婚約者に嫌われたので感情を出します。どうぞご覧ください。
「貴女は心が疲れているのね。感情を抑えなくてもいいのよ。そうね、自分の気持ちと向き合って少しずつ感情を出していく練習をしましょう」
「先生、実は私、感情を出すことは得意なのです。どうぞご覧ください」
「えっ?」
╌╌╌╌
私は婚約者に嫌われている。
同じ学園に通っていても話しかけられることはないし挨拶も無視される。子供の頃は仲が良かったしカッコいい男の子が自分の婚約者で嬉しかったのを覚えている。
彼は運動が得意で剣術の成績がとても良いらしい。逆に私は運動は苦手だが魔法学は得意だ。魔法の練習はとにかく己と向き合い続けることが大切で、彼からは「魔法学に精を出すなんて地味な奴のすることだ」と言われた。
「変化ができるようになりましたの」
先生でも難しいとされる変化や分身ができた時は彼にも認めてもらえると思って親よりも先に伝えたのだが、
「変化だって?気持ちが悪い」
と言われてしまい泣きそうになったが我慢した。結果スンッとした表情になった私を見て彼はイライラした様子で言葉を続けた。
「だいたい君はいつも澄ました顔をして感情がないのか?君と一緒にいると本当につまらない」
頑張って涙を我慢したのに今度はなじられてしまった。
いつからか彼は私といることを恥ずかしがるようになり今では完全に嫌われている。彼は将来騎士になれると言われるほど剣術の腕前が上達しており女性にモテる。学園ではお喋りが上手で可愛らしい子と一緒にいることが多く、もう一人の男性の友人と三人でいることが多い。それだけでも私は傷付いているのに彼らは私の言葉を無視するだけでなく通りすがりにクスクス笑うのだ。
私の容姿が冴えないからなのか。私がダサいからなのか。お喋りが上手じゃないからなのか。表情が乏しいからなのか。
婚約者に会うたびに傷付き自己嫌悪に陥る。私は俯き目が隠れるように前髪を長く伸ばした。
「貴女は悪くないわ。早く親に言って婚約を解消してもらいなさいよ」
別の学園に通う友人はそう言ってくれるが私とて思春期真っ盛り。婚約者に嫌われているなど親に知られたくはない。そもそもこの婚約は祖父たちが決めたものであり親は小さい頃の彼のイメージのままで彼のことを良い子だと思っている。親を悲しませたくない。親に自分が可哀想な子だと思われたくない。親に言えない悲しみと、彼らから受ける嘲笑が私の毎日の全てを黒く塗りつぶした。
しばらくすると母が私をブックカフェへと誘ってくれた。少しレトロな雰囲気が漂う落ち着いた店だ。壁際に様々なジャンルの本が置いてあって本好きな私はワクワクした。ティーセットをいただきながら良さそうな本を探す。いつもなら魔法に関する本や恋愛小説、女性のエッセイなどを好んで読むが、この日私の目にとまったのは『あなたの気持ちを我慢するな』というタイトルの本だった。チラリと母を見ると婦人雑誌を手にして素知らぬ顔をしている。私は母の向かいに座ってその本を読み出した。
『自分の感情を認めてあげましょう』
『感情のラベリング』
『感情を手懐けよう』
人は様々な感情によって動いており、それを無視して抑え込むよりも認め解放してあげる方が人生を豊かにする、そんなことが書いてあった。私はいつしか夢中でその本を読んでいた。母が私の様子を心配そうにチラリと見ていることなど気付かないくらいに。
『私が婚約者に対して感じていることは、驚き、悲しみ、恐れだわ。この感情は、ありのままの自分を愛してもらえるという期待からきているのね。期待が裏切られ悲しみに染まった時、全てに悲観してしまう…今がその状態なのね』
おおよそ本の概要を読んだ私は本を閉じて冷めた紅茶を一気に飲み干した。このままではいけない、そう強く思った。
『ありのままの自分を愛してもらうことを他人に求めてはいけないわ。自分で自分を愛してあげなければ…!』
次の日から彼らを見かけて心がザワザワした時は胸に手を当てて自分の感情との向き合う作業を繰り返した。
『ああ、私は悲しいのね。ただただ悲しい。あの人に期待してはいけないわ。あの人に私の価値を委ねてはいけない。大丈夫。私の価値は私が知っているわ。家族や大切な友人が私を大切に思っていることを思い出すのよ』
しばらくそんな日々を送っていると、次第に怒りの感情を自分の中に見つけた。
『客観的に見ても彼の態度は酷いわ。それに彼の友人たちも。怒りが湧いてくるわね。でもこれは良いことよ。怒りは恐れの反対の感情。彼らを恐れる必要はないもの。怒りの出現に喜びましょう』
これまではただただ悲観する毎日だったが、怒りと喜びという感情から自分への誇りが形成されていった。
『私は私を裏切らない』
そんなスローガンを掲げて姿勢を正し前髪を切り堂々と振る舞うようになると自分の意見が少しずつ言えるようになり学園でも友人が増えた。そして自分の感情を掻き乱していた婚約者の存在が自身の中で小さくなっていくのを感じ、より魔法学に集中することが出来るようになった。
そうして数ヶ月過ぎた頃、私は感情のラベリングどころか感情を自分の分身として切り離すことができるようになった。
「先生、私自分の感情を分身として出すことができるようになりましたの」
「…は?」
先生は意味がわからないという表情をしたが簡単な話だ。もともと出来ていた分身に自分の感情をのせただけ。以上。
「いや分身の魔法は自分が複数人になるだけで感情をひとつひとつ切り離すなんて聞いたことがないよ」
「それが出来たという話です。詳しくはこの自己啓発本をお読みください。以上」
そう言って先生に私の愛読書となった自己啓発系の本を渡した。私の魔法は新しく凄いことだと言ってもらえたが実際はまだまだ改良の余地のある不便なものだ。分身と変化を合わせて分身の姿形は思い通りにできるが、のせる感情は選べない。何度か試してみたが、私本体にその時最も強い感情が残り、他の感情のうちどれかが分身にのるようだった。
別の学園に通う友人に魔法を見せると驚いた顔をした後、よよよと泣き出した。
「彼のせいでこんなに追い込まれてしまったのね…」
「ふふ、貴女ったら驚いて悲しんでいるの?驚きと悲しみからくる感情は失望よ。私に失望した?」
「悲しみより、その異常な魔法への嫌悪感というか…」
「驚きと嫌悪感?それは不信ね」
「そうね。貴女の思考回路が信じられないわ。貴女、どうかしているわ」
「奇遇ね。私も自分がどうかしていると思ってはいるの。でもなんだか悪い気もしなくって。ふふ、嫌悪感と喜び…つまり病的状態ってことね」
「怖っ!純粋に怖いっ!」
和気藹々(?)と日々を楽しむようになった私は婚約者たちに嘲笑されようと表面上は動じなくなっていた。それが彼らには面白くなかったのだろう。ある日、人目のつかない場所に呼び出された。指定された場所に行ったが誰もいない。しばらくしてから帰ろうとすると彼らがやってきた。
「やだ、本当に来ているわ。彼が貴女なんて相手にするわけないのに何を期待したのかしら」
そう言って笑う女性。私は『そっちが呼んだくせに』と思いながら無の表情になった。
「全くお前は感情の読めない女だな。お前のような女が婚約者なんて恥ずかしくて仕方がない。婚約を解消してくれ」
剣術の授業の帰りだったのだろうか、模擬戦で使う切れ味の悪い剣を携えた婚約者がそう言って私を睨んでくる。以前の私なら羞恥で顔を真っ赤にして俯き、ただ涙を堪えていただろう。でも今の私は違う。堂々としていればいい。いつもオドオドしていた私の凛とした態度に彼らはさらにイラついたようで彼の友人である男性が鞘に入った剣で私の足元を掬った。私は呆気なく転ける。前のめりで転けた先に婚約者がいたので手を掴もうとするがサッと避けられ前日の雨でぬかるんだ泥の中に顔からダイブした。わっ!と口を開けたものだから泥が口の中に入ってしまう。
「おっと悪い。わざとじゃないんだ。疲れていて手元が狂ったようだ」
そう言って男性がわざとらしく謝る。女性は「いじわるね」と言いながらクスクスと笑っている。友人たちの楽しそうな笑い声に気をよくしたのか婚約者が剣を鞘から抜いて私の顔の横にサクッと突き刺した。私の髪の毛が数本プチリと切れた。
「ははは、俺も手元が狂ったようだ。疲れたからもう帰ろうか」
そう言って彼らは笑いながら去って行く。彼らの嘲笑が聞こえなくなってからしばらくして私は身を起こした。そのまま外にある水洗い場で顔や髪や服についた泥を軽く落とし保健室へ行く。皆が下校した校内はシンとしていた。
ヒタ…ヒタ…ヒタ…
私の水を含んだ足音だけが廊下に響いている。
ヒタ…ヒタ…ヒタ…
ここまで私は嫌われていたのか。なぜここまでされなければならないのか。そんな驚きと深い悲しみが彼への失望へと変化していく。
いつかは分かってくれるはずだと、わずかに残っていた彼への信頼が嫌悪へ変わり憎悪となった。そして私の誇りが絶望へと黒く、黒く堕ちていった。
さすがにこのことは親に知られることとなり相手の親から謝罪をしたいと連絡があった。今は彼に会いたくないという私の意向を尊重し相手の親だけが我が家に来て謝罪をした。相手の両親は私が口を挟む間も無く何度も何度も謝っていたが、私の母はそれを一旦止めて私に意見を求めた。
「貴女はどう思っているの?貴女はどうしたいの?」
私は暗い目をしたまま言う。
「…私は悲しい。そして怒っています。私の全てがこの感情に押しつぶされそうです。私はこの感情を発散させたい」
私が望んだのは彼を含む三人と会って私が気が済むまで感情を発散させることだった。彼の両親はなんなら殴ってくれてもいいと言い、他の二人の親にも許可を取ってくれた。私はそんな彼の両親に感謝をし、もう一つお願いをした。
「この書面にサインをお願いします」
「魔法契約書…?」
魔法契約書は企業の契約や銀行の契約さらには国同士の契約などに使う強い契約だ。契約を反古すると魔法が発動し罰が与えられる。書面には要約すると『私一人で彼らに対して感情をとことん発散させますが何がどうなっても許すように』と記してある。
「こんなものを結ばなくても何も言わないよ」
と彼の父親は優しい笑顔で言うとサインをしてくれた。か弱い女が一人で三人を相手にするのだ。せいぜい罵倒か平手打ちで済むと考えているのだろう。私の母だけが青い顔をして相手の親がサインする様子を見ていた。
数日後、私の希望通り相手の家の一室を借り私と元婚約者と彼の友人二人が集まった。親の前ではしおらしくしていた三人だったが私の希望で四人だけになるとあからさまに嫌そうな顔をした。
「それで?俺たちに何の用だ。謝罪はしただろう。まだ俺に未練があるのか?勘弁してほしいな」
またクスクス笑い合う三人を無視して私はドアの内鍵を閉め、静かに告げた。
「私は貴方に頼らずとも自分で自分を愛してあげようと頑張っていたのに。それをも貴方は壊した。私の感情を貴方にぶつけるわ」
そう言って私は四人の屈強な男たちに分身した。スキンヘッドの髭面の男が二人、顔に大きな傷のある大男が一人、可愛らしい少年が一人。全員屈強な男にしたかったが、こんなに複数の分身は初めてだったので四人目は可愛らしくなってしまった。
「きゃあ!何をする気よ!」
女性は強面の男三人を見て悲鳴をあげる。彼女を無視して私本体に残っている感情を探すと、どうやら怒りと嫌悪が残っていた。元婚約者と友人の男が彼女を守るように立つ。その表情には怯えが見られた。
「さぁ、私の感情よ!存分に発散しなさい!」
私がそう叫ぶと屈強な男たちが彼らに襲いかかった…と思ったらスキンヘッドの二人がべそべそと泣き出した。
「私、こんなことしたくないわ!なんで私がこんな目にあわなきゃいけないのよ!」
「怖いよ、怖いよ〜!」
なんということだろう。強面髭面スキンヘッドの二人は悲しみと恐れの感情がのっているようだ。えーんえーんと泣く男たちの見た目とのギャップが酷く、異様な雰囲気に元婚約者たち三人は更に怯えている。
私が思い描くようにはならなかったが、私は自分の感情を認めてあげなければならない。
「そうよね。本当はこんなことしたくないわよね。この人たちのために私の手を汚すことなんてないのよね」
私の言葉を聞いて元婚約者たち三人はあからさまにホッとしている。その時、顔に傷のある大男が甲高い声で叫んだ。
「流されちゃだめよ!このままでは怒りと嫌悪の感情がずっと私に付き纏うわ!そんな人生嫌よ!本体の意向に従いましょう!」
彼にはどうやら服従がのっているようだ。服従をのせた分身は他の分身を奮い立たせ元婚約者たち三人を組み敷いていく。
「何するんだやめろ!!!」
「いたいいたい!!!」
「やめてちょうだい〜!」
屈強な男たちに組み敷かれ叫ぶ元婚約者たちを見ていると私本体の怒りがシュルシュルと萎んでいくのを感じた。私の怒りは十分に発散された。なんだかもういいや、と思った私は分身を止めようと思ったが四人目の分身である可愛らしい少年が目をキラキラさせて調度品として飾ってあった短剣を持ってきた。
「私もヤる〜!今日は好き放題していいのでしょう?やったー!なんでもできるなんて嬉しいー!」
彼にはどうやら喜びと驚きからくる純粋な歓喜がのっているようだ。彼は笑顔で元婚約者たち三人をボコボコにした。キャッキャと楽しそうな歓喜の声と、ギャー!という元婚約者たちの声が聞こえる。完全に怒りが収まった私には元婚約者たちへの嫌悪しか残っていない。もう彼らのことを見るのも嫌でその辺にあった本を読む。しばらくして周りが静かになったので終わったかなと思って目をやると、屈強な男たちに押さえつけられた三人の顔面の前で歓喜をのせた少年が座りこみ真剣に作業している。
「何をしているの?」
彼らの近くへ行って覗き込むと、元婚約者たちの眉毛とまつ毛を短剣で剃りながらキラキラした笑顔を見せる少年の姿があった。元婚約者たちは顔に刃物を当てられて息を潜めて我慢をしている。歓喜をのせた少年の目はキマっていた。
「今声をあげないでね。動かないでね。手元が狂うかもしれないから」
少年には歓喜の他に恨みの感情ものっていたのかもしれない。調度品として飾られていた短剣は切れ味が悪いようで皮膚に押し当てて毛を剃る様子に、恐れの感情を持つスキンヘッドの男が「ああっ!怖い!皮膚ごと持っていきそうでこわいよぉ」と小声でブツブツ実況中継している。元婚約者たちはその実況を聞いてさらに顔を青くして声も出さずにプルプルしていた。
その後、歓喜の少年も満足し分身を解くと四人分の身体的疲労がどっと私に襲いかかってきて思わず床に膝をついた。
「あ〜!スッキリしましたわ〜!!」
私の叫びを聞いた三人はビクッと身体を震わせる。私は彼らに対する怒りも悲しみも嫌悪も全てが解消されて清々しい笑顔で彼らを見た。
「どうでしたか?私の感情は」
彼らは無言で震えている。疲れ切った私は床に大の字で寝転がった。
私が息を整えていると「そろそろかな」とやってきた相手の両親が、ボコボコにされ泣いている眉毛とまつ毛のない三人と、肩で息をしながらも目がキマっている私を見て驚愕の表情を浮かべ短い悲鳴をあげた。
その後、魔法契約書により私がしたことは全て許され円満に(?)婚約は解消された。感情を物理的に発散させて大満足し疲れ切った私はあの日の夜から次の日の夕方まで寝続け、起きるといつものスンッとした私に戻った。母は私を見て「スッキリしたのね」と笑顔を浮かべた。
彼らは私がしでかしたことでトラウマを植え付けられカウンセリングに通い始めたらしい。長くかかるそうだ。かくいう私もカウンセリングを受けることになった。感情を削ぎ落としたようにスンっとした私を見てカウンセリングの先生が優しく私に話しかける。実際は感情が満足しすぎて心が凪いでいるだけなのだが。
「貴女は心が疲れているのね。感情を抑えなくてもいいのよ。そうね、自分の気持ちと向き合って少しずつ感情を出していく練習をしましょう」
「先生、実は私、感情を出すことは得意なのです。どうぞご覧ください」
「えっ?」
プルチックの感情の輪を見て思いつきました。解釈に間違いがあるかもです。