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01,さくらの〜  作者: 橙ノ縁
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一楽章 駅ピアノ

アウフタクト


 薄桃色の小さなが花々が空から降ってくる。灰を混ぜたようなくすんだ青空に、まるで滲んで消えてしまいそうな淡いローザ色。

 舞い散る花びらが視界を悪くさせるので、男は煩わしそうに花びらを右に左にと払いのけて歩く。

 蠅や蚊を追い払うかのように花びらを振り払い、行く道をを汚す花の木を睨みつけた。

 どこまでも続く薄桃色の花をつけた樹々の道に男は目を伏せて、奥歯をぐっと噛みしめるのだった。




一楽章 駅ピアノ



 桜も散り始める、四月の九日。昨日、梧桐市内の各学校は入学式を迎え、それと同時に市内唯一の駅がリニューアルオープンされた。

 新しい梧桐駅はトイレに力を入れて作られて広く綺麗になり、発車案内板も大きくなって見やすく、待合室には冷暖房が完備され、市民待望の駅近コンビニも併設された。

 この駅をよく使う学生たちは雨漏りのない、コンビニで気軽に買い物ができる駅を歓迎し、嬉しそうに改札を通っていった。

 そんな浮かれた雰囲気二日目の中、真昼間の新駅を暗い顔で利用する女子生徒が一人。猫背で俯きかげんに歩をとろとろ進ませ、この世の終わりかのように重苦しいため息を吐く。

「ああ、どうしよう」

 女子生徒の名前は早勢成香はやせせいか。彼女には一年前から続く大きな悩みがあり、今年もどうやらその悩みが解決できそうにないと知って、どん底に落ちた気分なのだ。

 気力が落ちているので、改札近くのベンチに座って休もうと思ったのだが、今日は何故かどのベンチも埋まっている。

 駅が新しく改装され、人々が珍しがって集まってきているせいだろうか。それにしても、ぞくぞくと人が集まって来て、誰も改札を通ろうとせずに構内でとどまっている。

 人々の輪の中心には、駅とは思えない不思議な物体がどんと置かれていた。

「ピアノ?」

 真っ黒でつやつやなグランドピアノが一台。どうしてこんな小さな駅にピアノが置いてあるのだろうかと成香は首を傾げた。

「ただいまより、駅ピアノリサイタルを開催いたします。皆さま、ピアノの前にお集まりください」

 駅構内に流れたアナウンスは、電車の発車を報せるものではなく、リサイタルの開催を報せるものだった。

 アナウンスの後に大きな拍車が鳴り響き、ピアノの側に近づいていく一人の男性の姿。

 男は背が高く、顔立ちが欧米人のように堀が深くて、髪も金色。

 観客が拍手で迎えているのに、男はにこりともせず、とても不愛想で、そっけなくお辞儀をすると、ピアノの椅子に腰を下ろす。

 拍手が鳴りやむと同時に、鍵盤の上に置かれた男の手が華麗に踊り始めるのだった。

 ショパン作曲の「別れの曲」。とても有名な曲で、成香も何度かテレビなどで聴いて知っていた。愛想の無い男が演奏しているとは思えないほど、ピアノの音色はとても繊細で、色鮮やかな美しさを奏でていた。

 二曲目は流行りのポップスを演奏し、三曲目はリストの「ラ・カンパネラ」。鍵盤を右左にと飛び回る高度なテクニックに、観客がただただ息をのんでその難解で美しいメロディーに酔いしれていた。

 成香は鞄に入れていたマンガ本を取り出して、大きく頷く。

「この人だ。それ以外ありえない」

 マンガ本は同じ部活の友達から借りていたもので、とある音大生が世界的に認められるピアニストになるという、キラキラな夢に溢れ、捧腹絶倒の笑い満載の素晴らしい作品だ。傑作中の傑作で、バイブルといっても過言ではない。

 演奏が終わると、ピアニストはアンコールの声を無視して退席しようとする。

 成香はとりあえず走った。呼び止めなければならない、という一心で。

 ピアニストが帰ろうとするのを先回りして、正面からぶつかってみることにしたのだ。

「ピアニストさん。ちょっと待ってください」

 記憶にある中では、人生で一番の勇気を振り絞っている。ここに成香がいつも使う「私、人見知りなの」とか「空気を読まなければ」などという言葉は不要だ。

「急いでいるので」

 ピアニストは見た目とは違い、流暢な日本語でそう言うと、彼女を通り越してロータリーに停まっている迎えの車に乗り込もうとする。

「待ってください。お願いがあるんです」

「話ぐらい聞いてあげたらいいのに」

 そう言って迎えの車から顔を出したのは、二十代の垢抜けた女性で、どう見ても都会の人だと思われた。

「その制服、梧桐高校だよね。私、卒業生なの」

 都会の女は車から降りると、成香のセーラー服を見て懐かしいと口元をほころばせた。

「私、梧桐高校吹奏楽部の部長をしています。早勢成香と申します。ピアニストさんにお願いがあって呼び止めました」

「ブラスバンドが何の用?」

 心底面倒くさそうな表情のピアニストの目の前に、かの有名なマンガ本を掲げて見せる。

「私、これを読んで知っているんです。腕のいいピアニストは指揮者もできるってことを」

 マンガの中では、ピアノもヴァイオリンも得意な天才が指揮者を目指すというシーンも描かれている。

「すべてのピアニストがそうではない」

「お願いです。私たちの指揮者になってください」

「断る」

 ピアニストがあまりに不愛想に返答するので、都会女が「言い方が悪い」と脇腹にパンチを食らわせた。

 不意を突かれたのか男は少しよろけながら、暴力女を鋭い眼光で睨みつける。

「そこをお願いします。外部講師として週に二回、いいえ、一回でも構いません」

 成香はマンガ本を胸に強く抱きしめながら、深々と頭を下げた。

「他の人を当たった方がいい。私は管楽器の経験が無いし、タクトを振ったこともない」

 男はそう言うと車に乗り込み、扉をばたんと閉めてしまう。話も聞きたくないといった風だ。

 ここで諦めてはいけない。そんな心の声が聞こえ、悲し気な表情の部員の姿すらも脳裏に蘇ってくる。

「お願いします。一度でいいので部活を見に来てください。私たちの音楽を聴きに来てください。お願いします」

 男が座る助手席の窓ガラスをバンバン叩き続けていると、車の持ち主である都会女が「やめて、ガラスが汚れる」と成香を必死に止めようとする。だが、成香は聴こえないふりを続けてガラスを叩き続けた。

「いい加減、諦めた方がいい」

 車の窓が全部開くと、成香はマンガ本を車の中に投げ入れ、男の腕をドア越しに掴んだ。

「叫びますよ」

「……どういう意味だ?」

「マンガ本を盗まれたって叫びます」

「はあ?」

「それとも痴漢にあったって叫びます」

「ちょっと待て」

「暴行を受けたと叫びます」

「おい、何を言いだすんだ」

「精神的被害を受けたと泣きます」

「君は何を言っているんだ!」

「都合がいいことに、今日はギャラリーが多いので泣き叫べは誰かが助けてくれそうです」

 成香と男の言い争いを観察すかのように、遠巻きに野次馬が集まっていて、携帯電話片手にこそこそ話をしている人もいる。

「黎君の負けね。観念した方がいいかも」

 都会女はそう言うと、運転席に乗り込んで、成香に後部座席に乗ってと指で合図する。

「さ、目的地を梧桐高校に変更するわよ」

「ありがとうございます、お姉さん」

 後部座席に乗り込み、きっちりシートベルトを装着すると、男は前を向いたまま成香に、マンガ本だけを差し出した。

「この本には冤罪の作り方が書かれているのか?」

「まさか。音楽の素晴らしさがふんだんに描かれています」

「……それこそ、夢物語だな」

 受け取ったマンガ本を鞄に片付けていると、男はそんな意味深な物言いをして、窓ガラスを閉めた。ガラスにはホラー映画かのような、手形と指紋がべったりと窓一面についていた。


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