空情
ここまで露骨な私小説はお目にかかれませんな。
てか、この主人公って誰なんでしょうね(白目)
連続テレビ小説が嫌いでした。
ストーリーが嫌いなのではありません。俳優や女優が嫌いなのでもありません。自分は、悲しみや怒りに泣く役者が嫌いだったのです。演技なのは百も承知です。そもそも、ドラマと分かっていながら感情移入できる心が、自分は持ち合わせておりませんでした。泣き声が自分のストレスを刺激してイライラするのも多少はあります。しかし、それは自分が嫌う最たる理由ではありません。自分は、人が泣くということについて全く理解できなかったのです。
あれは、中学三年生の頃でしたでしょうか。自分は毎年恒例となっている林間合宿で、学年対抗の演劇を行うのですが、その年は後輩の二年生に軍配があがりました。大会議室のステージの上で、最後の中学生活で優勝できなかったことへの悔しさで皆が涙していました。その時、自分の心には悔しさも悲しみも何もありませんでした。なので、なぜ彼らが泣いているのか、本当に理解できなかったのです。隣にいた同級生に「何でみんな泣いてるの?」と真顔で聞いたほどでした。
それから、自分はある自覚が芽生えてきました。自分には、健全な人間にあるべき心が欠如しているのです。血は赤いはずなのに、それが人間の血なのか分からなくなっていました。家の鏡を見ても自分の顔は変わらず、シャワーを浴びてもパーツの繋ぎ目などありません。自分はオートマタではなく、空洞を持つ人間であったことは確かでした。
悶々とした鬱感情や得体の知れない違和感を心房に雑に詰め込んだまま、高校生になった自分は思春期特有の病に侵されていました。俗に言う、自己に対する迷いです。自分も例外ではなく、それはそれは大いに悩みました。一度だけ、学校近くの河川敷で黄昏れるほどに、自分にとってそれは大きな苦悩だったのです。心が欠けた自分は誰なのだろうかと、精神に伸し掛かる鈍痛を誤魔化しながら学業の傍らでその答えを探し続けていました。
自分が人間になる転機が訪れたのは2回です。1回目は、学校の図書室で偶然見つけた哲学書でした。タイトルは思い出せませんが、ニーチェ・キルケゴール・ミルの三名だったと思います。その哲学者たちの思想を読んで、自分は同級生の誰よりも先にアイデンティティの確立に成功したのです。この成功体験もあって、自分は哲学や思想にのめり込んでいき、倫理の授業に趣味で参加することもありました。それだけ、自分の中で何か確固たるものが生まれることに、自分は喜びを感じたのです。
2回目は、全くの偶然でした。自分は家族と中古書店に寄った時、ある一冊のノンフィクション本を見つけたのです。それが、角川ホラー文庫で出版されていた平山夢明の「異常快楽殺人」です。自分は、彼らの思考や心理に深い興味を抱きました。なぜ彼らは人を殺し、どう考えて生きていたのか。この時、自分は初めて人の心というものに対する探究心が芽生えたのです。
それから自分は心理学科に入学、学士号を取得して今はこうして創作に精を出しています。そんな経験をしても、自分は人に興味がありません。厳密には、興味を惹かれるような人間が外の世界で生きていることが少ないのです。皆、自分を社会の一員や何かの一部としてしか考えておらず、個人という独立した存在であることに気づかずに生きています。それが、自分は理解できない。早くして自我を確立した自分は、彼らこそが空情に思えてならないのです。
今の自分は、また若かりし頃の自分とは違う哲学に陥っていました。心の有無、正義の定義、人のあるべき姿・・・。己の答えしか見出すことのできない、何一つ保証のない選択肢を模索し続けるジレンマを着て、今この瞬間も、自分は創作を続けているのです。
それでも自分は寝慣れた布団の上で呼吸をし、持病の偏頭痛と戦いながら生きています。自分の想像を形にするため、自分が理想の自分で在り続けるために、創造物を電子の海に産み落としているのです。
この男は病気ですね。私には分かる。
同じ穴の狢というやつです(自虐)




