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01,さくらの〜  作者: 橙ノ縁
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二楽章 うまくない


 県立梧桐高校は梧桐駅の近くにあり、駅のホームから高校がはっきりみえる。小高い丘の上に立つ高校に行くには、駅を出て迂回するように踏切を渡り、緩い坂を上っていく。

 坂を上ると、校門と共に立派な梧桐の木が見えてくる。学校名にもなっているこの梧桐の木は、学校設立よりも前からここに植えられているそうだ。

 運動部の掛け声と共に管楽器の煌びやかな音色が、すかした車の窓の隙間から滑り込んでくる。

 校門を入ってすぐの駐車場に車を止め、三人は来賓客などが通る入り口から校舎に入った。

「二人ともちょっと待っててください。私、一旦、上靴に履き替えてから顧問の先生を呼んできますので」

 成香は急いで下駄箱の方に周り、上靴に履き替えると、上靴の踵を踏んだまま職員室に駆け込み、女性教師を引っ張って来た。

 二十代後半くらいの眼鏡をかけた若い女性教師は、成香の慌てた様子に戸惑っているようだった。

「星尾先生、こちらが、ええっとお名前なんでしたっけ?」

 星尾と呼ばれた教師は「名前も知らないのに連れてきてしまったの?」と眉尻を下げながら弱気な声を出した。

「とにかく、私、合奏の準備があるので、あとは先生、よろしくお願いします」

「ちょっと、早勢さん」

 成香は呼び止める星尾先生を振り切って、再び職員室に向かうと、三階の会議室の鍵を借り、廊下に飛び出した。

 そして出入り口付近で来客用のスリッパを用意している星尾先生に大声で呼び掛けた。

「そうだ先生、合奏は三階の会議室で行います。時間稼ぎお願いしますね」

 顧問の教師は「廊下は走っちゃだめよ」と教師らしいことを叫んでいる。

 鍵を握りしめ、正面を向いて速足をはじめた時、去年同じクラスだった女子生徒二人とすれ違った。

「早勢さんがあんなに大きな声で喋ってるの初めて聞いた」

「いつも暗いのに珍しい」

 心無い同級生の言葉に、急いでいた足がふと重くなって、停止。

「……」

 そう、今日の彼女はいつもと違う。知らない人に無理やり声を掛けたり、やった事もない脅しをしてみたり、人見知りなのに知らない人の車に乗ったり。

 それは自分自身でよく分かっていることだったが、人に言われると、ズキンと胸痛が。

 痛んだ胸を拳で叩いて紛らわせると、吹奏楽部の部長は再び重い足を動かして四階にある音楽準備室へと急いだ。

 四階の一番隅にある音楽準備室は吹奏楽部が部室として使っており、楽器の保管とパーカッションの練習場所になっている。

「麦子、弥紅みくちゃん、すぐに合奏始めるから、準備してほしいの。場所はいつも通り、会議室だから」

 パーカッションの練習をしていたのは女子生徒二人で、突然の知らせに二人はきょとんと眼を丸くさせて練習中の手を止めた。

「え?成香、急にどういう事?」

 風のように現れて風のように去っていく部長に、同じ年の和中麦子が忙しそうな背中に呼び掛けた。

「事情は後で」

 そう言い残して、一階下の会議室の鍵を開け、その勢いのまま、二年A組の教室に走り込む。

 二年A組ではオーボエとフルートが練習していて、フルート担当の男子生徒は吹奏楽部の副部長だ。

「島松君、これから合奏するから。会議室に集合ね。って、有理ありちゃんは?」

「深作さんならクラリネットと練習をしてるけど。それよりそんなに急いでどうした?」

 島松は丁寧に銀色のフルートを机に置き、メトロノームを止める。

「説明は後。とにかく皆に知らせて会議室の準備を急いでしないと」

 成香がせわしなく教室を出て、クラリネットが練習している教室へと向かおうとした時、副部長が後ろから呼び掛けた。

「部長、皆には俺から知らせるから、部長は音出しをした方がいい」

「あ!」

 その言葉に成香はようやく足を止めて思い出した。自分が楽器を準備していないことに。

「忘れてた。ごめん、後は任せた」

「うん。任された」

 副部長を信じ、成香は再び音楽準備室に戻って、自分の愛用している楽器を引っ張り出してくる。ピカピカのホルンだ。

「どうしよう。息が上がっていてマウスピースが上手く鳴らない」

 走りすぎて、足ががくがく震えてくるし、汗だくで喉もカラカラだった。とりあえず、水分補給だと思い、自分の鞄の中に入っているはずの水筒を思い浮かべた。

「そう言えば、私、鞄どこに置いたっけ?」

 いつの間にか、所持品が会議室の鍵だけになっていた。






 一方、時間稼ぎを任された星尾先生は、とりあえず二人の客人を応接室に呼び、お茶を出すことにした。

「先生、お構いなく。私たちは部長さんに演奏を聴きに来て欲しいと招待されただけですから」

 このいかにも都会風な美人は、永須ひなみ。もともとこの梧桐高校の卒業生らしく、実家も市内だそうだ。

「いいえ。うちの生徒が突然すみません」

 緑茶とお茶菓子をテーブルに置きながら、どうして早勢成香がこの二人を連れてきたのだろうと改めて思う。

「私は、指揮などするつもりはありません」

 金髪の男性は白葉黎しらはれいと名乗り、さっきの女子高生に脅されてここに来たと答えた。

 星尾先生の記憶では、成香は人を脅したりできるようなタイプではなく、もっと大人しくて自己主張の少ない生徒という印象だ。

「そのことで来てくださったんですね」

 指揮という単語を聞いてようやく、この状況が理解できたような気がした先生は、今の梧桐高校吹奏楽部の実情を二人に説明することにした。

 梧桐高校吹奏楽部は吹奏楽コンクールで毎年金賞を受賞することで有名な学校だった。去年までは。

「去年のコンクールでは銅賞で、生徒たちも大変、落ち込んでいました」

「銅賞って良いのでは?」

 白葉はそう言いながら、湯飲みのお茶をちびちびと少しずつ口に含んでいる。その姿はまるで猫のようだ。

「吹奏楽コンクールは金銀銅いずれかの賞で評価するスタイルで、銅賞は良くないんです」

「つまり、参加賞ってことですよね。黎君、去年全国大会聴きに行ったのに、忘れたの?」

 どうやら二人は吹奏楽のコンクールというものは知っているようなので、話が通じやすそうだと、先生は少しほっとした。

「それで、銅賞の原因は何かあるんですか?部員が次々に辞めたとか」

「永須さんの言う通り、部員が減ったこともあるんですが、一番の理由は指導者が居なくなってしまったからです」

 長年、梧桐高校で顧問をしていた教師は、学生の吹奏楽界では少し名の知れた有名講師だった。

 彼の指導は厳しいで有名で、公立高校にもかかわらず、その手腕で何度か全国大会も出場している。

「その顧問が他校に移動になり、代わりに入って来たのが私です。私は音楽なんて流行りの歌を聴くくらいで、楽譜も読めません。去年も指揮は音楽教師の為山先生にお願いしました」

「なら、その音楽教師に指導をお願いすればいいのでは?」

 白葉の発言に先生は、「そうですよね」と眉尻を下げた。

「為山先生は合唱部の顧問でして、掛け持ちは難しいと断られました。為山先生は合唱部に力を入れていらっしゃっていて」

 ひなみが「部活の顧問って忙しいって聞いたことがあるわ。掛け持ち何て無謀よ」と補足すると、白葉「ふーん」と味気ない返事をする。

「なら、学生の誰かが指揮をすればいいのでは?」

「去年はそのようにしていたのですが、いろいろ揉めてしまって、最終的に為山先生に本番の指揮をお願いした次第なのです」

 星尾先生の目の奥では、去年のいざこざがありありと思い出されているのだろうと、ひなみと白葉は感じていた。

「去年の三年生もずっと外部講師を探していたのですが見つからず、今年も新任の教師の中に音楽ができる人はいませんでした。早勢さんは今日、近隣校の吹奏楽講師に週に一度だけでもいいからと講師の依頼に行くと言っていました。こんなにも早く見つけてくるとは思ってもみませんでした」

 応接室にも聴こえてくる楽器の音色。その中でひときわ弱々しい管楽器の音が微かに白葉の耳に入った。

「さっきの彼女は、ホルンですか?」

「はい、そうですが。なぜです?」

「いいえ。ただそんな気がしたもので。さあ、そろそろ行きましょうか」

 白葉は熱いと何度も小声で言いながら、お茶を飲み干し、鞄を手に取って立ち上がった。

「その鞄、もしかして早勢さんのですか?」

「ええ、まあ。忘れていったみたいで」

 星尾先生が「私が返しておきます」と言って、手を伸ばしたが、男は「女性に荷物を持たせる訳にはいきません」とさりげなく言い、自然と男らしさを振りまくのだった。




 三階会議室と同じ階にはもう一つ音楽系の部室がある。その部室の前を通りかかった時、白葉は思わず足を止め、その懐かしい音色に大昔の情景が思い出された。

「星尾先生、ここは確か箏曲部の部室でしたよね」

 ひなみがそう言いながら、足を止めている男の上着の裾を強めに引っ張る。

「そうです。この学校はもともと女子校で、箏曲部はその時から存続する、一番歴史の長い部です」

 部室は和室になっていて、入り口には学生の上履きが綺麗に並べられており、そして風に乗って畳のイグサの匂いが仄かに香ってくる。

「黎君、行くよ」

「ああ」

 琴の音を置いていくように、進んでいくと、全ての窓にカーテンが閉められた教室の前にやって来た。そしてその中から、電子音がずっとボーと鳴り続けている。

「ハーモニーディレクターの音だな」

 白葉はそう言って入り口の扉を開けると、電子音がより大きく聞こえ、その音と一緒にフルートの音色が重なっていた。

「島松君、音止めて!」

 教室の真ん中で、部長の成香が叫ぶと、フルートを吹いていた男子生徒が楽器を下し、電子音を止めた。

「全員起立。さっき話をしたピアニストさんです。よろしくお願いします」

 成香がそう言うと、教室に集まった学生全員が背筋を伸ばして立ち上がり、「よろしくお願いします」と声を出しながら、頭を下げた。

 「続けて」という白葉の言葉に、学生たちは椅子に座り直し、楽器を手にする。

 教室の机は一ヵ所に集められ、椅子を半円状に並べている。半円の中心に机を置いて、そこにハーモニーディレクターと呼ばれる電子ピアノのような楽器を設置し、そのそばにメトロノームが一台。

 座席は前列に木管楽器、中列にホルンとユーフォニアム、後列にトランペットとトロンボーン、右端にチューバ、左端にパーカッションと並べられているが、所々歯抜けになっており、どう見ても楽器構成のバランスが悪いことがすぐわかった。

 半円の中心にいる男子生徒は再びハーモニーディレクターを操作すると、ある一つの音を鳴らし続け、それに合わせてフルートを吹き始める。チューニングが始まったのだ。

「よかったら座ってください。チューニング、長いので」

 スネアドラムの前で立っていた女子生徒二人が、白葉たちに椅子を用意した。

 星尾先生とひなみはすぐにその席に座ったが、白葉は壁に持たれたままで、座ろうとしなかった。

 フルートの彼が自分のチューニングを終えると、オーボエから順番にチューニングをするように指示を出す。

 鳴らされた音が電子音の音程よりも高ければ人差し指で天井を指し、低ければ人差し指で床を指す。

 電子音の無機質な音に楽器の音が加わると、何故かラジオの電波が乱れた時のようにブルブルと音が振動する。

 その振動が消える場所を探すように、奏でる音を高く低くぐらぐらと行ったり来たりさせて調整するのだ。

「先生、チューニングって全員するんですか?」

「はい。そうだと思います」

「時間かかりそうですね」

「ええ、でも大事なことですから。もしかして、お急ぎでしたか?」

「いいえ。暇ですので大丈夫ですよ」

 音楽に詳しくない星尾先生とひなみすら感じた通り、彼らのチューニングがあまりに長い。

 ようやくオーボエが済んだと思ったら、今度はクラリネットが合わない。もちろん、サックスもトランペットも、ホルンも、トロンボーンも、ユーフォニアムも、チューバも何もかも、合わせるのに時間が掛かりすぎている。

 リードが悪いのか、マウスピースが悪いのか、はたまた息の送り出し方が悪いのか。管楽器の経験が無い白葉にはその不調の理由が分からなかった。

 あまりに長いので、パーカッション担当の二人は眠そうに欠伸を始めるほどだ。

 長いチューニングが終わると、成香が白葉のもとに一冊の紙束を差し出した。それは、総譜。

「去年、コンクールで演奏した楽曲です。今日はこれを演奏します」

 白葉は総譜に目を通しながら、音符から溢れるメロディーを頭の中で再生させていく。

「人数が少ないようだけど」

 どうみても、楽譜の中の必要人数は二十五人以上で、目の前で席を並べているのは十七人。はたしてちゃんと音楽になるのだろうか。

「先輩たちが卒業してしまったので足りていませんが、そこは大目に見てください」

「ああ、分かった。それで指揮は誰がする?」

 成香が救いを求めるように星尾先生を見つめるが、先生は無理だと必死に訴えながら、首を横にぶんぶん振る。

「黎君、試しにやってみれば?」

 ただでさえ人手不足なのに学生に指揮を指せるわけにもいかないと思い、白葉は学生たちの前に立つことにした。

「八分の六拍子。テンポ60ぐらいでだいたい振ってみるから、私が間違ってもそのまま続けてくれ」

 嬉しそうな表情を作った成香は、自分の席に戻りホルンのベルの中に手を突っ込んだ。

 指揮棒の代わりに手を振り上げると、学生たちが一斉に楽器を構える。そして手を動かし始めると同時に演奏が開始されたのだが……。

 まず、出だしから合わない。白葉も素人だから息が合わないというのも確かにあるが、二小節目の木管たちがすでにバラバラ。

 楽器が増える八小節目のロングトーンが不協和音で、あんなに時間をかけてチューニングをしたことが嘘のような仕上がり。

 自由に叩き続ける我儘グロッケン。

 出だしと終わりが合わないフルートとクラリネットの悲鳴のようなトリル。

 サックスの稲妻のような暴走。

 ブレス箇所が不自然なチューバ。

 ソロパートで酔いしれ、集団から置いて行かれるトランペット。

 存在感を消すホルン。

 音が次々に墜落するトロンボーン。

 吹いているかどうかも分からないユーフォニアム。

 シンバル、音符が何個か多い。

 転調をするととたんに重く、遅くなり、だんだん、だんだん、指揮とリズムが乖離していく。

 重い、重苦しい音の集まりは、運指だけが慣れていて走ろうとするので、不協和音の重い塊が転がり落ちていくようで、もう、どうしたいのか分からない。

 そもそも強弱はどこへいったのだろう。

 そう、誰も指揮など見ていないのだ。それだけじゃない、周りの音も聴こえていないようだった。

 全員がそれぞれのタイミングで吹き終わると、白葉は開いた口が塞がらなかった。何度か呼吸も止まりかけ、瞬きも忘れ、無意識に白目も向いていたに違いない。

 渡された楽譜と、彼らが譜面台に乗せているパート譜は別物なのではないかと疑うほどだ。

「どうでしたか?」

 部長が不安そうな顔で感想を求めると、白葉は一言、こう述べた。

「うまくない」

 こんなに酷い音楽は生まれて初めてかもしれない。衝撃的で、悲惨な人生初体験。

 音楽は美しいものではなく、意外にも破壊力と不快さを兼ね備えているものなんだと、初めて知った。

「星尾先生、この曲、なんていうんですか?」

「さくらのうた。です」

「え!桜というか台風の後の濁った川、みたいな?」

 暴風雨の後、増水する濁った水と、折れた木、草、空のペットボトルが流れていく、川。そんな風に例えるひなみの気持ちが、白葉にもよおく分かるのだった。




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