side 音
傷ばかりしか増えない事をわかっていながら、この街に戻ってきてしまった。
電車を降りて、ホームを抜ける。
大嫌いなこの街に、何でまた戻ってきたんだろう。
「やっぱり、音は早く来るって言ったでしょ」
改札を抜けると嬉しそうに笑う母の姿が見える。
「荷物、持ってあげる」
母が笑顔になるほど、姉の顔は苛立ちに染まっていくのがわかった。
「ありがとう」
「ほら、行くわよ。早くしないと引っ越し屋さんもついちゃうでしょ」
スマホ画面に映る母の羅列は、今にも踊り出しそうなほど、嬉しそうだ。
「お母さん、車とってくるから。ほら、ロータリーで待ってて」
「わかった」
後ろ姿からも、母が嬉しくて仕方ない事が感じ取れた。
「あのさ、母さんを喜ばせる為に戻ってきたの?」
「いや……」
「じゃあ、自分の為なの?」
「そうだな」
「ねえ、いつから音は嘘つきになったの?」
「別に……嘘じゃないから」
「音は、ここに本当に戻ってきたかった?」
「戻ってきたかったよ」
「ここは、音を傷つけるだけなのに?」
姉の言葉に初めて目を合わせたけれど、すぐに目を反らした。
心の中を読まれたくなかった。
「仕事もリモートで充分できるから」
話を反らして歩き出す。
本当は、帰ってきたくなかった。
だけど、あそこに居たら俺。
「琴葉ちゃんを忘れたいなら仕方ないよね」
「えっ?」
「向こうに居たら会いたくなったんじゃない?琴葉ちゃんに……」
大人になっても、離れていても、姉には敵わないと思った。
姉は、世界で一番の俺の理解者だ。
「まあ、離れてみないとわからない事もあるわよね。母さんのうざさとか?」
「そんな事言ったら怒られるよ」
「怒られたっていいよ。離れたら本当に母さんってうざい人なんだってわかったからね」
ロータリーにつくと母が待っていた。
「遅かったわね。もしかして、私の悪口言ってたんじゃない?」
「さあ?どうだろうね」
「絶対にそうでしょう!音は、あの子にコントロールされていたんだから」
「コントロールって酷い言い方だね!」
「酷い?何言ってるのよ。音の事を何もわからない子と長い間いたのよ!感情をコントロールされてたに決まってるでしょ」
「決まってないでしょ」
「あのね……」
「母さん、引っ越し業者が、もう着くから」
「わかったわ。急ぎましょう」
母は、トランクにスーツケースをしまってくれた。
俺が後部座席に乗り込むと、姉が隣に乗ってくる。
「じゃあ、行くわよ」
「お願い」
母が車を走らせるとすぐに姉がスマホを取り出す。
【音、母さんはあの頃と何も変わってないよ。それなのに、何で、家から10分の場所を選んだのよ】
スマホを渡されて、俺は文字を入力する。
【家から近いほうが、母さんが喜ぶと思って】
俺の返信に姉は、眉を潜めながらも入力する。
【音は、また母さんのご機嫌伺いながら生きてくんだね】
その文字を見つめて固まった。
俺は、あの事故からずっと……。
母の機嫌を優先して生きてきた。
この先も、一生続くかも知れない母の笑顔の鎖。
それを断ち切ってくれたのは、琴葉だった。
琴葉と一緒に暮らした日々は、俺を強くした。
俺は、またこの鎖に巻かれる為にここに戻ってきたんだ。
【音。ここに戻ってきたのは仕方ないけど……。琴葉ちゃんから、教えてもらった歩き方だけは忘れちゃダメだよ】
【どうして?】
【だって、琴葉ちゃんと一緒に居た音は自分の意志を持った人間だったじゃない】
姉の文字に心臓がドクンと波を打つのを感じる。
「ついた。アパートをリフォームしておしゃれにしてるからいい感じね」
「そうだね」
二人の会話がわからなくて、スマホを取り出そうとすると姉が止める。
【これからは、見なくていい文字は見なくていいの】
姉がスマホに入力した文字は、あの頃のように俺を守る決意がつまっていた。




