事前の合奏
当日、維月は一人で畳の間に座って待っていた。
例によって維心は政務で忙しいので、こんな妃の遊びに付き合っている暇はない。
なので、楽器を準備して皆の到着を待っていたのだ。
本来、最後にここへ入るものなのだが、公式でもないので後からこの、重い着物を引きずって入って来るのは面倒だった。
なので、もういっそここで先に座っていようと思ったのだ。
真っ先に到着したのは、綾と桜だった。
どうやら夜明けにはバタバタとあちらを出て来たらしく、維月が座ってホッとしたかと思ったら、もう入って来たのだ。
「あら、お早いお越しですこと。」維月は、微笑んで声を掛けた。「お待ちしておりましたわ。」
綾は、慌てて入って来て膝をついて頭を下げた。
「まあ、龍王妃様。まさかお待たせしておるなんて、申し訳ありませぬわ。」
維月は、首を振った。
「後から来るのが面倒でしたので、公式でもないのですから先に座らせてもらっておったのですわ。王もご政務に出られたし、奥に居っても退屈で。」
綾は、維月の機嫌が良いので微笑んで顔を上げた。
「まあ。確かに着物が重いですものね。」と、桜を見た。「桜殿もお連れしましたの。」
桜は、綾と同じように深々と頭を下げた。
維月は、頷いた。
「ようお越しくださいましたわ、桜殿。本日はこの通り公式ではないのですから、堅苦しい事はよろしいのよ。さあ、お座りになって。」
桜は、微笑んで顔を上げた。
「はい、龍王妃様。お招き頂きましてありがとうございます。我は拙いので、不安に思うておりましたのでホッと致しましたわ。」
みんなそうだよなあと思いながら、維月は微笑み返した。
「誠にそうですわね。我だって、全く聞いたことのない曲であって、己のパートを弾くのに必死で皆様と合わせられるのかと不安でありましたから。こうして集まってくださって、とても嬉しいのですわ。」
そうして、綾も桜に頷き掛けて、侍女に促されるままに席についた。綾の侍女達が持って来ていた楽器を二人が座った前へと設置して、音を合わせて準備をする。
それを眺めながら、綾は言った。
「この琴は翠明様が、前王妃の物をお譲りくださって。とても弾きやすいので気に入っておりますの。」
維月は、それを聞いて、え、と思った。
維月には、綾は前世の記憶があると教えてくれたが、もしかしたら前世の孫に当たる、桜には何も言っていないのではないか。
なので、慎重に頷いた。
「はい。我もご合奏したことがありますので覚えがありますわ。大変な名手であられて…琵琶も扱われて、ご尊敬しておりましたの。」
維月が言うと、綾は赤い顔をした。
「ま、まあ…。あの、維月様こそ大変な名手であられると聞いておりますのに。」
自分が褒められたのではないのだから、この反応はおかしいのだが、綾にしたら維月が自分のことを知っていて言っているので、驚いたらしい。
維月はそんな綾をフフと笑って見て、他の二人が到着するのを待った。
燈子は、宮を出るのに時が掛かってしまった。
前から高湊には言ってあり、了承していたはずのことだったのに、出掛けに楽ばかりで務めがどうのと、叱責を受けてなかなか出ることができなかったのだ。
供の者にしても、最初筆頭軍神が連れて行くということになっていたはずなのに、土壇場になってあれには他にやってもらわねばならぬことがある、と言い出して、供も無しでは出られないと困ってしまった。
そこへ、高彰がやって来て、自分が行くと言ってくれた。
だがそれも、最初責務はどうしたと高湊が反対したのだが、高彰は事前に何かを気取っていたのか、全て終えていたらしく、高湊はそれ以上何も言えずにやっと燈子を送り出したのだ。
燈子は、王のご機嫌が悪いのは困ったこと、と、ため息をついた。
目の前に座る高彰は、落ち着いていて自分の子なのに時にあまりに頼りになり過ぎて、戸惑うことがある。
今も、すっきりと美しい姿で座っている高彰を見て、燈子は戸惑っていた。
「…母上?どうなさいましたか。」
高彰が言うのに、燈子はまたため息をついた。
「此度は、あなたのお蔭で助かりました。王に於かれましては、最近では大変にご機嫌がお悪いご様子で…我も、確かに胡弓の練習ばかりで王のお世話がおろそかになっておったので、あのようにおっしゃられても仕方がないのですけれど。」
高彰は、首を振った。
「母上がお悪いのではありませぬ。練習をされておっても、父上が戻られると知ったらすぐに居間でお待ちになっておりましたでしょう。父上に於かれましては、恐らくは己が今回の宴で琴を弾かれぬので、母上が合奏に加わるのがおもしろくないのでしょう。」
燈子は、驚いて言った。
「まあ、そのような事を申してはなりませぬ。王は練習のお時間も取れぬからとおっしゃっておりましたし…確かに、琴をお弾きになることもあるのですから。」
高彰は、息をついた。
「ですが、此度の事は龍王妃様とのお約束。こうして遅れてしまっては、宮の将来にも関わって来るのです。父上は、宮の事ではなく己の事を考えておられる。これではならぬとは、我は思うて見ておりました。ゆえ、此度ももしかしてと思うて、先に責務をこなしておったのです。そうでなければ、今頃まだ、母上は出発口で立ち往生されておりましたところ。」
確かにそうだった。
龍王妃を待たせるなど、下に見ていると龍王が怒っても仕方のない事だった。
行くと返事をしているのに、当日になって引き留めるようなやり方は、確かに宮のためにはならなかった。
燈子が困って黙ると、眼下に見えて来た龍の宮に、高彰はスッと険しい顔になった。
燈子にしたら、どうしてそんな顔をするのか、と不思議だったが、その意味は到着して降り立ってから、分かったのだった。
綾と桜が到着して少し、椿も機嫌よく到着して、後は燈子だけだったが、待てど暮らせど燈子は来なかった。
侍女に問い合わせてみたが、何の連絡もないようだし、もう日は高く昇っていて、茶ももう何杯目かというほど飲んでいる。
人の頃なら、トイレに行きたくなって大変だっただろう。
維月は、何かあったのかと心配になったが、しかしそれならそのうちに知らせも来るだろうしと、言った。
「…燈子様には、宮で何かおありになったのかもしれませんわね。」維月は、気を揉む他の三人を見て、気を遣って言った。「先に始めておきましょうか。後で菓子も出したいと思うておりますし、一度通しで合奏しておきたいと思うておりますの。我も初めて弾く曲ですし、綾様にお教え頂けたらと思うて。」
綾は、恐縮して言った。
「我など、そこまでの腕ではありませぬのに。ですが、鷲の宮でもよく弾いておった曲ですので、感じはお伝えできるかと。では、始めておきましょうか。」
皆は頷いて、困惑しながらも合奏を始めた。
維心は、午前中の政務を終えて、維月が畳の間に居るのを知っていたので、少し覗いてみようと宮の中を歩いていた。
もう畳の間の扉が見えて来た辺りで、祥加が慌てたように走り寄って来て、膝をついた。
「王。あの、お伝えしておかねばならぬことがございます。」
維心は、立ち止って祥加に向き合った。
「何ぞ。」
祥加は、維心の顔色を見ながら、言いにくそうに言った。
「はい。その…実は、まだ燈子様がお着きになっておりませぬ。」
維心は、眉を寄せた。
「なに?もう昼ではないか。高湊からは何か言うて来ておるか。」
祥加は、首を振った。
「それが、何も。ですが、義心に聞いたところ、燈子様はあちらを出られてこちらへ向かっているのだと。もうお着きになるかと思いますが。」
維心は、眉を寄せたまま、じっと畳の間の扉を睨んだ。
中からは琴の音が聴こえて来ているが、確かに胡弓の音は、その中には混ざっていなかった。
…どうせ維月のことだから、我に知られず何とかやり過ごそうと思うておるな。
維心は思った。
維心の正妃である維月は、維心と全く同じ立場ではないものの、その扱いは同等にせねばならない。
なぜなら、維心の正妃である維月に対する扱いを、そのまま維心に対する扱いと同じと取るからだ。
その維月の招きを、特に連絡もなくすっぽかす、もしくは大幅に遅れて来るなど言語道断で、高湊が維心をそんな風に扱っても良いと思っている、と判断されても文句は言えなかった。
だが、あの宮は高司に始まって、高晶、高瑞といろいろ不祥事の末代替わりして来た宮。
ここで維心が怒ってしまうと、また高湊は今度はまだ成人していない、高彰に代替わりさせることになる。
高彰は、確かにあの高彰であるだけあって、転生してもそれは優秀な神だった。
高湊は確かに高瑞に比べても、あまりできた王ではない。それは、仕方がないと思っていた。
何しろ、母親が罪人であって高瑞と同じような教育は付けられていないだろうし、何分高瑞は、病んでいた以外は完璧な王だったのだ。
それと比べても哀れだと、何も言わずに居た。
どうせ、高彰が育って王座に就くまでの間の中継ぎぐらいに思っていたからだ。
それぐらい、高彰はあの歳の割によくできた皇子だった。
記憶があるのかどうかは分からないが、あれだけできる皇子であるのだからどっちでも良かった。
それでも、成人するまでぐらいはこのまま高湊に王で居てもらいたいと思っていた。
なので、ここで面倒は起こしてほしくなかった。
…仕方がない、誰がついて来るのか分からないが、軍神でも良いから何を言うか聞いてくるか。
維心は、もう目前に迫っていた畳の間の扉に背を向けると、到着口の方へと足を向けた。




