side 音
【わかった】
文字を読んだ姉は頷いて、車のドアを開けて降りる。
「音、鍵もらった?」
「あっ、うん」
鍵を渡してと言わんばかりに母は手を差し出してくる。
「これが、合鍵」
「これからは、インターホン鳴らさずに来ていいって事よね?」
「見られてまずいものはないから大丈夫だよ」
「そう?それならよかった」
ニコニコと嬉しそうに笑いながら母は車から降りて、俺も後に続く。
「これからは、好きな時に来れるって。今までは、あの子がいたからそうはいかなかったじゃない」
母の口の動きを読もうとしたけどやめた。
何故なら、姉の目が解読するなと言っていたからだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
引っ越し屋さんがやってきて、早口で話始めるから口の動きを読むのが追い付かない。
「音。運ばれたダンボールほどいたら?話すのは、私や母さんでも出きるから」
「ありがとう」
スマホを出させないように姉は、そう言ったんだと思った。
こんな機械に頼らなければ生きていけないなんて、本当に情けないと思う。
運ばれたダンボールは、リビングに集められていく。
俺は、服と書かれたダンボールを持って寝室に向かう。
ワンルームでもいいかなって思ったけど、琴葉がリビングがあった方がいいって言ってたから、1LDKにした。
琴葉に会う事なんて二度とないのに……。
二人で使っていたダイニングテーブルは、捨てられなかった。
ダンボールを開封して、服を取り出す。
この服のほとんどが琴葉との日々を覚えている。
「音、冬服もおいとくよ」
「うん」
姉は、ゆっくりと口を動かしてくれた。
今、この瞬間も母が何を話しているかわからない。
文字にしなくたって、琴葉の悪口を言ってるのはなんとなくわかる。
母にとって、琴葉は異物なんだろう。
ダンボールから、服を出してはクローゼットにかける。
振り向くと姉がクローゼットにしまう衣装ケースを置いてくれていて、俺はそれにシャツやTシャツをしまう。
その作業を繰り返すだけだった。
どれくらい経っただろうか?
青いダッフルコートをかけて、クローゼットの整理が終わった頃に母が声をかけてくる。
「音。終わったよ」
「ありがとう」
「今日は、晩御飯食べに来る?」
「あっ、うん。後で行くよ」
「じゃあ、先に帰ってるからね。近いから歩いてこれるでしょ?」
「うん……後で行くよ」
母と姉は、帰って行く。
いつの間にか、ベッドがきた事にも気づかないぐらいぼんやりしてた。
リビングのダンボールは、母と姉が片付けてくれていた。
引っ越し業者が持ってきてくれたダイニングテーブルが琴葉と住んでいた日々を思い出させてくれる。
ポケットから、スマホを取り出してアルバムから写真を探して見る。
いつだって、俺の傍には琴葉の羅列があった。
その文字を見るだけで、いつも幸せで、暖かい気持ちになったんだ。
だけど、もう。
あの文字を見る事はない。
どんなに悲しい思いをしても、どんなに傷ついても、それを忘れさせてくれるような暖かな羅列は……。
この世界には、もう存在しない。
この静かな世界を埋め尽くしてくれた声も文字も……。
もう二度と手に入らないんだ。
ブブッ……。
【今日、見送りに行ったのにいなかったんだけど。早めに出た?】
【うん。早めにきたよ】
【それなら仕方ないな。来週、そっち行くからその時はゆっくり話そう】
【わかった】
徹からのメッセージのお陰で、よけいな事を考えなくてよかった。
そうだった。
手話……。
この先を考えると必要なんだけど。母が賛成してくれるかがわからない。
とりあえず、姉に話してみようかな?
鍵を持って、家を出た。
この先に幸せなんてないのはわかっている。
また、母の顔色を伺うのもわかってた。
なのに、何で?
ここに来たんだろう。
考えたくなくて、鍵を閉めて歩き出す。
何で?
こんな近くを選んだんだろう。
自分の気持ちがわからないまま、実家へと続く道を重い足取りで歩く。




