誘惑
冷たい金属の扉をあける。
靴を脱ぐのも億劫だ。血を流しすぎたせいか、頭がふらつく。外で眠るわけにもいかず、ここまで歩いてきたが、もういいだろう。
司は瞼をおろす。睡魔に誘われるまま、意識を手放した。
空腹で目が覚めた。
どれだけ眠っていただろう。わずかに扉を開けると、日は中天を過ぎて西に傾いている。
どうりで腹が減るわけだ。
血まみれで外に出るわけにもいかないのでシャワーを浴びた。一応傷の具合を見ておく。まだ痛むが、放っておけば治るだろう。
外に出るともう黄昏時。
住宅街を抜け、駅へ。
普段なら下校中の子供や、定時帰宅する恵まれた社会人が歩く時分。というのに、今日は人っ子ひとりいない。閑散とした市街。
はあ、これも流行病のせいかね。ニュースなど見ないが、またぞろ外出禁止令でも出たのだろう。とすると夕食も危ういのだが。
ぐー、と腹が鳴る。
とはいえ、ここまで出てきたのに何もなしで帰るのもしゃくだ。もしかしたら店が開いているかもしれない。
目当ての格安中華料理屋へつく。休業の札はないが、店内に人はおらず、電気もついていない。
不審に思いながらも、扉に手をかける。力を込めると、なんの抵抗もなく開いた。
中に入るも、やはり無人。
「あのー、さーせん」
しばらく待っても、返事はない。
仕方なしに帰ろうとすると、澄んだ声音に引き止められた。
「どうかしました?」
声に反応して振り返る。
ダガーの女が立っていた。
司は後ろへ飛び退いた。拳を構える。わずかに顎を引き、相手の眉間を見据えながらも、ぼんやりと全身を視野に入れた。
戦闘準備万端の司を前に、女はあわあわと手を振る。
「そんなに身構えないでよ。今日は戦いに来たんじゃないの。話に来ただけ。街がおかしいの、気付いてるでしょう?」
「……人がいないことかよ」
「そ」
女はにこやかに答える。見る限り本当に戦意はないようだ。司は拳を解く。
女がカウンター席に座った。司も隣に座る。
「支路井岬」
「は?」
「名前よ。あなたは?」
「雲上司」
「へえ。珍しい名前ね」
司はじろりと岬を睨む。雑談をするつもりはない。
「そんなに睨まないでよ。怖いなぁ」
「うっせえ。さっさと話すこと話せ」
「異世界なの、ここ」
「は?」
藪から棒な物言いに、司は思考がとまる。
「何言ってんだ、お前」
「言葉通りよ。違う世界。建造物は完全に再現されてるからわからないでしょうけど。生き物はいないでしょう?」
「……わけわかんねえ」
「神隠しって知らない?」
「まあ、聞いたことは」
「あれと同じようなものよ。司くんはもとの世界からここに連れてこられたの」
「連れてこられたって、だれに?」
「神様」
異世界の次は神と来た。司はさらに混乱する。
「神とかそういうのがいるとして、なんでそんなことするんだよ。異世界とか言われても意味わかんねえよ」
「戦わせるためよ。ここに呼ばれた人間は九人。九人で殺し合って最後に生き残った人間が願いを叶えてもらえる。腕に紋が出てるでしょ?」
言われ、腕を見てみる。九枚の花弁のような模様が浮き出ていた。シャワーを浴びた時は血がついていて気ずかなかったようだ。
「ちなみにこの世界は一週間ほどで消えるから、勝者が決まらなければ私以外は全員死ぬわ」
穏やかじゃないことを言われたが、それ以上に気になることがあった。
「お前以外?」
問うと、岬はにっこりと笑う。
「私は正規の参加者じゃないの。昔、私のご先祖様がこの大会に勝って、能力を子孫に受け継げるようにしたのよ。その能力で無理やりこの世界に転移した。だから当然、私自身の意識で帰ることもできる。正規の参加者は九人だけど、この世界にいるのは私を入れれば十人ね」
「お前の能力って?」
「秘密。けど、私と手を組んでくれるなら教えてあげる」
「手を組む?」
「私は正規の参加者じゃないって言ったでしょ。もし私以外の九人が死んでも願いは叶わないの。だから、私に協力して欲しい。あなたを勝たせてあげるから、私の願いをあなたが頼んでくれない?」
「……俺に得がない」
「私の家、結構なお金持ちだから。神様の力ほどじゃないけど、大抵のことなら叶えてあげる」
岬に見つめられる。司は咄嗟に目を逸らした。女は苦手だ。
しばし考え、司は答える。
「断る」
「あら、残念」
さして残念そうな素振りも見せず、岬は立ち上がる。店を出る間際、ふと立ち止まった。
「そういえば、願いが叶うといったけど、この戦いで死んだ人間を生き返らせることはできないの。覚えておいてね」
「知ったことか」
司のつっけんどんな態度にも気を悪くせず、岬はひらひらと手を振る。
「そう。それじゃあ、またいずれ」
岬は店から出て行く。
司はひとり店に取り残された。
腹が鳴る。
「……人、いないんだよな」
司は勝手に店の冷蔵庫を漁り始めた。