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01,さくらの〜  作者: 橙ノ縁
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五楽章 126

 長い長いチューニングを終え、白葉黎は学生たちの前に立つ。

 そして成香が部室の奥から見つけ出した、かなり古い指揮棒を手にする。

 指揮棒が納められているケースは埃をかぶり、黴を生やし、さび付いているが、どこか白葉にとって親しみやすく感じた。

「では、その練習を頑張ったというさくらのうたを聴かせてもらおうかな」

 八分の六拍子、テンポは60。前回と同じ速さで白葉は指揮棒を振ってみて確認する。

「今回は、桜のイメージをみんなで揃えてみました。入学式に咲いている学校の桜です」

 部長が言う桜とは、梧桐高校の校門前に咲く桜で、毎年入学式には満開になるらしい。

「そうか、私はその桜の姿を知らないが、まあ、いいだろう」

 白葉がこの学校に来た時には、その桜は大方散っていて、満開の姿を見ていないが、想像力を働かせてなんとかやってみようと思った。

 学生たちは譜面台の楽譜を捲り、楽器に手をかけて、最初の合図をじっと待つ。

 生成り色の指揮棒が振り上げられると、出だしのメロディーを奏でる楽器が口元に構えられる。

 そして白葉の右手が拍を刻み始めると、繊細なメロディーが正しいリズムで奏でられていく。

 指揮棒に合わせて進んでいくクラリネットの主旋律と、調和を試みようとするグロッケン、確かに出だしから前回とは違っていた。

 トランペットは周りの音をよく聴けるようになり、トロンボーンは音の形が良くなり、チューバは歯切れのよい音になった。

 ホルンのしっかりした音が聴こえ、ユーフォニアムの味もするようになり、サックスの音色も馴染みやすくなっている。

 オーボエの不安定さが改善され、フルートが走ることもない。クラリネットの神経質さが薄らいで、パーカッションの正確さが感じられるようになった。

 前回この曲を聴いて、白葉が思い出していた大昔の記憶は、不満ばかりを口にして、桜を煩わしく思っていたあの頃の記憶。

 しかし、今日見えてきたのは、桜が綺麗だと思えるようになったあの頃の記憶だ。

 薄紅色の桜並木の下を歩いて、花びらを捕まえて遊び、風が吹く度に、花びらが散らないでくれと願っていた。いつまでもピンク色の光景を眺めていたかったから。

 演奏が終わり、学生たちが心配そうな瞳で白葉を見つめた。

「あの、どうでしたか?」

「不味くはない、かな」

 その言葉に学生が少しほっとしたのか、笑みをこぼして友人と顔を合わせる。

 まだまだ下手な所は多いが、二週間練習してこれだけ変われることはすごいことだ。若いというのは、本当にあっという間に成長していく。白葉には羨ましすぎるばかりだ。

「もっと全体的に強弱が付けばいいと思うし、和音の音程も良くないし、ロングトーンがーー」

「あの、私たちの指揮者になってくれるってことでいいんですか?」

 部長が立ち上がり心配そうな表情で白葉を見つめた。

「私もコンクールへ行ってみたくなったから」

 指揮棒を片手に生徒たちに向かって「よろしくお願いします」と一礼すると、学生たちも機敏に立ち上がり、頭を下げた。

「よろしくお願いします!」

 白葉はこの日、久しぶりに人生の目標というものを立てるのだった。

 吹奏楽コンクールで彼女らと金賞を受賞する、という目標を。

「さっそく、頭からもう一度」




 指揮を振る男の姿を見ながら、ホルン吹きの女子高生は嬉しい気持ちを持ちながら、その反面不安が過っていた。

「私はあの人を連れてきてよかったのだろうか」

 謎の多いピアニストを第一印象だけで決めて、無理やり連れてきてしまった。

 これで良かったのだろうか、という不安を抱えたまま練習は続き、お昼休憩のため中断になった時。

「そうだ、黎ちゃん。質問があります」

 海利が楽しそうに手を挙げて質問する。ちゃん付け呼びに部員が少し戸惑っているが、白葉は特に気にする様子はない。

「なんだ?」

「この前のあの美人は黎ちゃんの彼女さんですか?」

「それは違う。ひなみのことは子どもの頃から知っているだけだ」

 全員の頭の中に「なあんだ、幼馴染かあ」という言葉が浮かぶ。

「じゃあ、今年何歳なんですか?」

「今年で……」

 白葉が何かを考えながら、両手を使って数を数え始める。自分の年齢の質問で、子どものように指折り数える姿がどこか不思議で、全員から不穏な空気が沸いていた。

「今年で百二十六だな」

「へ?」

 耳に手をかざして、瞬きが異常に増える、部員達。

「だから、百二十六歳だ」

「はあ?」

 この「はあ?」は半分呆れと半分怒りから出来ている。どうして嘘なんて吐くんだという気分で一杯になり、「阿呆らしい」と言って、会議室を出て行く部員達。

 会議室に残ったのはホルンを持った部長だけだった。

「昨日の桜の話って……」

「あれは、大昔の話だ。さあ、昼ご飯にしよう」

「大昔って……」

 嫌な予感の正体はこれだったんだなと納得し、そして自分が選んだ人物がとても訳ありだったことに、部長はホルンを抱えながら深く後悔するのだった。

 しかし、後悔と同時に音楽が続けられる、成長できる、そんな前向きな気持ちが産まれたのも確かだ。




「早勢君、君の居場所はこれで大丈夫か?」

 指揮棒をケースに片付けながら白葉は、ホルンの彼女に確認をとってみる。

「はい。私の居場所はホルンと一緒に、ここにまだ居られそうです」

 キラキラのホルンと、キラキラ笑む早勢成香が、白葉には眩しく見えた。

 

 梧桐高校吹奏楽部の部長は、ようやくここから新しく始まる、そんな高揚感が胸の奥から溢れているを感じていた。

 きっと今日から、吹奏楽は楽しくなる。そんな確信がホルンのベルの中から聴こえたから。





コーダ


 一年が過ぎた。男は二度目の春を日本で迎える。

 男の前を歩くのは、彼に日本の音楽「箏曲」を教えた少女だ。日本のハープと呼ばれるその楽器は、響きや音色で文化や伝統を伝えて、奏者を神々の使いのように見せる。

 目の前の少女も「琴」を演奏すると、紙芝居に出てくる天女のように見えるから、とても不思議だ。

「今年も、綺麗に咲いたなぁ」

 男が片言の日本語で、どうして日本人は桜が好きなのかと尋ねた。

「なんでって言われても困るわ。物心ついた時から、綺麗やと思って生きてきたから、理由は知らん」

 外国生まれの男には、薔薇などのはっきりとした色の花の方が美しいと感じるし、香りがある花の方が好ましいと思っている。

「桜が綺麗やない時なんかあるんやろか。うーん、そんな時は無いわ。無い、無い。私の心は毎年綺麗やと感じる。音楽と一緒やと思うけど」

 男が首を傾げて、桜の木の下で立ち尽くしていると、少女は歌を歌い始めた。それは以前、男がピアノで奏でた曲だった。

「ほら、ショパンの音楽は私の鼻歌でも綺麗やん。私はお兄さんの上手なピアノでクラシック音楽を知ったから、全部のピアノ曲が美しく聴こえるんよ」

 少女は音楽と桜は似ているという。音楽を聴いた時と、桜を見た時、心のどこかで綺麗だとか美しいと感じる部分が反応するのだとか。

 心に「綺麗」や「美しさ」を、またはそれ以上の感情を授けるものたち。人はそれらをどうしても好きになってしまう。

「だから居心地がええんよな。音楽の中も桜の中も、ずっと居たいなぁ」

 そう言って、少女は舞い落ちる桜の花びらをぱっと両手で捕まえて見せる。

「競争しよう。一番多く捕まえた方が勝ちやからね」

 二人は人目もはばからず、子どものように薄紅色の花びらを追いかけた。楽しそうな少女の笑い声を耳にしていると、なんだか胸の奥が温かくなって、目頭に熱が集まっていく。

「いややわ。桜追いかけて泣いてるやつなんて、始めて見た」

 音を紡いできた小さな手が、男の涙を指さして、腹を抱えてケラケラ笑っている。

 男がローザ色と思っていた色が、今、桜色に見え、その淡く優しい色の中で白い歯を見せて笑う少女をずっと見ていたいと思った。

 辛いことなど全部忘れて、ただ美しい世界で笑っていたいと、強く、強く願うのだった。

 風よ吹くな。

 穏やかに、優しく。そのままで。




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