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01,さくらの〜  作者: 橙ノ縁
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三楽章 親友

 部活が始まる前、麦子から借りたマンガ本を読みながら、成香はあのピアニストを思い出す。

 一昨日、吹奏楽部の演奏を聴いたピアニストの男は、演奏を聴き終えると、とてもがっかりしたような表情を浮かべていた。しかも演奏途中では白目をむきかけている場面もあった。

 ピアニストはその後総譜を机に置いて、連れの美人と一緒にさっさと帰ってしまった。

 ため息を吐きながら、マンガの頁を捲っていくが、まったく頭に本の内容が入ってこない。

「成香ちゃん、みんな集まったよ」

 トランペットの瑞岩海利がそう言いながら、成香からマンガ本をすぽんと簡単に取り上げる。よく見たら、マンガ本を逆さまになっていて、どうりで頭に入ってこないはずだと納得する成香だった。

「では、出席を取ります」

 出席票を片手に、三年生から五十音順に名前を読み上げていく。

「全員出席。今日の連絡事項は……」

 部室に集まった部員は、どこかつまらなさそうで、入部届を出したから仕方なしに毎日ここに集まっている、やる気はないけど来ている、そんな風に見えた。

 二年の男子生徒が「連絡事項がないなら、練習行ってもいいですか」と楽器を抱えながら、出入り口に手をかけていた。

「皆に相談したいことがあるんだけど、いいかな?」

 部員たちは抱えていた楽器を床や机に置いて、成香の言葉を待った。

「昨日、他校の吹奏楽部の先生たちに電話したり、伺ったりして講師のお願いをしたんだけど、梧桐中学校の先生だけが月に一、二回くらいなら来れそうだと言ってくれました」

 星尾先生も卒業生や民間のブラスバンドや、ママさんコーラスなどいろんな音楽に関わっている人に声を掛けたが、誰も講師は難しいと断られた。

 成香も昨日、この辺りで一番の強豪校と呼ばれる学校の講師に会いに行ったが、即答で断られた。

 唯一話を聞いてくれたのが、同じ市内の中学校で吹奏楽部の顧問をしている先生だけだった。

「私は月に一、二度ぐらいではコンクールで金賞はもらえないと思っています。この中には金賞だけが音楽じゃないと思っている人もいるだろうし、楽しく楽器を吹ければいいと思っている人もいるとは思います。でも、私は部活に入った以上、吹奏楽に熱中したい。こんなことはあまり言いたくないけど、去年のようにはなりたくないんです」

 まるで翼の折れた飛行機に乗っているような気持ちだった。

 講師がいた年は、輝かしい金賞が手に入って、何の心配もなく全国に飛んでいけると確信していた。

 しかし、指導者であり指揮者の先生を失って、この部は飛び方も見失い、目的地も分からなくなり、不安と失望という風が吹き続る、そんなお先真っ暗の部になってしまった。

 コンクールで梧桐高校吹奏楽部という飛行機は墜落したのだ。

「先輩たちはコンクールで銅賞って発表された時、泣きもしなかった。誰もが、やっぱりそうだよね、って諦めていた。その後、次々に部員は減っていって、文化祭では早く終われってヤジを飛ばされるし、ソロコンの練習期間中も空気は最悪で結果も上手くいかなくて、卒業式の行進曲では保護者に笑われるし、入学式では新入生に睨まれるし」

 生徒会から、新入生歓迎会では少人数で簡単な楽器紹介ぐらいで構わないとまで言われている。

「だからもう一度、あの人にお願いしてみようと思う。あのピアニストが言っていた通りにもう一度練習して、もう一度聴きに来てもらいたい」

「でも、あの人の言っていたこと意味不明だったよ」

 海利の言う通り、ピアニストは演奏後、キリストのように例え話をして帰った。

 副部長の島松七海が五線譜が書かれた黒板に文字を書き始める。

「確か、正しい分量、正しい温度で作られていないだったっけ?」

 黒板に書かれた「正しい分量」「正しい温度」という言葉を見て、ある部員が手を上げた。

「もしかして料理の話でしょうか」

 二年の沼田麗良がそう言うと、続いて二年の頴川郁哉が「スコアがレシピってこと?」と眉間に皺を寄せながら首を傾げる。

 成香は最近読んだマンガの内容が頭をかすめて、大きく手をぴんと上げた。

「ヨーロッパでは指揮者をシェフって言ったりするって、マンガに描いてたのを思い出しました。多分、その推理で間違いないと思う」

「推理って、刑事ドラマかよ」とツッコミが入ると、部員たちが少し笑みを零し、少し場の雰囲気が和み始めていく。

「なら、正しい温度っていうのは、強弱とかアクセントの事かも」

 七海が黒板に推理を書き込んでいく。

「じゃあ、正しい分量は、リズムとか拍の長さとか、テンポってことか」

 三年の荒島壮二郎の推理に、全員が大きく頷くのだった。

 そして自分たちがいかに、楽譜に書かれている通りに演奏出来ていなかったことに気づかされた気がした。

「皆、もう一度さくらのうたの練習をやってみてくれないかな。私、あの人を探してくるから」

 成香が呼び掛けると、数人が「いいよ」と答えてくれたが、中には何も言わないまま練習教室に向かう人もいた。

「貝森くん、それでもいい?」

 トロンボーンを持って部室を出て行こうとする貝森征利に大声で成香は呼び掛ける。

「なんで俺にきくの?」

「三年生には確認を取りたいから」

 部に残った三年生は六人。この六人にとって部活ができるのは、今年の夏が最後で、あらゆる選択にも関わってほしいと部長として考えていた。

「俺は、みんながそれでいいならそれでいい」

 そう、まるで青春ドラマの一シーンのようなエモーショナルなセリフを吐いて、彼は部室を出て行く。同級生の壮二郎が半笑いで追いかけ、叫んだ。

「格好つけても似合わないぞ」

 扉の向こうで、男子生徒の無邪気な笑い声が聞こえた。




 それから部員たちはもう一度、「さくらのうた」の練習を一から始めた。

 さくらのうたは、福田洋介作曲、第22回朝日作曲賞受賞作品、2012年吹奏楽コンクールの課題曲になった曲で、日本の桜の情景が目前に広がるような、そんな美しい楽曲だ。

 課題曲になって以降も、その酔いしれるような美しい旋律が人気になり、度々コンクールの自由曲に選ばれるようになる。

 しかし梧桐高校の音楽では、桜並木を聴衆に想像させることはできなかった。

 あのピアニストが言うとおり、正しい分量、正しい温度であることを守れば、目の前に美しい桜が見えるのだろうか。

 部員たちはメトロノームを使い、きっちり音符の長さやリズムを修正し、出来る限り音程を保ちつつ、強弱を意識するように心がけた。

 成香は卒業アルバムからひなみの連絡先を知り、彼女に連絡をした。

 ひなみはピアニストがもう一度学校に行くように説得してみてくれると言ってくれたが、返事は一週間経っても返ってこなかった。

 返事が無いので、成香は部活後、梧桐駅の駅ピアノの前で彼が現れるのではないかと思い、毎日待ち続けた。

 それから三日間、夜の九時まで駅で待つ生活を続けていると、とうとう携帯電話に母親から電話が入るようになる。

 母は、帰りが遅いので早く帰って来なさいと怒っているが、本音は違う事を成香は分かっている。

「だから、部活で忙しいの。私、部長だからいろいろあるんだって」

 母は成績の残せないような部活に入部し続けていることを不満に思っているのだ。

 大学受験に得などない、勉強する時間が減るし、地方大会で銅賞ぐらいしかならないなら退部しろと思っている。

「どうせ、退部させて塾に入れたいんでしょう?お母さんの考えそうなことだから分かる」

 顧問が他校へ移動になったとき、母は話が違うと言って学校にクレームを入れた。

 全国大会常連校だから娘を吹奏楽部に入部させたのに、全国大会に行けないなら、部活に入れたりしなかった。こんなことなら塾に行かせれば良かった。貴重な勉強時間が奪われたから何とかしろ。と理不尽な理屈で教師たちを困らせたのだった。

 その日以来、母とは仲が悪くなり、顔を合わせるとすぐに喧嘩口調になってしまう。

 成香は通話を無理矢理切断し、携帯電話の電源をオフにして、鞄の中に突っ込んだ。

 ああ、今日もあの人は現れない。電車はあと三十分ほど待たなければ来ないので、それまで待つことに決めた。

 家に帰りたくないなと俯きながら、ピアノの鍵盤の蓋をゆっくり開ける。

 白と黒の縞模様になった鍵盤をただじっと見つめていると、突然男の人に声を掛けられた。

「ピアノは弾かないのか?」

「あ……」

「君はホルンの方がいいのか」

 そこに立っていたのは、あの日このピアノで素晴らしい演奏をした、不愛想なピアニストだ。

 目が合うと、ピアニストがすぐに目を逸らして、パタパタと何事もなかったかのように帰ろうとする。

 その姿を成香は何も言わずにじっと見つめていた。

「今日は、追いかけてこないのか?」

 男の足が止まると、首だけ成香の方を向けて、不思議そうに伺っている。

「私の事、覚えてるんですか?」

「突然脅してくる女子高生を忘れるわけないだろう。しかも二週間前だぞ、いくら歳をとっていてもそれぐらまだ大丈夫だ」

 歳と彼は言うが、成香の目には彼はまだ三十代位に見える。

 ピアニストは大きなボストンバッグを抱えていて、いかにも仕事帰りといった雰囲気だった。

 ここ数日間、夜遅くまで仕事をしている人たちを見てきて、成香は改めて大人に学校の部活に来て欲しいという願うことが難しいかを知った。

 朝から晩まで仕事をしている人に夕方の練習に顔を出して欲しいとか、体を休めたい休日に一日中指揮をして欲しいと頼むことがいかに、自分たちの身勝手な事なのだと思ったから。

「こんな時間まで部活だったのか?」

「部活は、七時には終わっています。ええっと、その、ただ、家に帰りたくなくて」

 ピアニストは優し気な声で「そうか」と言うと、荷物を床に置いて成香に椅子を代わってほしいと頼んだ。

 そして鍵盤に手を乗せてポロポロと指の準備体操のような、規則的な曲を弾き始める。

「ピアニストさんはどうしてピアノを始めたんですか?」

「家にピアノがあったから、それだけだ。君はどうしてホルンを?」

「私は、楽器体験の時、唯一ホルンだけ音が鳴ったから」

 入部後最初に行われるのが、それぞれの楽器を吹いて回り、適性を見るという楽器体験が行われる。

 成香は木管楽器が何も鳴らなくて、トランペットもトロンボーンも音が鳴らなかった。あまりに才能が無さ過ぎて、トランペットの先輩が成香に吹き方を教えることを途中で止めて、勝手に練習を始めたくらいだ。

「楽器は人を選ぶからな。君はホルンに選ばれたんだ」

「楽器それぞれに向き不向きがあるってことですか?」

 てっきり、人間が好き勝手に楽器を選ぶものなんだと思っていた。トランペットが格好いいからとか、サックスでジャズを吹きたいからとか、そんな軽い感覚で。

「まあ、そうだな。管楽器のことは詳しくないが、ピアノは手の大きな人が向いているとよく言われる」

 ピアニストのはドから一つ高いドの音を一緒に鳴らして見せる。そして小指を伸ばして隣のレ、その隣のミまで和音で鳴らして見せる。

「楽譜によってはドから一オクターブ上のミやファまで一緒に鳴らせと書かれているものもある。楽器には向き不向きが存在することは確かだ。でも、向いていないからやってはいけないという訳ではない。手が小さくても素晴らしいピアニストは大勢いる」

「つまり、どういうことですか?」

「楽器は不思議と気の合う親友のような奏者を選んでいるように思う。私が出会ってきた音楽家たちは、何故か楽器ごとに雰囲気が似ていることが多いんだ。きっと楽器が気が合う人間を呼ぶんだなって」

 確かに、成香も楽器毎に演奏者の雰囲気が似ているなと感じたことがあった。

 皆それぞれ性格も考え方も何もかも違っているのだが、共通していることは、演奏する楽器に良く似合っているということだ。

 たまに部員同士が楽器を交換して遊んでいる姿を目撃するが、その際、とても違和感を覚えたことを思い出した。

「ホルンはいいよな。どこへ行くにも連れて行けるし、ずっと同じ楽器が親友でいてくれるから、他に友達なんて要らなくなるだろう?ピアノはそうはいかない。出かけるたびに初めましてで困る、私は人見知りなんだ」

 ピアニストが少しはにかんで成香の方を見ると、成香は何故か胸の奥が何かしらの感情で一杯になってしまって、今にも目から涙が溢れそうになった。

 この目の前の男はホルンの音色を聴いただけで、成香の日常を感じ取ったのか?そんな変な発想をしてしまうくらい、あまりにも真っすぐ胸に刺さる言葉だった。

「リクエストがあればなんでも弾くけど?」

 成香は涙をぐっと喉の奥に抑え込んで、ピアニストにあの曲をリクエストした。



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