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ディスマン短編集『語らずとも談る』  作者: ディスマン


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朝蟲のたそがれ

記念すべき第一話は、虫のお話です。

ちなみに作者は虫が大嫌いです。

触れるのは蝶とノコギリクワガタだけです。

 20世紀、日本は太平洋戦争の真っ最中だった。

 米・中・英と日本を含めた東南アジア諸国が対立した戦争では、各国の正義と思惑が表裏の両方で渦巻いていた。

 自存自衛と大東亜共栄圏の建設を目指す日本の兵士が空を、陸を、海を舞台に銃弾と爆薬をぶち撒け、陸を赤く、空を黒く染め上げている。

 米国と戦争を繰り広げている戦時中に、血走った目と死の緊張を血管と共に浮かび上がらせているのは兵士だけだ。なのに、人は目には見えない何かに取り憑かれている。

 お国の為、人の為・・・。

 そんな根性と大和魂という理解はできても納得し難いものが、空や海や陸で散って散らせてを繰り返す武士(もののふ)を突き動かさせていた。

 国の為に戦場へ行くことは(ほま)れだ。いつからそう思い始めたのかはてんで分からないが、日本の共通認識だったことには間違いなかった。

 誰もが、怖さや不安を持ちながらもそれに憧れていたのだ。

 狂気的な熱狂と言える。盲目的とも言える。

 少なくとも、誰もが時代の(もや)の中で無意識に迷っていたのだ。


 東京の田舎で、そこそこ大きな屋敷で生活していた治明(はるあき)もそう思っていた。

 地主の長男であり一人息子の治明は、家督(かとく)を継ぐことが約束されており、両親もそれに相応しい男にしようと、それはそれは厳しく育てていた。

 だが、治明はそんな地主とか地位に興味はなかった。彼は兵士になりたかった。お国の為でもあり、陛下の民の為に。

 しかし、それは決して両親のためではなかった。一人息子であるが故の重圧や、過剰とも言える教育。治明は、家の地位など捨てて身一つで己の人生を生きたくなっていた。

 明日、徴兵の通達が家に来ると聞いている。

 私は兵士になるのだ。そして生きて帰って、家には戻らずに日本を自由に練り歩こう。そう心に誓って、治明は(まぶた)を閉じた。




 翌朝、日が昇り出した朝、鳥の(さえず)りと強めの風が鳴らす窓の音で目が覚めた。布団をどかして立ち上がろうとするが、何故か上手く立ち上がれない。

 思えば、布団を払い除けた時も体の違和感があった。手足がいつもとは違う感覚で動くのだ。

 いま思えば、昨日着た寝巻きの感触もない。寝惚けて脱いでしまったのだろうか。いや、だとしても下着の感覚までなくなっているのは可笑しい。

 とにかく起き上がるべく、寝返りを試してみたら簡単に打てた。その時に、治明は見たのだ。


 視界の上から垂れ下がる二本の触角を・・・。


 叫んだつもりなのに、治明の口から声が発されることはなかった。

 手を口元に持ってくると、更に混乱は加速した。手が黒く、細く、硬い。

 口の感触も変だ。唇も肌も感じることはなく、硬く鋭利な何かが生えていたのだ。

 これらの要素と光沢を持った体に、治明はあり得ない結論を見出した。

 治明は、朝起きると蜚蠊ごきぶりになってしまっていたのだ。しかも布団を退けられたということは、人間大の大きさとなってしまっていたことになる。

 六本の足、黒く平たい体、薄い羽。

 夢であれとすぐに念じた。何度も、何度も、何度も。しかし、現実とは理想はあっても夢想は存在しない。どれだけ何時で現実を否定しても、蜚蠊ごきぶりから人間に戻ることはなかった。

 なんて奇怪で不条理なのか。治明は声に出さず心の中で打ちひしがれた。

 朝になったら蟲になっていたなんて、正気を疑う出来事だ。

 いや、これは幻覚なのだろうか。自分は強烈な幻覚症状に悩まされてしまったのでは?

 治明の不安は考えるほどに膨らんでいく。こんな珍妙で片付けられない自分の現状を父と母が見たらどう思うだろうか。心配か、いや己を害虫として忌み嫌うことだろう。息子が蟲になってしまったことによって、これまでの厳しい教育も兵役も無駄となってしまったのだから。


「治明、入るわよ」


 絶望に浸っていると、部屋の外から母の声が聞こえた。

 不味い。非常に不味い。こんな姿を見られたら終いだ。兵役とか親子とか関係なく、怪物として(ほふ)られてしまうかもしれない。

 気を遣って開けないでくれ。治明は手を合わせるとは言えないぎこちない動作をして祈るしかなかった。

 その想いを嘲笑うかのように、ギィ・・・と木製の扉が開いた。

「治明・・・?」

 しまった。ついに母が部屋の扉を開いてしまった。やはり神はいなかったのだ。

 母が見た光景は、息子が消えた寝室、そして人間の大きさの蜚蠊だった。

 早朝の眠りも瞬時に消滅した母がとった行動は、単純明快であり予想に容易(たやす)いものだった。


「ぎゃああああ!」


 母は悲鳴を上げて、父に助けを求めに行ったのだ。

 やはり母は、治明を巨大な蟲として認識した。そう思うのは仕方ないと頭では分かっていたが、子としては非常に哀しき結果だった。

 その後に、治明の心にほんのちょっぴりの怒りが湧いた。何なのだ、この不条理、理不尽は。

 叫びたいのは当人である治明の方も同じだった。できることなら、山彦が返せないほどの声量を硬い口の奥底から発したかった。

 しかし、口から人間の言葉も蟲の鳴き声も出てこず、代わりに鈴虫が羽を擦り合わせるような音を発しただけだった。

 もう私は、心と思考しか人間じゃないのか。

 治明は受け入れ難い現実に絶望した。逃げた母を見ていた目には、部屋前の通路が映っているようで何も映ってはいなかった。

 もういっそ自害してしまおう。そう考えたが、そもそも蟲の姿でどうやって死ねというのか。川へ入水(じゅすい)か、(そら)へ飛んでいって窒息するか。治明は、とにかくこの唾棄(だき)すべき現実を終わらせたくて仕方がなかった。

 だが不思議なことに、その絶望も長くは続かなかった。

 それは、早くしないと父も私を追い払おうとしてくるから早く逃げなくてはいけないという、焦燥感だけではなかった。

 なんだか、無性に外へと出て行きたくなったのだ。

 外の風、草の匂い、陽光の暖かさ、川の冷たさ・・・。そのどれもが治明を呼んでいるような気がしたのだ。

 窓の外を見ながらその欲求、いや衝動が湧き上がってくるのを実感していると、後ろから何かで殴られた。

 吃驚(びっくり)したが、痛みはさほどなかった。振り返れば、竹箒を持った父がいた。その後ろには母が怯えた冷たい目で治明を見下ろしている。箒で息子であるはずの治明を叩いたのだ。

 いや、最初から彼らには、この蜚蠊が治明だとは微塵も思っていない。怪物だと思っていることだろうし、もしかしたら息子が食べられたと思って撃退してくれているのかも知れない。

 そう思いかけたが、そんな希望を持つのは絶望や失望を生み出すだけだと悟って思考を遮断した。

 恐怖に引き攣った表情で、父が治明に近寄ってくる。そして、箒の長い柄を思いっきり振り上げた。


「出ていけ! この(おぞ)ましい醜い化け物が!」


 何度も、何度も、箒が治明に振り下ろされる。

 父の罵倒と箒の打撃を浴びながらも、蟲の特性である外骨格に覆われた体にはてんで響いていない。その大きさが人間と同等となれば、骨格の強さも本物の蟲とは桁外れだろう。

 そうして耐えているうちに、治明の中にはさっき窓から外を見ていた時とは明らかに違う衝動が、沸々と腹の底から湧き上がってくることを自覚した。

 それは、自分を叩く父への怒りではない。

 それは、息子だと気づいてくれない悲しみではない。


 それは、もっと単純で本能的なものだったのだ。










 太陽は既に遠くの山を越えて、東の空から自然に囲まれた屋敷に、ありったけの光を注ぎ始めた頃。

 治明の衝動的欲求はなりを潜めていた。

 無我夢中だったことだけは覚えているが、それ以外は何も覚えていなかった。その前と比べて変わったことは、なんだか満たされたような気分になっていたことだ。

 例えるなら、腹一杯に飯を食べた時とよく似ている。

 何故か汚れてしまっている床や、部屋に転がっている残骸に対して不思議に思っていると、ピンポンと呼び鈴が鳴った。

 徴兵の通達が来たのだ。だが、両親はいないし自分が出るわけにもいかない。出たところで、その場で射殺されてしまうのは目に見えていた。

 治明は、兵士になる夢を諦めることにした。そうするしか道はなかった。

 だが治明はその選択に後悔はなかった。

 今はただ、外の世界へ恋焦がれていた。

「誰かいないのか? ここを開けろ!」

 使者の声を無視して、部屋の窓を開け放つ。途端に生温かい温度と草木の香りが、文字通り風となって治明に衝突して流れていった。

 部屋に充満していた、鉄臭い匂いはどこにもなくなっていた。


 『さあ、羽を広げて自由になりなさい』


 そんな声が外でも部屋でもない場所から聞こえた気がした。

 治明は、無意識に羽を広げて羽ばたき始めた。やったこともないはずなのに、体が自然とそう動いたのだ。

 八百万の神か、狐の誑かしなのか。この際、治明にとってそんなことはどうでもよかった。

 そして、遂に身体は窓枠から浮き上がり、広大な森が山の向こうまで続く"自然の世界"に飛び出したのだ。

 空を飛ぶという不思議な体験。なんて爽快で、愉快で、希望に満ち溢れた気分なのだ。唯一、この体となってしまったことに関しての感謝だった。

 人間でなくなった自分は、もう人間界の全てに縛られることはない。

 これが自由なのか。治明は感動に痺れた。


 さて、自由ならばこれからどうしようか。


 川のほとりで涼んでみようか。


 木の上から下を見てみようか。


 山の空気を感じてみようか。


―――嗚呼、素晴らしき世界(かな)


 これまでの厳しい人生がまるでちっぽけだと思えるくらい、治明はこの瞬間に満たされていたのだ。


























 数日後、東京の新聞には珍しく戦争以外の記事が一面を飾っていた。

 街行く人々はその新聞を手に取り、そして戦々恐々とした。

 戦争よりもこんなに恐ろしいことがあるのか。

 国内に残る市民たちも、複雑な不安と恐怖に暫く(うな)されることとなった。








『二十歳男性、両親を殺害


容疑者である治明(二十)は、〇〇月〇〇日明け方に両親を撲殺し、その肉を食べた。

徴兵のために徴収しに行った兵士が現場を目撃。容疑者の寝室は血の海と化しており、食べきれなかった両親の惨たらしい死体が転がっていたと証言した。

肉を貪りながら空虚な目で窓の外を見ていた容疑者は、言葉にし難いほど恐ろしかったと兵士は語った。

応援も駆けつけ、その場で取り押さえられた容疑者は兵士の声に反応することはなく、ブゥゥーーンと譫言(うわごと)のように繰り返していただけだった。

今後は、東京裁判所で殺人容疑として起訴される予定であり、第一級殺人か精神異常による無罪か。


判決はどちらに転ぶか未だ判らずである』

カフカの変身が手元にあったので、私なりにアレンジしてみました。

無自覚な絶望って、読者の心をここまで陵辱するんですね。

読んだ時からずっとこうしてやりたかったんですよ(黒笑)

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