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ヴァルハラ  作者: 八神あき
開戦
1/27

覚醒

 ずっと考えていた。

 どうしてこんなにも苦しいんだろう。

 どうしてあの人はそばにいてくれないのだろう。

 どうして自分はこんなにも、惨めなのだろう。

 じりじりと蝉の声。薄暗い倉庫の中は熱気がわだかまっていた。うずくまっていると、涙が汗と混じって床に流れ落ちていく。

 弱々しい少年だった。

 触れれば折れてしまいそうにか細く、顔はやつれている。服も髪も浮浪児のように汚らしい。泣きじゃくっていた顔はずぶ濡れで、目と鼻は真っ赤にはれている。

 ——弱いからだ。

 苦しいのも、惨めなのも、弱いからいけないんだ。

 強ければ。

 強ければ、自分を苦しめるやつらを叩きのめせる。欲しいものは奪う。侮辱する者は黙らせる。

 頼っちゃいけなかったんだ。

 人に頼るから、自分は弱いのに、大丈夫なんだと安心して、裏切られる。

 ひとはひとりでいい。強い人はひとりでも立てる、それが正しい道だ。

 少年はか細い足で立ち上がる。震える足は頼りなく、今にも倒れてしまいそう。

 それでも自らの意志で、立ち、歩く。

 その日、|雲上司《うんじょう つかさ〉は、自らの生きる道を決めた。



 木製の人形に両手を打ち付ける。乾いた音が鳴り、腕に痛みが走る。

 左に半歩動き、人形の手を弾きながら下段の蹴り。腕を回し、頭を両掌でうつ。正面に戻り、今度は右に半歩動いて同じことをする。


 単調な動作。動きのパターンは数種類しかない。その簡単な動きを体に染み込ませる。

 考えなくても体が自然と動くようになるまで。

 より強い威力、より隙のない動きを突き詰める。


 一時間も続けると、全身汗みずくになる。司は時計を確認すると、稽古をやめた。

 冷水を浴び、服を着て、バイト先のコンビニに向かう。

 これが司の日常だった。生活のために日銭を稼ぎ、それ以外の時間はひたすら練習。

 どうしても勝ちたい男がいる。

 そのためにすべての時間を捧げる。そこになんの迷いもなかった。それが司にとっての当たり前だ。


 司は以前、横暴な客に掴みかかって首になったことがある。それを反省し、今は大人しく働いている。

 勤務を終えて外に出ると、冷たい風が吹いた。もう夏も終わり、夜になると肌寒い。


 上着の襟をかき合わせる。なんとなしに周りを見渡した。平日の夜は人通りが少ない。視界に入る中ではひとり、女性が歩いているだけ。

 歩き慣れた夜道。それでも司が立ち止まったのはその女性があまりに奇抜な格好をしていたからだ。


 漆黒のドレスだった。


 胸元は身体にぴったりと張り付き、腰から下はスカートが膨らんでいる。しなやかな足はストッキングに覆われ、靴だけは動きやすそうなものだが、それも黒く上品なデザインで美観を損ねない。

「こんばんは」

 司の視線に気づいたのか、女性は微笑みながら会釈した。よく見れば顔の造形も日本人らしくない。ハーフだろうか。

「……す」

 司は視線を合わせずうなずく。接客業者にあるまじき挨拶だが、今は時給が発生していないのでこれでいい。愛想だって第三産業だ、有料コンテンツだと、司は心の中で自己弁護する。


 再び歩き始めると、女が隣に並んで話しかけてきた。

「いい天気ですね」

「……はぁ」

 急に話しかけられて不審に思うのと、普段あまり人と話さないことと、やたらめったら美人なお姉さんが近くに来たことでまたも司は生返事。

 やだなぁ、壺とか売りつけられんのかなぁ、などと益体のないことを考えていると、月明かりを反射した何かが目の前を走った。


 考えて動いたのではない。ただの反射だ。

 右手で首を守りながら左手で右脇をかばい、後ろに飛び退く。

 首を守った腕に鋭い痛み。見れば深く切られ、血が流れている。


 女を見れば、右手に細身のダガーを持ちながら呆気に取られた表情をしていた。

「あら、意外。能力なしでも戦える人だったのね」

 その言葉の意味するところを考える間もなく、次の攻撃がやってくる。


 女はダガーを投げる。それを避けると、女がもう一本のダガーで切り付けてくる。司は女の腕を根本から押さえ、掌底で女の胸部をつく。

 決まったと思ったが、柔らかいものに衝撃を吸収された。女は数本下がって胸元に触れる。

「えっち」

「え、えっ、いや!ちがっ!」

 司が顔を赤くするのを見て女はくすくすと笑う。

「おかしな子」

 などと言いながらもしっかり攻撃はしてくる。切り、投げ、ときおり蹴りも混じる。相当な手練れだ。力なら司が負けるはずはないのだが、技術と武器がその差を埋めている。否、覆している。


 司は徐々に傷が増えていく。これが明るい場所であれば、相手の筋肉の緊張、視線、重心などで動きを読めるのだが、夜闇に溶け込むドレスは動きが捉えにくい。

 司は近くにあったゴミ箱を蹴り付け、女のほうに飛ばすと脱兎の如く走り出した。

「あら、逃げるのかしら」

 女の言葉にプライドを傷つけられるが、悔しさを噛み殺して逃げる。それでも女は諦める気がないらしく、追いかけてきた。


 せめて武器がないと戦えない。

 棒切れでもなんでもいい、使えるものがないか辺りを見ながら走るも、そう都合のいいものはない。

 気づけば港まで来ていた。真っ暗な東京湾が千尋に広がっている。

 逃げ場がない。


 肩をダガーがかすめた。振り返ると、女がさらにダガーを投げてくる。

 舌打ちしながらダガーを避けた。さらにもう一本飛んできたのを避けると、完全に姿勢が崩れる。そこに飛んできた3本目が足に刺さった。戦いの中放出されたアドレナリンのおかげで痛みは感じないが、出血のせいで頭がくらくらする。足元を見やると、血溜まりができていた。


 自身の血に気を取られた一瞬、女は距離をつめた。

 司の足を払い、地面に倒す。留めをさすためダガーを振り上げた。

 迫り来る死から逃れるため、司の脳は限界を超えて活動した。

 世界の全てがスローモーションになる。

 女の振り下ろす剣も、海の波も、ひとつひとつが目で追えるほどの、極限の集中力。

 走馬灯。


 しかし、どれだけ意識は加速しても、体がついてくるわけではない。視線すら動かせない中、手が硬質な金属に触れているのに気づいた。

 ねっとりとした空気の中、なんとかそれを掴む。

 何を掴んでいるのかも確かめず、女の喉元にそれを突き出した。

 女は咄嗟に退く。


 槍だった。

 赤黒い金属でできた3メートルほどの槍。

 女はすうっと目を細める。ダガーを2本持って構えた。

 中国拳法において、槍は兵器の王と呼ばれる。徒手の技術も、多くは槍術の動きをベースとしてできたものだ。

 まして、ここは長物を扱うに十分な広さの地形。相手よりリーチも長い。

 司は槍を中段に構える。足を開いて重心を落とし、穂先は敵の顔の高さに合わせる。


 女が消えた。

 素早く動いたわけではない。文字通りその場から消えた。人間にはありえない動き。

 司は勢いよく身をかがめ、地面に手をつく。真上を刃物が切り裂く音。気配のあるほうへ蹴り上げた。


 女は蹴りを受けるも、衝撃をとめきれずによろめいた。司は槍を振りかぶって脳天に振り下ろす。

 確実にあたる軌道。しかしまたしても女は消えた。

 司は大きく飛び退く。とにかくもといた位置から遠くへ。


 女は司がいた場所に立っていた。くるくるとダガーを弄んでいる。

 司が仕掛ける機をうかがっていると、女はほうと息をはき、武器をしまった。

「また遊びましょうね」

 女は言い残し、姿を消した。

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