターパンはやはり外せない。塩もバターも好きだ。とりあえず外れではないので二つトレイに乗っけた。次に、店頭で全然していたカリカリカレーパンに興味があったのでそれも一つ。せめて家で食べるために4種類は確保したい。それに相応しい2種類を選ばなければ。そう意気込んでトングを伸ばした先には、練乳バターパンがあった。大人になって久しく、甘いパンとやらを口に入れていなかった私には、甘いパンもまた過去のものだった。ここ数年は忘れられていた子供の舌と味を思い出したくなった私は、残り2種類をこのパンと、変わり種としてシナモンシュガーのチュロスを購入した。甘く、されど芳しい麦の香りは、私はもちろん店内の全ての人間を酔わせていた。
外に出た私を、容赦なく冷たい乾風が横切っていく。そのせいか、私のパンから香りと熱を一時奪ってしまった。私は雨で濡れた子犬を抱えるように、パンを胸に抱えて駅の階段を上った。あと3分もすれば急行の電車が来る。この時だけは冬と風が恨めしかったが、そんな私を慰めるように駅舎外に見える日向の輝きは増した。初めての経験は何であれ心躍るものであった。私はもう風に麦が攫われないように、ホームに近づく電車に少し背を向け、紙袋を守った。ドアが開き、人と暖房が外に流れ出ていく。私はテュポンの吐息が来る前に、安息へと運んでくれる揺籠に乗り込み端の席に腰を下ろした。車窓から差し込む眩しい光を忌々しく思いつつも、光の体温には感謝した。
めちゃ純文学みたいな文体だけど、身も蓋もない言葉で言うなら「通勤路の駅にあるベーカリーまで行ってパン買った」だけなんだよなぁ




